本稿は、和辻のいう「日常」概念の質と幅への考察を通じて、『倫理学』が示す「人間」とその生きる場所としての「国家」を解明することを目的とするものである。論文の構成としては、『倫理学』に提示された人間存在の理法としての「空」の思想的背景を『倫理学』以前の著書から探り出すことによって、和辻のいう「空」の道を明確にし、それをもって「人間存在」と「国家」との関係を「人倫国家」の観点から解明するという手順を踏む。
『倫理学』を「人倫国家」の観点から捉え直すことを本稿の根本テーマとしたのは、今までの和辻論、とりわけ「国家論」があまりにも批判的な観点からのみ取り扱われてきたということが背景にある。言い換えれば、『倫理学』の国家論への評価が、和辻の思想的体系をその根本から支えている彼の「思想の根」への考慮なしに、主として現実的な観点すなわちイデオロギー的観点からなされれきたという事情を鑑み、本稿では、『倫理学』にみられる人倫組織としての国家の主張を、彼自身の言葉をもって確認しつつ、それをもって和辻が目指した「人間の道」と「国家」との関係に正当な位置を与えることを第一の力点としている。一言でいえば、「人間」とは何かの問題を、「国家」という場との関わりの中で答えていく和辻の思索過程への検討が、本稿の内容となっている。
論文の内容を簡単に纏めると、次の通りである。
この論文は、『倫理学』の立場が、人間存在を「無常」「無我」「苦」として捉えている点で、原始仏教との共通地盤に立っていることを認めつつ、原始仏教には収まらない『倫理学』独自の領域を、「人倫」の観点から捉え直された「空」をもって確保することに力を注いだものである。その方法としては、竜樹に代表される「空」の思想への和辻の理解を通じて、和辻のいう「空」の性格を明確に提示することが目指されている。そして、その最後に、和辻倫理学の原型となった国家像として「アショーカ王」の国を提示する方法を取っている。なぜ、和辻の思想が仏教を思想的地盤としながら、しかもそこから分かれていくかは、つまるところは、国家の体系に仏教を取り入れた「アショーカ王」の国家の有り方への考察抜きには、その明確な解明が期待され得ないからである。その意味で、本稿は、「アショーカ王」の国を今ここに実現させようとした、和辻の「学」の体系を明確にすることをもって、なぜ『倫理学』の国家論が「人倫国家論」としての意義を持つかを、和辻の提示する具体的な人倫組織との関わりで解明しようとしたものである。
つまり、本稿は、『原始仏教の実践哲学』の立場を踏まえつつ、その道をこの世に広げる論理的模索が和辻のそれ以後の仏教研究であり、それの最終的到着点が『倫理学』の国家であったことを明確にすることに焦点をすえたものである。