文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
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編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
古田 徹也 准教授(倫理学研究室)
自分にとってよく分からない概念、謎として立ち現れている概念を、自分で十分に理解したと思えるまで、あれこれ多面的に考え続ける。――これが、自分の研究の実質的な中身なのだと思います。
たとえば、「謝罪」という概念。たんに「ごめんなさい」と言ったり頭を下げたりしただけでは謝ったことにならない、というケースがたくさんあります。子どもが悪さをして親に叱られるケースを考えてみましょう。その子は親の顔色をうかがいながら、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい……」と言い続けたり、「もう、『ごめんなさい』と言ったよ!」と不貞腐れたりしてしまう。そんな子に対して親は、「違う違う! ただ『ごめんなさい』と言えばいいってもんじゃないんだよ」というふうに言い聞かせる。
でも、それなら何をすれば謝ったことになるのでしょう。声や態度に表すだけではなく、ちゃんと申し訳ないと思うこと、ちゃんと責任を感じることが必要だ、と言われるかもしれません。けれども、「申し訳ないと思う」とか「責任を感じる」とはそもそもどういうことでしょうか。そして、そのような思いや感覚を相手に伝えるだけで、果たして「謝った」ことになるのでしょうか。
あるいは、「運」という概念。勉強や仕事などでよい成績をあげて褒められたとき、私たちは、「いやいや、運がよかっただけです」と謙遜することがあります。この種の発言は、自分はたまたまよい成績をあげたのであって、自分に本来備わっているもの(知識、才能、性格、等々)とは関係がない、という意味でしょう。でも、別の場面では私たちは、「幸運の星の下に生まれた人」とか「強運の持ち主」というふうに、まさに特定の人物に備わる安定した属性として、運を語ることもあります。これはいったいどういうことなのでしょうか。
「運」と「偶然」は同じではありません。たとえば、私たちは「運がよい」とか「運が悪い」とは言いますが、「偶然がよい」とか「偶然が悪い」とは言いません。また、「偶然」とはまさに、何の因果関係もなく、そのつど偶発的に出来事が生じるさまを表すわけですが、「運」の場合には、一定の継続性ないし傾向性が認められることも少なくありません。実際、私たちはしばしば、「運が向いてきた」と言ったり、「運が続いている」と喜んだり、「もう運の尽きだ」と悲しんだりするわけです。
では、結局のところ「運」とは何なのでしょうか。この概念と、たとえば「運命」や「めぐりあわせ」といった概念のあいだには、どこか似たところと、異なるところがあるように思えます。では、具体的にどう違うのでしょうか。
「謝罪」、「運」、「責任」、さらには「行為」、「心」、「言葉」といった、私たちの社会や暮らしの基礎になっている概念――それゆえ、倫理学という学問の主題とおのずと一致する概念――について、それらの中身を明瞭にとらえることを、私はこれまで試みてきました。
ただし、それはなにも徒手空拳の営みであるわけではなく、何人もの導き手に頼ってきました。私の場合、それはとりわけウィトゲンシュタイン(1889-1951)という、オーストリア出身の哲学者です。
ウィトゲンシュタインは、「言う」であれ「思う」であれ、あるいは「理解する」、「読む」、「歩く」等々であれ、私たちにとってごく基礎的な概念の内実を、多様な角度から、異様なほど繊細に解きほぐしていきます。彼のその歩みが記された遺稿を丹念に跡づけることで、これらの概念が何を意味するかについて重要な手掛かりが得られるとともに、「謝罪」や「運」といった他の概念に関しても、探究の方法を学ぶことができます。同様に、他の重要な哲学者たちのテクストにも、驚くほど豊かな理解やアイディアが詰まっています。哲学の古典の精読という営みは、本当に創造的で、刺激的で、実に愉しいものです。
