文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル、
ひとつは「今、あなたは何に夢中ですか?」、
そして、もうひとつは「それを、学生にどのように伝えていますか?」。

熊野 純彦教授(倫理学研究室)

第1の答え

困りましたね。「夢中になる」って、「わき目もふらない」とか「集中する」とかってことをふくみますよね。苦手、というか、「できない」んですよ、それ。ひとつは単純なことで、「あきやすい」んです。だから、なにかやりながら、ほかのことに気が向いちゃう。ちょっとまえまでカントを日本語にしながら、イヤになると日本の古典ばっか読みちらしていました。いまはハイデガーを訳しているんですが、気がつくとほうり出して経済学関係の本をよく読んでいます。もうひとつは、いつでも「こんなことをしてていいのか」「こんなやりかたでいいのか」って思ってしまう、ということです。

夢中になるっていうのは、たとえば趣味の世界でのことでしょう? 自慢じゃないけど、趣味などひとつもないし、ある意味では勉強のこと以外、本質的に興味をもっていることも、たぶんひとつとしてありません。これで「夢中になって」いたら、かなり問題だと思うんですよね。

 

第2の答え

「こんなことをしてていいのか」というのは、かっこうよく言えば、一種の「反省意識」ですし、「こんなやりかたでいいのか」というのは、しゃれた言いかたをえらべば、「方法意識」のことです。学生諸君にも、あるていど以上は身につけてほしいことのひとつです。ぼくらは「本を読む」わけですが、「趣味」で読むんじゃなくて、「学問」の対象として読むわけなので。

趣味なら、どう読んだっていいんですよ。デカルトを読んで生きる希望を持ったっていいし、ベルクソンの思考を「一篇の詩のように」読むことも自由です。だけれども、ぼくらはやっぱりそれだけでは困るわけで、「夢中になる」のではなくて、いろいろな角度から、さまざまな方法を接ぎあわせて「読む」ことを、学生諸君といっしょにこころがけています。方法は語学的なものだったり、思想史的な文脈への参照であったり、なにより論理と経験の脈絡を再構成することであったり、いろいろです。でも授業中、そういう説明に熱が入ったりするとき、ぼくのことばつきはもしかしてちょっと「夢中」かもしれません。

 

主要著書: 『西洋哲学史』(全二冊、岩波新書)
  『日本哲学小史』(編著、中公新書)

 

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