松田 陽(文化資源学)

人は、実にたくさんの選択をしながら生きていくが、私が今の専門にたどり着く上で決定的となった選択は何だったか。開陳して誇れるようなものがあればよいのだが、出てこない。自分自身が選んだというよりも、環境や状況が選んだ、という思いの方がはるかに強いからだ。
今に至るまでの道のりが川だとすると、舟に乗って、流されながら下ってきた。大河ではなく小川。舟も、笹舟のように小さい。たくさんの石にぶつかって進路が変わり、風雨を受けて進路が変わり、流され、流されつづけて、今の地点にいる。主体的に生きることが重んじられる今日の風潮を考えると情けない航路かもしれないが、本当なのだから仕方ない。
とは言え、自ら笹舟に乗り込んだのだし、小さな棹を幾度か思いきり突いたことも事実だ。それらは選択と言えるかもしれないので、そうした感覚のある思い出をたどってみる。
高校時代、受験勉強をしているうちに、世界史が面白いと感じるようになった。社会や文化、国、文明といったものの栄枯盛衰を引きおこしたものが何かを考えることに夢中になり、大学で学びたいと思った。『マスターキートン』の影響もあったかもしれない。こうして文学部の門を叩くことになったのだが、受験の目標を下げるつもりか、と叱られたことを覚えている。それでも、自分が学びたいことを見つけた喜びを実感していたので、貫いた。
大学に入り、西洋史学専修課程に進学した。興味深い文献をたくさん読んだが、二年間学ぶうちに、文字情報だけから過去を考えることへの限界を感じるようになった。と、格好つけて言ってみたが、忍耐力がなかっただけである。同期の佐藤昇の話を聞き、こういう優秀な人のための学問だと痛感したことも大きい。
ともあれ、文学部での学びが霞を食うことのように思えてきて、自分はもっと実社会なるものを知らねばならないと考えた。そこで民間企業に就職する。が、実社会を知り始めると再び学びたくなって、大学院人文社会系研究科に戻ることにした。
ここで好奇心が湧き、古代ローマ遺跡の発掘調査に参加することになる。文字ではなく、遺構や遺物といったモノ資料から過去を考えたいと思ったからだ。文学部時代に強めた古典考古学や美術史学への関心にも後押しされた。
イタリアで参加したこの発掘調査が、たいそう面白かった。さまざまな意味で、脳天をガツンと叩いてくれるような経験だった。そこで、ローマ考古学を専門にしようと考えたが、イタリアで仲良くなったドメニコ・エスポジト、通称ミンモと話していて、打ちのめされる。幼少期からポンペイの遺跡内で遊んでいたというミンモは、ローマ考古学の道をまっしぐらに突き進んでいた。ローマ考古学の隅から隅まで知っているこんなやつに、自分は絶対にかなわない――勝手にそう思ってしまった。いかにも青臭いが、どうせやるなら世界で一番になれるようなことをしたいと、本気で思っていた。

この敗北感が、新たな道をひらく。その時までに私はすっかりローマ遺跡に魅了されていたのだが――杉山浩平兄さんと一緒にたくさんの遺跡を訪れたものだ――こうした遺跡を現代社会にもっとうまく位置づける方策を研究しようと考えるようになった。これなら、ミンモらにも負けず、世界の第一線で勝負できると思えた。
ちょうど、人文社会系研究科に文化資源学研究室が創設される時期だった。現代社会で遺跡という文化資源をいかに保全・活用していくのかを考える場が、運良く目の前にあらわれた。加えて、英国留学用の奨学金をもらえることになり、以後、東大とユニバーシティ・カレッジ・ロンドンという二つの大学にて、修士課程と博士課程の学びを修めることになる。途中、パリのユネスコ文化遺産部でインターンシップとコンサルタントの仕事をし、またイタリアでの発掘調査にも毎年夏参加したので、ずいぶんと濃密な時間だった。自分の専門は、考古学と現代社会との関係を探究するパブリックアーケオロジーであると、迷いなく言えるようになった。
この間、持ち金が底をつき、将来の見通しも立たず、お先真っ暗という辛い思いもした。昼食代をいかに2ポンド以内におさめるかに日々苦慮したものだ。英国時代は、私のキャリアにとって断トツに最良の期間であったが、人生のどん底を経験したのもこの時である。考古学には過去はあるが、未来はない――とよく言った。そこそこウケた。
ここで、セインズベリー日本藝術研究所に拾われる。ポスドクならぬ、ミッドドクターとでも呼ぶべきフェローシップをいただき、人生初の研究イコール仕事という経験をロンドンでした。実力で勝ち取ったというよりは、人の縁で授けてもらった、という感覚だ。
フェローシップに救われて博士号を取得した後、英国の大学に就職したいと願うようになった。研究を続けたかったからであり、英国の大学がどのように意思決定をしているのかを内部から見たいと思ったからでもある。ありがたいことに、この願いも人の縁によって叶い、美しい歴史的都市ノリッチにあるイーストアングリア大学で教鞭を取ることになった。
大学就職をしたところ、専門を広げる必要を感じ、パブリックアーケオロジーに加えて、文化遺産研究の看板をかかげるようになった。文化遺産研究であれば、人間社会と過去との幅広い関わりを探究できると考えたからだ。こうして、建築、美術工芸品、文書、用具、祭礼、技術、景観、出来事、慣習のように、「歴史的」や「伝統的」といった言葉を前につければ成立するおよそすべての事象を考察対象にするようになった。考えること、調べることが無限に出てきて、研究に飽きることがなくなった。イーストアングリア大学が珠玉の大学博物館を擁していたこともあり、博物館研究も手がけるようになった。

そうしているうちに東大より声をかけてもらい、2015年から文化資源学研究室にて奉職することになった。文化を「ことば」と「おと」と「かたち」を手掛かりに根源に立ち返って見直そうとする文化資源学は、文化遺産研究と親和性があり、自然と古巣に戻ることができた。
以上、今の専門にたどり着くまでの過程を、「私の選択」がなるたけ浮き彫りになるように振り返ってみたが、何がどこまで主体的な選択であったのかは、やっぱりよくわからない。笹舟に乗って川を流されてきた、という私の実感も、少しはおわかりいただけたのではないかと思う。
私の選択は、この拙文を読む若い方々にはあまり参考にならない気がする。いかにも型のない道を進んできたものだと、我ながら思う。でも、人のキャリア選択なんて、意外とそんなものかもしれない。
生きている中で、人は無数の小さな選択をし、またいくつかの大きな選択をするのだろうが、どこまでが本当に自分の選択であるのかは曖昧だ。「悔いのない人生を過ごそう」などとよく言うが、私の実感からすると、どのような選択をしようと悔いは残るし、それが人間だ。それでもやっぱり、各々の場面で選択をしつづけていくしかない。