私は普段、言語学や歴史学、法学、社会心理学、社会学、人類学などの知見からも非常に多くのことを学んでいますが、やはり自分の研究の中心にあるのは、哲学の古典をゆっくり、よく読むことです。それは、私の関心が常に、概念を理解することにあるからでしょう。私たちの生活に根を張っている馴染み深い概念、当たり前の概念の内実が、あるときにふと、とても不明瞭に思えてくる。その混乱した状態を解決するためには、哲学者たちの入念で執拗な思考が最も大きな助けになるわけです。
自分にとって不明瞭な概念が理解できるようになる。これはたんに、自分の主観の内部で完結した自己満足などではありません。
たとえば、「謝罪ってそもそもなんだろう」という問いに向き合い、その意味を深く探究していくと、ある段階で、「本来、謝罪とはこういうものではないか」という、ひとつの理念的なかたちが見えてきます。そうすると、その理念ないし理想と、社会のなかで実際に横行している謝罪とのギャップも明らかになってくる。そして、このズレに目を向けることは、現実に対する批判的な視点をもつことに直結します。これは「謝罪」にかぎらず、概念の探究を進める過程で私がしばしば実際に経験してきたことです。
いま現在の社会に関していえば、「生成AIには感情があるのか」とか「生成AIは言葉を理解しているのか」といった問題がよく語られています。けれどもそこでは、そもそも「感情」とは何か、「理解」とは何かという、概念に対する問いがなおざりにされている面が否めない。概念の意味を明確にしようとすることなく、なんとなく雰囲気で語られているケースがほとんどだと言わざるをえない。それでは、たんに混乱して途方に暮れているだけです。あるいは、問題に向き合わずに誤魔化しているだけです。
倫理学をはじめとする哲学系の分野は、そのようなところで足をとめ、腰を据えて、古くから人間の社会や生活のなかに息づく概念の分析にじっくりと取り組み、重要なポイントをいくつも明らかにしてきました。それは、「感情」や「理解」といった概念についても同様です。だから、この分野はずっと古くて、ずっと新しい。
古くさい原理的なことがらについて地道にちまちまと探究していたはずが、思いがけず、しかし必然的な仕方で、いま現在のアクチュアル(現在的)な問いに結びつき、この現実を吟味して批判する重要な視点を提供する。――そのようなことが、確かによく起こります。これが、私が研究している分野の意義と魅力のひとつだと言えるでしょう。
たとえば、「謝罪」という概念。たんに「ごめんなさい」と言ったり頭を下げたりしただけでは謝ったことにならない、というケースがたくさんあります。子どもが悪さをして親に叱られるケースを考えてみましょう。その子は親の顔色をうかがいながら、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい……」と言い続けたり、「もう、『ごめんなさい』と言ったよ!」と不貞腐れたりしてしまう。そんな子に対して親は、「違う違う! ただ『ごめんなさい』と言えばいいってもんじゃないんだよ」というふうに言い聞かせる。
でも、それなら何をすれば謝ったことになるのでしょう。声や態度に表すだけではなく、ちゃんと申し訳ないと思うこと、ちゃんと責任を感じることが必要だ、と言われるかもしれません。けれども、「申し訳ないと思う」とか「責任を感じる」とはそもそもどういうことでしょうか。そして、そのような思いや感覚を相手に伝えるだけで、果たして「謝った」ことになるのでしょうか。
あるいは、「運」という概念。勉強や仕事などでよい成績をあげて褒められたとき、私たちは、「いやいや、運がよかっただけです」と謙遜することがあります。この種の発言は、自分はたまたまよい成績をあげたのであって、自分に本来備わっているもの(知識、才能、性格、等々)とは関係がない、という意味でしょう。でも、別の場面では私たちは、「幸運の星の下に生まれた人」とか「強運の持ち主」というふうに、まさに特定の人物に備わる安定した属性として、運を語ることもあります。これはいったいどういうことなのでしょうか。
「運」と「偶然」は同じではありません。たとえば、私たちは「運がよい」とか「運が悪い」とは言いますが、「偶然がよい」とか「偶然が悪い」とは言いません。また、「偶然」とはまさに、何の因果関係もなく、そのつど偶発的に出来事が生じるさまを表すわけですが、「運」の場合には、一定の継続性ないし傾向性が認められることも少なくありません。実際、私たちはしばしば、「運が向いてきた」と言ったり、「運が続いている」と喜んだり、「もう運の尽きだ」と悲しんだりするわけです。
