文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
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編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
木下 華子 教授(国文学研究室)
中世の日本文学を研究しています。日本文学史における中世は、平安時代後半の院政期をおよその始発として鎌倉・南北朝・室町時代、1100年代から1500年代までのおよそ500年を指します。摂関政治から院政へ、貴族の世から武士の世へ、鎌倉幕府滅亡の後に室町幕府が成立するも南朝・北朝という二つの王朝が対立、その合一の後も平穏は続かず、応仁の乱を経て群雄割拠と下剋上の戦国時代へ。中世とは、戦禍を伴いながら社会システムが幾度も再構築される動乱の時代と言ってよいでしょう。つまり、私は、中世という乱世に生み出されることば・表現・作品のあやと、それらを育む人や社会のあり方に関心があるということになります。
平安時代末期、いくつもの戦乱を経験した寂然という歌人が、次のような今様を残しています。
・あるにはかなき ものはよな まがきの朝顔 野辺の露 稲妻陽炎 水の泡 夢よ幻 人の命 (唯心房集)
夕べを待たずに萎む朝顔、置いては消える野辺の露、転瞬のうちに閃く雷光、ゆらめく陽炎、生成と消滅を繰り返す水の泡、夢、幻、そして人の命。七五調のリズムの中に、「はかなきもの」が次々と並べられています。自然も人事も、この世における一切の存在は変転し、同じ状態を保つことはできない。それを私たちは「無常」と言いますが、無常なる事象に囲まれ、無常の存在として生きるのが人だということかもしれません。人の命から社会システムに至るまで、変化に直面せざるを得なかった中世という時代、文学は無常の中から紡ぎ出されるものだったのだろうと思います。
ならば、中世文学は無常なのか、はかないものかというと、そのような言葉ではどうにも足りません。和歌史の金字塔とも言ってよい『新古今和歌集』、現在まで広く愛される『平家物語』、思索の結晶としての『方丈記』や『徒然草』、くすりと笑ってしまうような説話の数々をおさめる『宇治拾遺物語』。中世と言えば、今に生きる古典が次々と思い浮かびますし、和歌・連歌、説話、軍記、能・狂言、御伽草子、様々なジャンルの文学が前代からの伝統を受け継ぎながら革新を遂げ、エネルギッシュに展開する時代です。無常の乱世から、いったいどんな生命力をもって、これほどの作品が創り出されるのか。どんな魅力が、何百年もの時を超えて、今なお私たちの心を打つのか。
無常から出発してたくましい創造を行う人々の営為、この不思議な矛盾に満ちた世界のあり方を、ことばを核として解き明かしたい。その魅力を、理路を、論じたいと思いながら、研究を進めています。
『徒然草』第13段に、次の一節があります。
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。
この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
兼好にとって、和漢の書物を読み、理解することは、「見ぬ世の人を友とする」ことでした。彼は「あはれ」という共感を抱いていますが、この時、いにしえの書物は遙かなる時間も場所も超えて、南北朝の日本を生きる兼好の今に響き、「友」として働きかけています。そのような力をもつ作品を、私たちは古典と呼ぶのだろうと思いますが、『徒然草』も中世に生み出される多くの作品も、現代を生きる私たちにとっての「見ぬ世」の「友」。ならば、中世文学を、中世に限らず古典文学を研究することは、「見ぬ世の人を友」として、現代を、今ここに生きる私たちを考えることだとも言えるでしょう。
いにしえの書物から中世の『徒然草』へ。中世の古典文学から現代へ。そして、現代の私たちから次の時代へ。私たちの営為が次代の人々に「見ぬ世」の「友」をつなげ、彼らの「見ぬ世」の「友」となれるならば、そのような連なりの中に自分を置けるならば、こんなに魅力的なことはないのかもしれません。
平安時代末期、いくつもの戦乱を経験した寂然という歌人が、次のような今様を残しています。
・あるにはかなき ものはよな まがきの朝顔 野辺の露 稲妻陽炎 水の泡 夢よ幻 人の命 (唯心房集)
夕べを待たずに萎む朝顔、置いては消える野辺の露、転瞬のうちに閃く雷光、ゆらめく陽炎、生成と消滅を繰り返す水の泡、夢、幻、そして人の命。七五調のリズムの中に、「はかなきもの」が次々と並べられています。自然も人事も、この世における一切の存在は変転し、同じ状態を保つことはできない。それを私たちは「無常」と言いますが、無常なる事象に囲まれ、無常の存在として生きるのが人だということかもしれません。人の命から社会システムに至るまで、変化に直面せざるを得なかった中世という時代、文学は無常の中から紡ぎ出されるものだったのだろうと思います。

ならば、中世文学は無常なのか、はかないものかというと、そのような言葉ではどうにも足りません。和歌史の金字塔とも言ってよい『新古今和歌集』、現在まで広く愛される『平家物語』、思索の結晶としての『方丈記』や『徒然草』、くすりと笑ってしまうような説話の数々をおさめる『宇治拾遺物語』。中世と言えば、今に生きる古典が次々と思い浮かびますし、和歌・連歌、説話、軍記、能・狂言、御伽草子、様々なジャンルの文学が前代からの伝統を受け継ぎながら革新を遂げ、エネルギッシュに展開する時代です。無常の乱世から、いったいどんな生命力をもって、これほどの作品が創り出されるのか。どんな魅力が、何百年もの時を超えて、今なお私たちの心を打つのか。
無常から出発してたくましい創造を行う人々の営為、この不思議な矛盾に満ちた世界のあり方を、ことばを核として解き明かしたい。その魅力を、理路を、論じたいと思いながら、研究を進めています。
『徒然草』第13段に、次の一節があります。
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。
この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
兼好にとって、和漢の書物を読み、理解することは、「見ぬ世の人を友とする」ことでした。彼は「あはれ」という共感を抱いていますが、この時、いにしえの書物は遙かなる時間も場所も超えて、南北朝の日本を生きる兼好の今に響き、「友」として働きかけています。そのような力をもつ作品を、私たちは古典と呼ぶのだろうと思いますが、『徒然草』も中世に生み出される多くの作品も、現代を生きる私たちにとっての「見ぬ世」の「友」。ならば、中世文学を、中世に限らず古典文学を研究することは、「見ぬ世の人を友」として、現代を、今ここに生きる私たちを考えることだとも言えるでしょう。
いにしえの書物から中世の『徒然草』へ。中世の古典文学から現代へ。そして、現代の私たちから次の時代へ。私たちの営為が次代の人々に「見ぬ世」の「友」をつなげ、彼らの「見ぬ世」の「友」となれるならば、そのような連なりの中に自分を置けるならば、こんなに魅力的なことはないのかもしれません。
木下 華子 教授(国文学研究室)
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/k0001_02307.html
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/7346.html
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/k0001_02307.html
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/7346.html