八尾 史(インド哲学仏教学)

私の選択、と呼べるようなことを大学に入ってこのかたした記憶がありません。歩きだしてしまった方角へ先も見えずに歩いているうちに二十何年経っていて、いまだに先が見えません、などというぱっとしない話をするのもためらわれるのですが、それでも進路に迷っている人の考える材料になることが多少はあるかもしれませんので、思いつくままに来歴を書きます。
仏教の勉強をすることと研究者になることは、高校二年のときに決めていました。それでいて仏教学が何をする学問なのかは知りませんでした。というより、仏教学と呼ばれる学問が存在することを知りませんでした。もちろん、研究者が何をする人なのかも知りませんでした。
埼玉県の公立中学、高校に通っていた十代のころ、宗教や思想にかかわるものを読んだり見聞きしたりするのが好きで、記紀神話や『ハディース』やエル・グレコの宗教画もおもしろかったのですが、とりわけひきつけられたのが仏教でした。何がきっかけだったのかはわかりません。というより、単一のきっかけなどはなかったのでしょう。日本文学を読めば仏教はごろごろ出てきますし、宮沢賢治は特別好きな作者の一人でした。中学の修学旅行以来広隆寺の弥勒菩薩像にとりつかれていて、ついでにそれを生んだ弥勒信仰の、五十六億七千万年後の救済というむやみなスケールの大きさにもとりつかれていました。高校の修学旅行で京都を再訪してからは病膏肓に入るで、世界の終わる日には太秦にいなければならぬ(その日に東海道新幹線が動いているかどうかが問題だ)などと本気で考えたりしていました。そのうえチベット仏教関連の本を読みあさってこれはたいへんなものだということになり、仏教を知らねばならぬ、という思いいれができあがったのだと思います。調べたら東大文学部にインド哲学仏教学専修課程というものがあったので、そこへ行けば仏教の勉強ができるのだろうという単純な考えで文科三類を受験しました。
入学後はせっせとサンスクリット語の授業に出たり、いろいろな分野の講義を楽しく聴いたりしていましたが、一年の秋学期に本郷で開講されていた下田正弘先生の学部・大学院共通の講義に出たのが、今から思えば研究という世界を垣間見たはじめだったように思います。それは仏教研究についての講義でした。近代の仏教学が19世紀ヨーロッパで生まれた学問であることを知って仰天し、神のいない宗教に出会った西洋人の驚きを追体験し、その後の授業も刺戟の連続でした。おもしろいと同時に難しくもありましたが、必死にノートをとるうちに漠然と理解しはじめたのは、学問をするということは学問の名で自分が何をしているかを問うことでなくてはならない、ということでした。とはいえ仏教学なるものの内実はわたしにはいまだ曖昧模糊としていました(文献学という言葉を知ったのはもう少し後で、それはもっとわかりませんでした)。
「印哲」はやめといた方がいい、と駒場の理工系の先生に言われたのはたしかそのころです。進学先どうするの、と授業後の飲み会で聞かれたときのことで、印哲です研究者になろうと思います、と答えたらそう言われたのでした。就職先がないというのが理由だったと記憶します(よくある誤解です)。親切心からの助言だったにちがいありませんが、言われた方は馬耳東風で、迷わずそのまま印哲に進学しました。
就職のことは何も考えていませんでした。
そんなふうに進学に躊躇はなかったのですが、しかし本郷で行われていたことのてごわさは想像を超えていました。毎日サンスクリット文献講読の予習に明け暮れ、学部の二年間くらいではちっとも読めるようにならず、仏教のことは勉強すればするほどわからなくなっていくような気がしながら大学院に進学しました。


院には入ったものの、修士論文で何を研究したらいいのかわからず途方に暮れました。先輩から「根本有部律(こんぽんうぶりつ、インド仏教の僧院規則文献)」の中の経典というテーマを勧められ、何の考えもなく「それやります」と答えたのが因縁のはじめで、今にいたるまでそれをやっています。博士論文では根本有部律の「薬事」という章をチベット語訳から日本語訳することになりました。これは苦行でした。全部で四百葉(フォリオ)ほどある「薬事」の葉番号を一枚の紙に印刷して、毎日進んだところまで印をつけることにしましたが、半葉しか訳せない日もよくありました。ただただ混沌とした説話の羅列に頭が麻痺していくようで苦痛でならず、人類の叡智に触れている気はさらにせず、論文を提出しても達成感はありませんでした。提出の翌々日に夜行バスに乗って隠岐に行き、三日ほど海をながめていました。水は透き通ってきれいで、コピーして持っていった『後鳥羽院御口伝』はちんぷんかんぷんでした。
博士号取得後は、あちこちの公募に落ちたり拾われたりしながら研究員の職を転々としました。カナダでポスドクをした三年間を含め、研究に専念できる環境に長くいられたことは幸運でした。「薬事」との因縁は続いていて、それというのも呪われたことに今度は英訳を始めてしまったからでしたが、そうやってしつこく読んだおかげで、この奇妙な文献の中で何が起こっているのかが段々薄皮をはぐように見えてきました。五里霧中で和訳をしていたときには素通りしていたチベット語訳と漢訳の重要な違いや、一見無秩序でいて何か意味がありそうでひっかかっていたエピソードの配列の中に、「薬事」編纂者が何をしていたのかを示す手がかりが隠れていたのです。

一方、思いがけない幸いでとりかかることになった「薬事」サンスクリット写本断片の解読という仕事がありました。細かくちぎれてばらばらになった写本でしたので容易ではありませんでしたが、作業自体は苦にはならず、むしろ中毒になるくらい没頭していられました。うんざりするほどチベット語訳を訳して内容が頭に入っていたからできた部分もありました。読み取れた僅かな文字列から新しいことがわかると嬉しく、それを学会発表や論文にして人に伝えるのも楽しくなりました。
後から考えると、「留学」と「写本」は学生時代に敬して遠ざけていたことでした。前者の理由はわたしの英会話能力がお話にならなかったからで、後者についても、興味関心はありながら、自分が何かできるとは思っていませんでした。しかしどちらもいざ直面してみると、しないという選択肢はありませんでした。そして得るところは数えきれないほどありました。
その後就職をして教育にも携わるようになりましたが、字数も尽きました。誰か迷っている人の参考とはいわず、励ましにでもなればさいわいです。