文学部のひと

 

文学部とは、人が人について考える場所です。

ここでは、さまざまな人がさまざまな問題と取り組んでいます。

毎月ひとりずつ、「文学部のひと」をご紹介します。

編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル、

ひとつは「今、あなたは何に夢中ですか?」、

そして、もうひとつは「それを、学生にどのように伝えていますか?」。

 

安藤 宏教授(国文学研究室)

第1の答え

わたしたちがある文章を読んで、これは小説だがこれはそうではない、と判断している基準とは、一体何なのでしょう。日本の近代の小説を、こうした、書き手と読み手の双方が創り上げていく暗黙の合意の歴史として、あるいは合意が形成され、変遷していく歴史として考えてみたい、というのが目下の一番の関心事です。

たとえば「むかしむかしあるところに~」という一節から始まれば、たとえ全くの作り話でも、聞く人は昔話の一種だと思うでしょう。これはいかに伝承をよそおうか、という、ことばの正しい意味での技術の問題です。それから、志賀直哉が父親との不和を題材にしてきた、というコンテクストが予め共有されていれば、読者は初めて読む文章でも、やはりこれを〝小説〟として読むことでしょう。これは内容の持つ伝承性の問題です。こうした技術と内容の双方から、近代小説の〝ルール〟がどのように成り立っていたのか、を歴史的に考えてみたいと思っているのです。おそらく人間の真実をことばで〝騙(かた)る〟、そのメカニズムの解明にこそ、文学研究の醍醐味が宿っているのでしょうから・・・。

 

第2の答え

演習では、小説の表現分析を徹底して行います。登場人物、語り手、作者の三つの概念を区別して、表現のメカニズムを解明していくトレーニングですね。たとえば漱石の処女作「吾輩は猫である」を分析していくと、猫の役割が章を追うごとに変化していくことに気づきます。途中で読心術を身につけるわけですが、これは全能的な視点から心理描写をするためにどうしても必要な手だてだった。そこから漱石が「小説」というジャンル認識を自分の中でどのように作っていったのかが見えてきます。

小説の個々の文章を「~た。」で統一的に終わらせる試みがどのように始まり、どのような困難にぶつかったのか、について考えてみたこともあります。近代の言文一致文体の場合、「かつてーそこにーあった」世界の客観的な提示をよそおうことが、いかに難しいかがそこから明らかになるでしょう。一方で、「小説家」のイメージが、いわば近代の伝承の根拠として社会的にどのように認知され、形成されていくか、という問題を太宰治の作品を通して考えてみたこともあります。表現の内側からと、それを取り巻く文化的な条件との両方から考えないと、「小説」の興亡の歴史を明らかにすることはできないと思うのです。

 


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