文学部総代 友井 太郎(西洋古典学専修課程)

まず、このたびの震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。そして、こうした中で卒業式に出席させて頂いたことに、深く感謝いたします。

 私は西洋古典学専修課程に所属し、古代ギリシア・ローマ文学について勉強してきました。この専攻を選んだ背景には、「古典」という言葉から連想される確かな知識への憧れがあったように思います。実際、西洋古典学には長い研究の歴史があり、確かな成果の積み重ねがありました。しかし、実際に勉強してみると古典は決して、すでに固まった確かな知識というわけではありませんでした。

 そもそも、古典作品のテクストは写本によって伝承されたもので、今も絶えず校訂が繰り返される不確かなものです。さらに、古典作品といっても一枚岩ではなく、時代やジャンル、作家によって性格が大きく異なります。そのうえ、古典作品について注釈してきた古代から現代までの先達の様々な声にも耳を傾けねばなりません。このような不確かさの中で、膨大な資料を参照しつつ、最も確からしいことは何かを地道に求める必要がありました。

 私はそれに耐えられず、いったん民間企業への就職を決めました。しかし、どんな仕事も不確かさとの戦いであるはずです。どこへ逃げても結果は同じです。そう考えると、私はもう一度だけ挑戦したくなりました。内定先や先生方、家族に無理をお願いして留年し、再び大学院を目指しました。

 落ち着いて勉強を再開してみると、新しいことに気がつきました。不確かさは、むしろ古典の豊かさにつながっているのではないか。だから、正解がひとつではありえないということは、私たちにとって絶望ではなく希望なのではないか。

 広大な世界のただ中で漫然と不確かさを嘆くのではなく、限られた領域においてではあっても、正面から不確かさに取り組もうとする態度を、私は文学部で学ぶことができたのではないかと感じています。

 さて、冒頭にも触れたとおり、震災がありました。一学生の私は心を痛めるばかりで本当に何もできません。あのとき就職していれば、日常の仕事を続けることで少しはお役に立つことができていたかもしれないのです。こんな時に文学の学生などやっていて良いものだろうか。これから文学部に進入学される方の中にも、あるいは私と同じような迷いが生じているかもしれません。

 しかし、あまりに楽観的な発想かもしれませんが、社会が世界の不確かさに震えているとき、不確かさから直接希望をくみ上げることができる文学部の役割は、たとえすぐに効果が期待できなくとも、今後ますます大きいと信じたいのです。

 私は来年度から、大学院で勉強を続けることになっています。それが可能である環境に感謝しつつ、いま自分にできることを精一杯進めていきたいと思います。

 最後になりましたが、卒業に至るまであたたかくご支援頂いた先生方、職員の皆様、先輩諸氏、友人たち、そして家族に厚く御礼申し上げます。

                                                          2011年3月24日