設楽博己(考古学)
考古ボーイという言葉をご存じだろうか。遺跡をうろついて、落ちている遺物を採集する趣味をもった男の子のことである。「ボーイ」の年齢の定義は定かでないが、小学生、せいぜい中学生であり、高校生には適用されない。
高校生ともなれば、学習効果の結果、日本の歴史もかなりよく理解するようになるが、そうではないころ、つまり幼いころにわけも分からず得体のしれないものに興味をひかれてのめりこむ習性をつよく反映したことばと、わたしは勝手に理解している。化石採集や切手集めなどと同じである。
「ボーイ」というからには、男の子特有の趣味である。これまで、考古ガールだったわよ、という方に出会ったことが、ほとんどない。なぜだろうか。わたしの研究テーマである。だったわよ、という方は、ぜひご連絡を。
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群馬県の前橋市に生まれたわたしは、小学校2年生のときから付近の遺跡をうろつく筋金入りの考古ボーイであった。そのきっかけは、三つ年上の兄が、社会科の授業で日本史を習ったことにある。
兄のクラスメートに、おやじさんが土建業のひとがいて、田んぼの工事現場から石の斧や矢じりなどをもって帰り、その子が学校にそれをもっていき、縄文時代のものではないかと騒ぎになった。それから兄とわたしの遺跡通いがはじまる。天地返しの初春と晩秋~初冬が書きいれ時。もっとも「収穫」が多かった。現在、ここは遺跡として登録され、西新井遺跡と呼ばれている。
兄のクラスメートのお宅の隣には、群馬大学で考古学の教授をされていた尾崎喜左雄先生が住んでおられ、訪問して遺物を見ていただいた。私の拾った土製耳飾りを兄の矢じりと交換したのは正解だったのか、もじもじしながらうかがうと、「弟さん、損をしたね」と奥様とともにやさしく頬笑まれた。尾崎先生はとうの昔に亡くなられたが、目をつぶるとその時の顔がぼんやりとよみがえってくる。
春はひばりの鳴き声を聞きながら、冬は赤城おろしに身を縮ませておよそ10年間、高校生になってからも西新井遺跡に通いつめて採集した遺物は、たいへんな数になった。土器の破片は数100片、石鏃(矢じり)246個、スクレイパー(石のナイフ)13個、打製石斧(土掘り具)23個、磨製石斧(伐採具)3個、磨石・石皿類(ドングリなどの木の実の製粉具)25個、石錘(魚をとるための網のおもり)6個、土偶(呪術的な土製の人形)9個、土製耳飾り87個、土版・岩版(護符)2個、石棒(石で男性器を模した祭りの道具)7個などである。
級友を巻き込んでの採集活動であったから、さらに多くの遺物を採集したことになる。兄の級友は、ヒスイの勾玉も採集した。
西新井遺跡の土器が、縄文時代の後半期のものであることがわかったのは、考古学を本格的に学習するようになってからだった。最近研究が進んだ放射性炭素年代測定による実年代でいうと、いまからおよそ4300年前から2700年前である。
兄は、そののちお医者さんになったが、わたしはそのまま大学の考古学に進み、考古学者になった。
大学は静岡大学に考古学の講座があることから入学した。指導していただいたのは市原壽文先生。リュックサックにつめた遺物を先生のもとで広げると、静岡県の清水天王山遺跡という西新井遺跡と同じ時期の遺跡を発掘調査されていた先生は、清水天王山遺跡からもかなりの数出土していた土製耳飾りが多量にあることに目をとめられ、これを卒業論文にしてはどうかとすすめていただいた。
本格的に考古学を勉強するようになったことを尾崎先生にご報告しようと、大学2年生のころに先生のお宅にお伺いした。お会いするのはあのとき以来だったが、わたしのことをなんとなく覚えていただいてはいた。しかし、先生のお顔に笑顔はなく、考古学を学ぶ姿勢を厳しく問われた。
「そうかい、考古学を勉強するようになったか」と、なつかしいお部屋でやさしい言葉のひとつもかけていただきたかったわたしは、悄然とお宅を立ち去った。しかしこれは、もはや考古学は子どもの遊びではなく、厳しい世界に入ったのだという、決別の出来事でもあった。子どものころからの夢が実現できていいですね、と人からいわれると、尾崎先生のもう一つのお顔が、今度ははっきりと思い出されるのである。
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いまや、考古ボーイも絶滅危惧種であろう。なぜか田畑に行っても遺物があまり拾えない。切り通しで竪穴住居の黒い落ちくぼんだ痕跡にお目にかかる機会もほとんどなくなった。
わたしは中学・高校と郷土クラブに所属していたが、いまの高校生に郷土クラブはあるの?と聞くと、なんですかそれ?という顔をする。郷愁の響きをもった「郷土」という言葉がわたしは好きなのだが、いまは郷土クラブというのも見かけなくなり、郷土という言葉自体もあまり聞かれなくなってしまった。
先日発表された政権の大綱に、教育の一環として愛国心を育て、郷土を愛する気持ちを育むという指針がうたわれていた。郷土に対する思いは、それこそ土器拾いのように自然や歴史に触れながらおのずと湧きあがってくるものであって、国から強制されるようなものなのだろうか。戦前の郷土教育が愛国心を植え付けて忠誠を誓わせるための国策に利用されたことを思うと、なつかしさよりも悪事に利用されなければよいがという、心配の方が先に立つ。
昨今、大学で考古学を専攻する学生に、かつて考古ボーイだったというものをほとんどみかけなくなった。考古学専攻の動機は様々であってよいが、同じ境遇のものの減少に対しては少しさみしい気がするとともに、考古ボーイの絶滅を招くような、真の意味でのゆとり教育の欠如を遺憾に思う。
藤森栄一が書いた少年、青年向けの考古学の本をむさぼり読んだものだが、考古ボーイを生み出す書物もめっきり減った。あるいはそうした本を出版して、それを読みそれを追体験する余裕を失った社会の現出、それが考古ボーイ衰退の一因なのかもしれない。
縄文時代の記述が、小学校の教科書から一時消えた。考古ボーイ絶滅のカウントダウンは、教育や社会全体の衰亡を告げているように思えてならない。