近世初期は、日本絵画史上、人物画が最も盛んに制作された時期のひとつであり、特に風俗画、肖像画に多彩な展開が認められる。また、その方法として<かたち>が意識的に用いられるようなったことが目をひく。<かたち>とは、特定の画題や意味と結び付いて使われる人物の定型、その容姿、髪形、着衣、ポーズなどを含めた像容のおよそを意味する、本稿における造語である。<かたち>に焦点をあてると、画題、時代、国籍などにとらわれず作品をめぐる図像的ネットワークを探ることができる。類似する<かたち>との表現や意味の相違に基づき、当該作品の創意工夫を明らかにしたり、主題をより深く解釈することも可能となる。本稿はこれら<かたち>による分析の利点を生かし、近世初期の人物画、主に風俗画、肖像画を考えるものである。
第一部では、この時代を代表する風俗画のひとつ「伝本多平八郎姿絵」(徳川美術館)を取り上げる。無背景素地の画面の向かって左扇に若衆に文を渡そうとする禿、右扇に文を囲む四人の女のあわせて六人を描く。基本的には、遊里の往来の情景と理解できる内容である。しかし、一見そのようにみせながら、特定の人物の恋物語を表していると推定できる点が本図の眼目である。そのための工夫が<かたち>を中心とする画面構成と主題に関わる場面設定にみられる。本図の六人の<かたち>は全て既成のものである。しかも、複数の画題における<かたち>の扱いを参照し、それらを本図が目指す人物の呼応関係や構図にあわせて練り上げ、配置している。その結果、本図の<かたち>はさまざまな典拠への連想に基づいて、隣合う人物の<かたち>を互いに引き寄せ、鑑賞者の視線を一巡させる構成をつくりだしている。そして、それによって文を渡す、読む場面が恋物語としてつながる。従って、特定の典拠のもつ意味が主題に投影される、いわゆる見立て絵ではない。本図の<かたち>のこのような扱いは、無背景に人物を大きく描く点で共通する同時代の「彦根屏風」との比較によってより鮮明になる。また、文をめぐる恋の情景という主題において連関が想定できるのが、当時流行の画題文使い図と出会い図である。文使い図は遊里の女が禿から文を受け取る場面を描く。出会い図は男女の集団が野外で出会い、男が女へ文を渡す場面を表すものを指す。「伝本多平八郎姿絵」は、文を渡す場面の発想を前者に得、男を登場させ、男女を文と視線によってつなぐ構成などを後者に学んだといえる。しかし、独自に文を読む場面を加えており、そのために文使い図、出会い図よりも男女二人の関わり、恋の行く末を具体的に描き出している。従来いわれてきた、三葉葵紋を散らす着物をまとう女を千姫(一五九七~一六六六)、若衆をその再婚相手本多平八郎忠刻とする伝承の根拠は現時点では確認できない。ただし、<かたち>の工夫、独自の場面設定は、本図が特定の恋の逸話を表す注文制作であることを強く示唆していると結論できる。尚、本図の画家は、狩野孝信(一五七一~一六一八)に近い人物、制作期は寛永年間(一六二四~四四)前半と考える。また、表装は当初からのものではないが、本来、現在とほぼ同じサイズ、左右の並びが同じ二曲屏風(一隻かどうかはともかく)であったと判断する。
第二部として、江戸時代初期に活躍した大徳寺の僧江月宗玩(一五七四~一六四三)の参禅者や友人たちの肖像画を考える。これらは、<かたち>を用いたり、像主個人に由来する極めて個人的なモチーフを描き込むことで、制作者側の趣味や思いを直接画面内容に反映させている。関係者の共通の知識、認識があってこそ可能な図様であり、それ故、これらの肖像画は彼らの親しい交流の証ともいえる。そのことを特定の像主、佐久間将監、黒田忠之、春屋宗園、江月らを表す作品について、次に脇息にもたれるという<かたち>が共通する肖像画群についてみる。前者はこれまであまり知られることのなかった作品も多いが、いずれも像主や注文主、画家、賛者が一体となってつくりあげた個性的な図様をもつ。また、狩野探幽(一六〇二~七四)がその多くに関わっており、年記の明らかな彼の肖像画の優品を新たに提示できる点でもこれらは重要である。一方、後者の肖像画の数点は、従来も注目され、同じ姿勢を定型として表す古人維摩や人麿に像主をなぞらえる意図があると説明されてきた。しかし、実は、現在残るこの<かたち>の肖像画のかなりの部分は江月周辺でつくられたものであり、その内容をこの集団内での共通認識に基づいて理解することがある程度可能である。それによれば、維摩図の像容にかなり忠実にならい賛にも『維摩経』の文言を記すものから、脇息そのものに維摩や人麿その人からは離れて隠棲の高士という象徴的な意味を込めるものなどおよそ四種がある。江月をめぐる人々がこのように肖像画制作に熱心であったのは、時代状況との関わりが大きい。これらが主に制作された寛永年間を中心とする頃は、三代将軍家光のもと徳川政権が確立した時期である。そこに生まれる閉塞感、過去への哀惜といった心理的陰影が、自らのあらまほしき姿を絵画に留める衝動として大きく作用したと考えられる。