塩塚 秀一郎(フランス語フランス文学)

「役立ちたくないので数学者と文学者に憧れている」。つい最近、こう嘯いている人を見かけた。理科1類に入学しながらフランス文学を専攻した私の選択も、煎じ詰めればそういうことだったのかもしれない。数学志望から英文学に転じた若島正さんは、子供の頃から日常のあらゆることが面倒でならなかったが、数学だけは人間の垢を免れた清潔な世界と映じていたという。自分にもそんな気持が確かにあった。

私が数学の面白さに惹かれ始めたのは中学二、三年の頃だった。背伸びして手に取った位相幾何学や集合論の書物には、厳密な論理の果てに茫然とするほど摩訶不思議な世界が広がっていて、論理と驚愕が結びつきうると知った感動は今なお忘れられない。「数学者の狂気と詩人の論理」とは、あるフランス作家に捧げられた評言であるが、当時の私はまさに「狂気と論理」が等しく支配する別世界を見出したのだ。数学的対象とは実在なのか観念なのか議論は分かれるようだが、実在であれ観念であれ、数学と自然の関わりや社会的事象への応用といった話題に私はまるで関心がなかった。人間にも社会にも目を向けていないのだから、この頃、私の文学部への適性は皆無だったと言わざるを得ない。

数学を捨てて文学を選択したのは、高校から大学入試を挟んで進振りまでの数年間に、悩み抜いた挙げ句の結論だった。その間の迷走をここに書き連ねたところで誰かの進路選択に資するとも思えないからやめておこう。ただ、数学に決定的な物足りなさを感じるようになったとだけ述べておく。数学者にして作家の藤原正彦さんは、数学と文学はいずれも「美」を事とする点で共通しているものの、「死」あるいは「時間」を内包しているか否かという点が大きく異なる、という趣旨のことを書いている。私が文学に引き寄せられたのは、生が有限であるという当たり前の事実を、ようやくその年頃になって切実に感じ始めたからだったようにも思う。

とはいえ、これまた当然のことながら、「死」を内包した文学作品を読書体験として享受することと、学問として研究することの間には、大いなる径庭が存在している。数学を深く識りたければ、学問として実践する他ないとの覚悟も定まるだろうが、文学と付き合うスタンスとしては、「研究する」ことが唯一の道ではないばかりか、もっとも避けるべき態度のようにすら感じられた。「文学者」とは、作家はともかく研究者と呼ばれる人たちは、文学作品を相手にして、いったい何をしている人種なのか。大学入学直後の私にとって、文学作品をめぐる評論や翻訳者として、「文学者」の名を見かけることはあったにせよ、彼らがどんな「研究」をしているのかは皆目分からなかったし、知りたいとも思わなかった。

厳密この上ない数学を「学問」のモデルに見立てて知的形成を遂げてしまったせいか、数学以外のどんな領域であろうと、生物学であれ、経済学であれ、「ナンチャッテ学問」のように見えてしまい、これ見よがしに学問的な口吻に対して故なき滑稽さや軽蔑を感じるようになったのは、後々まで尾を引く数学の後遺症であった。ただ、「文学」の領分に入り込んでみて分かったのは、そこでは、創作者、批評家、編集者など、研究者とは異なる仕方で文学と関わり、有意義な仕事を成し遂げている人たちが大勢いるおかげで、研究だけが重要視されているわけではないということである。学者が大きな顔をしていない分野というのは、大学を構成する数多くの学問のなかでも珍しい部類なのではあるまいか。

冒頭に掲げた言葉に見られるように、数学者も文学者も「役立つ」ことに恬淡としているとのイメージを持たれがちなようだ。私自身は文学研究が役立たないとは思わないけれど、自ら「役立つ」と言い募ることには気恥ずかしさや胡散臭さを感じずにはいられない。一方で、近年の大学では盛んに「役立つ」研究が求められるようになった。大学当局の言う「お役立ち」とはいったい何のことなのか、大学にお金をもたらすことなのか、民草の生活を向上させることなのか、私にはよく分からないけれども、そもそも、文学研究に限らず、人文学というものは、「役立つ」という価値基準自体を肯定的に捉えうるものなのか、というところから考えずにはいられないものだ。「役立つ研究をせよ」と言われてもいそいそと従えないから、文学部の学問は大学をめぐる三十年来の改革狂騒の中で居心地の悪い思いをする羽目になっている。

今や数学に憧れて過ごした時間よりも文学研究に隠れ住んだ時間が長くなってしまった私も、若かりし日の「選択」とは別の文脈で、大学で学問をする意味について考えることがある。あの時選ばなかった数学の世界、俗塵に無縁の清らかな世界で、敬愛する数学者の皆さんも苦労されているのではなかろうか。「稼げる大学」だの「大学ランキング」だの、馬鹿げた尺度に、数学なら人文学よりうまく適応できるものだろうか。知恵深き数学者たちは、「役に立つ」という基準をじつに大様に捉えているようで、数百年後のサイエンスに利用されればよい、とか、面白い問題は応用範囲の広い結果を生む、とかいう理屈によって、近視眼的な成果よりも、自らの興味を純粋に追求する姿勢を貫いているように見える。とはいえ、ポストや研究費などの面では、数学も楽ではないという話が伝わってくる。私がどういう選択をしたところで、役立つことを求められる世の中では苦労する定めだったということかもしれない。

それでも、文学部にひっそり棲息しつつありがたく思うのは、成果主義も競争も遠ざけようとする場所が大学の中にいまだ残っていることである。役立ちたくないなんて、いい歳してそんなことでいいのかな、と思うこともあるけれど、有益な人、有用な物は世の中に溢れているんだから、私が無理することもないのだろう。