では、結局のところ「運」とは何なのでしょうか。この概念と、たとえば「運命」や「めぐりあわせ」といった概念のあいだには、どこか似たところと、異なるところがあるように思えます。では、具体的にどう違うのでしょうか。
「謝罪」、「運」、「責任」、さらには「行為」、「心」、「言葉」といった、私たちの社会や暮らしの基礎になっている概念――それゆえ、倫理学という学問の主題とおのずと一致する概念――について、それらの中身を明瞭にとらえることを、私はこれまで試みてきました。
ただし、それはなにも徒手空拳の営みであるわけではなく、何人もの導き手に頼ってきました。私の場合、それはとりわけウィトゲンシュタイン(1889-1951)という、オーストリア出身の哲学者です。
ウィトゲンシュタインは、「言う」であれ「思う」であれ、あるいは「理解する」、「読む」、「歩く」等々であれ、私たちにとってごく基礎的な概念の内実を、多様な角度から、異様なほど繊細に解きほぐしていきます。彼のその歩みが記された遺稿を丹念に跡づけることで、これらの概念が何を意味するかについて重要な手掛かりが得られるとともに、「謝罪」や「運」といった他の概念に関しても、探究の方法を学ぶことができます。同様に、他の重要な哲学者たちのテクストにも、驚くほど豊かな理解やアイディアが詰まっています。哲学の古典の精読という営みは、本当に創造的で、刺激的で、実に愉しいものです。
私は普段、言語学や歴史学、法学、社会心理学、社会学、人類学などの知見からも非常に多くのことを学んでいますが、やはり自分の研究の中心にあるのは、哲学の古典をゆっくり、よく読むことです。それは、私の関心が常に、概念を理解することにあるからでしょう。私たちの生活に根を張っている馴染み深い概念、当たり前の概念の内実が、あるときにふと、とても不明瞭に思えてくる。その混乱した状態を解決するためには、哲学者たちの入念で執拗な思考が最も大きな助けになるわけです。

たとえば、「謝罪ってそもそもなんだろう」という問いに向き合い、その意味を深く探究していくと、ある段階で、「本来、謝罪とはこういうものではないか」という、ひとつの理念的なかたちが見えてきます。そうすると、その理念ないし理想と、社会のなかで実際に横行している謝罪とのギャップも明らかになってくる。そして、このズレに目を向けることは、現実に対する批判的な視点をもつことに直結します。これは「謝罪」にかぎらず、概念の探究を進める過程で私がしばしば実際に経験してきたことです。
いま現在の社会に関していえば、「生成AIには感情があるのか」とか「生成AIは言葉を理解しているのか」といった問題がよく語られています。けれどもそこでは、そもそも「感情」とは何か、「理解」とは何かという、概念に対する問いがなおざりにされている面が否めない。概念の意味を明確にしようとすることなく、なんとなく雰囲気で語られているケースがほとんどだと言わざるをえない。それでは、たんに混乱して途方に暮れているだけです。あるいは、問題に向き合わずに誤魔化しているだけです。
倫理学をはじめとする哲学系の分野は、そのようなところで足をとめ、腰を据えて、古くから人間の社会や生活のなかに息づく概念の分析にじっくりと取り組み、重要なポイントをいくつも明らかにしてきました。それは、「感情」や「理解」といった概念についても同様です。だから、この分野はずっと古くて、ずっと新しい。
古くさい原理的なことがらについて地道にちまちまと探究していたはずが、思いがけず、しかし必然的な仕方で、いま現在のアクチュアル(現在的)な問いに結びつき、この現実を吟味して批判する重要な視点を提供する。――そのようなことが、確かによく起こります。これが、私が研究している分野の意義と魅力のひとつだと言えるでしょう。
古田 徹也 准教授(倫理学研究室)
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/k0001_02322.html
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/7340.html
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/k0001_02322.html
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/7340.html