本稿で議論する課題の第一は東北地域という地域概念の形成過程である。具體的に言えば,歴史的にみて東北地域という概念は何を意味するのか,そして,どのように形成されてきたのかという問題を指すものである。第二の課題は,清代と近現代を切り離さず連續的に論じることにより,長いタイムスパンのなかでの東北地域の形成過程をとらえることである。第三の問題は,東北地域内のさまざまな主體が一方で大規模經濟圏との結合を求め,他方で東北地域獨自の自立的經濟圏の形成を模索しながら,地域意識が形成されてゆくという,この過程をとらえることである。本稿は第I部と第II部の二部構成となっている。第I部では,18-19世紀の米穀流通問題,清朝の米穀流通政策と盛京(奉天)[以下,盛京]による對應などを考察對象とした。清朝の米穀流通政策に對する盛京での對應のありかたを考察した部分である。また,本稿第II部ではこの盛京という領域における行政的基本構造に注目した。具體的には,官僚人事面からみた盛京行政のありかたや光緒初年に斷行された盛京行政改革について考察した部分である。
第I部と第II部で論じた歴史過程と歴史的意義とには至極共通する特徴が確認できた。いずれも盛京における行政面での「地域」[以下,括弧を外す]形成を促進した側面を有していたことである。兩者に共通してみられた盛京における行政面での地域形成過程は以下の三點から説明することができる。第一に,18-19世紀における盛京行政の行政面での地域形成過程は,19世紀における當該領域の經濟の地域分業的なありかたと深い關わりがあった。盛京は,經濟的には中國内地との流通關係を擴大し,地域的分業體制に參加した。しかし一方では,中國内地各省との相對的行政關係を構築し,いわば「盛京將軍を中心とする合理的,一元的な行政」を形成したのである。第二に,しかし盛京では‘地方分權化’に不可缺な「地方備蓄」が缺如しており,19世紀後半の盛京における‘地方分權化’が確認できない。つまり,盛京における行政面での地域形成過程は‘地方分權化’や‘自立化’を伴うことのない過程であった。第三に,18-19世紀における盛京行政はいわば「北京政治の言いなり」という地位に置かれていた。こうした盛京行政のありかたは19世紀前半に至っても變化することはなかった。盛京における19世紀前半という時期は,北京による政治的強制や政治的介入がさらに強められた時期であり,それを受ける盛京側でも依然として受諾するだけの位置に置かれていたわけである。こうした「北京政治」の影響から盛京行政が脱却する時期が19世紀後半であった。19世紀後半における盛京行政の變容過程は,盛京五部勢力の衰退過程であり,盛京における京師勢力の相對的後退という過程であり,また「北京政治」からの別離過程であった。ただ,行政面での地域形成を達成しつつある盛京は,巨大な政治勢力・北京という影を拂拭しなければならなかったが,盛京が北京のお膝元という地理的位置に置かれていたため,北京を完全に相對化することも不可能であった。北京と盛京との兩者關係は,一面では「省間關係」であり,一面では「中央・地方關係」と位置づけられる關係であり,この二つの關係が同じ局面で表現された。盛京では他省では問題とならないような北京との「省間關係」があったため,非對等關係や「言いなり状態」をまず問題視しそれを解決しなければならないという,他省に比べて段階の一つ多い過程を歩まざるを得なかった。よって,19世紀後半の盛京における‘地方分權’過程は北京からの脱却過程に集中せざるを得なかった過程であるといえるのである。
清代における中國東北の形成過程に關し,これまでの研究成果での把握のありかたは‘中國内地への一體化’という方向に集中してきた。しかし,本稿での考察とその考察から得られた結論からは,むしろその方向性とは逆の過程を歩んでいたことが確認できる。盛京は清朝の直轄地たる「省」以上に北京の「直轄地」であり,18-19世紀の盛京はそうした「直轄地」としての地位から清朝の直轄地たる「省」への道程を歩んでいた。盛京はもともと清朝の各省よりもさらに清朝中央の近くに位置しており,盛京における18-19世紀の歴史過程とはその中心からの離脱努力の過程であった。そして,19世紀後半の盛京では清朝の直轄地たる「省」的な性格に變容するばかりか,‘地方分權化’や分業體制の必要性も一擧に到來しており,盛京ではこの過程を數十年の間に經驗しなければならなかったわけである。つまり,北京の影響に引きずられたまま‘地方分權’的な整備を目指す方向に進まざるを得なかったわけである。北京の影響に引きずられながらの‘地方分權化’指向という獨特のこの過程こそが清代における中國東北の地域形成過程であったといえる。