文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
稲田 奈津子 准教授(日本史学研究室)
古代史を研究する上で一番の難関は、残存史料が少ないということです。歴史学は、基本的に文字で書かれた手がかりをもとに、過去のできごとや社会を復原していく作業です。しかし、古代史の場合には残された史料が圧倒的に少ないので、わずかな手がかりからどのように古代史像を復原していくのか、これが最大の問題であり、腕の見せどころということになります。
私の場合、ひとつには中国・朝鮮との比較という手法を用いることにより、よく知られた史料を別の角度から見直すことで、その難関に立ち向かおうとしてきました。「未知の新史料」を用いて論じることがほぼ不可能な古代史研究の場合、分析視角の新鮮さや鋭さといったものが、とても大きな意味を持っています。
もうひとつ、大切にしたいと思っているのが、実物と対峙するということです。数少ない古代史料ですから、そのほとんどは活字化・データ化されており、書籍やオンラインで簡単に内容を知ることができてしまいます。たとえば近世史の研究者が、未翻刻史料を求めて研究対象の地域に足を運び、膨大な古文書群と格闘しながら研究するのとは違い、古代史研究者はやろうと思えばアームチェアに座りながら論文が書けてしまったりします。
文学部に異動してくる前に在職していた史料編纂所では、史料調査にたびたび参加しました。古代史料はもちろん、それ以外の時代の史料調査も経験させてもらい、先輩方から調査の方法や着眼点など、実物からしかわからない情報をいかに引き出すかを学びました。おもしろかったのは、調査方法には正解がないということ。熟練した先輩方から学ぶことはもちろん多いのですが、調査経験が浅いからこそ気が付くこともあって、史料を見る目の数だけ発見があるということを知りました。
史料は、書かれている内容だけに価値があるのではありません。その素材や加工、運筆やレイアウト、劣化や補修の様子など、実物が伝える情報は多岐にわたり、そこから作成の背景や目的、利用や伝来といった多くの歴史事象を復原することができるのです。
史料編纂所で学んだ調査手法をもとに、所外でも様々な調査に参加しました。特に印象に残っているのが、文学部をかなり前に退職された老先生との拓本調査です。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、ある巨大な古代石碑の拓本がさかんに製作されました。老先生はこの石碑を研究するために、全国に散在する拓本を調査していました。石碑が巨大なので、拓本をとるための紙も巨大でなければならず、小さな紙を何枚も貼り継いでいます。調査は、この小さな紙1枚1枚が貼り継がれた順序を確認するという、かなり地味なものでした。調査データは、拓本の製作年代を数年単位で推定する手がかりとなるのですが……まあ、これも地味な成果ですよね。決して、教科書を書き換えるような華々しい成果をあげる調査ではありません。
調査団を引き受けてくださった拓本所蔵機関の方々も、最初は雲をつかむようなお顔で調査を見守っているのですが、老先生が夢中になって調査にとりくみ、目を輝かせながら成果を説明するのを聞くうちに、どんどん史料に魅了されていく場面を何度も目撃しました。老先生が拓本調査について講演したときには、「石碑の名前は聞いたことがあるけれど…」といった様子で参加した(動員された?)学生さんたちが、講演の最後には身を乗り出して聞き入っていたのが印象に残っています。老先生のお話しは、内容としてはやはり地味な調査成果ではあるのですが、学問の喜びに満ちた表情で熱心に語られる姿は、感動的ですらありました。
長い年月を経て現代に残された史料は、それぞれに歴史を背負い、実物だけがもつパワーを秘めています。それを読み解く作業は、モノをとおして過去の人びとと対話するようで、とても楽しいひとときです。老先生のように、年齢を重ねてもなお溢れる情熱を持ち続けられるか、私には自信がありませんが、それでも実物と対峙することで古代に触れる喜びを、学生にも伝えられればと願っております。
私の場合、ひとつには中国・朝鮮との比較という手法を用いることにより、よく知られた史料を別の角度から見直すことで、その難関に立ち向かおうとしてきました。「未知の新史料」を用いて論じることがほぼ不可能な古代史研究の場合、分析視角の新鮮さや鋭さといったものが、とても大きな意味を持っています。
もうひとつ、大切にしたいと思っているのが、実物と対峙するということです。数少ない古代史料ですから、そのほとんどは活字化・データ化されており、書籍やオンラインで簡単に内容を知ることができてしまいます。たとえば近世史の研究者が、未翻刻史料を求めて研究対象の地域に足を運び、膨大な古文書群と格闘しながら研究するのとは違い、古代史研究者はやろうと思えばアームチェアに座りながら論文が書けてしまったりします。
文学部に異動してくる前に在職していた史料編纂所では、史料調査にたびたび参加しました。古代史料はもちろん、それ以外の時代の史料調査も経験させてもらい、先輩方から調査の方法や着眼点など、実物からしかわからない情報をいかに引き出すかを学びました。おもしろかったのは、調査方法には正解がないということ。熟練した先輩方から学ぶことはもちろん多いのですが、調査経験が浅いからこそ気が付くこともあって、史料を見る目の数だけ発見があるということを知りました。
史料は、書かれている内容だけに価値があるのではありません。その素材や加工、運筆やレイアウト、劣化や補修の様子など、実物が伝える情報は多岐にわたり、そこから作成の背景や目的、利用や伝来といった多くの歴史事象を復原することができるのです。

史料編纂所で学んだ調査手法をもとに、所外でも様々な調査に参加しました。特に印象に残っているのが、文学部をかなり前に退職された老先生との拓本調査です。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、ある巨大な古代石碑の拓本がさかんに製作されました。老先生はこの石碑を研究するために、全国に散在する拓本を調査していました。石碑が巨大なので、拓本をとるための紙も巨大でなければならず、小さな紙を何枚も貼り継いでいます。調査は、この小さな紙1枚1枚が貼り継がれた順序を確認するという、かなり地味なものでした。調査データは、拓本の製作年代を数年単位で推定する手がかりとなるのですが……まあ、これも地味な成果ですよね。決して、教科書を書き換えるような華々しい成果をあげる調査ではありません。
長い年月を経て現代に残された史料は、それぞれに歴史を背負い、実物だけがもつパワーを秘めています。それを読み解く作業は、モノをとおして過去の人びとと対話するようで、とても楽しいひとときです。老先生のように、年齢を重ねてもなお溢れる情熱を持ち続けられるか、私には自信がありませんが、それでも実物と対峙することで古代に触れる喜びを、学生にも伝えられればと願っております。
稲田 奈津子 准教授(日本史学研究室)
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/people001871.html
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/teacher_00024.html
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/people001871.html
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/teacher_00024.html