堀江 宗正(死生学応用倫理)
このエッセイのテーマは「私の選択」なのだが、それは本当に「私の選択」なのか。人文社会系研究科の教員なら、誰もがそう疑問に思うだろう。仮に、そのような疑問はおくびにも出さないようなエッセイを書いていたとしても、どこかにそのような疑問を隠し持っている。そう信じたいところがある。
このエッセイを読む人には、ぜひ私のUTOKYO VOICESという教員紹介インタビューも併せて読んでいただきたい。「人々の話(ストーリー)の中から現代人の死生観や倫理観が浮かび上がる」というタイトルの記事だが、自分の研究姿勢や研究内容をコンパクトに的確にまとめてくれている(インタビュアーに感謝)。
その中で、人生の出発点として、「自分はどうして生まれてきたんだろう」という問いがあったと語っている。4歳の頃の話である。それからしばらく後に降りてきたのは「人間の幸福のために生きろ」というメッセージだった。当該記事ではインタビュアーが相手なので控えめな語りになっているが、これは、ある種の神秘体験であり、啓示を受け取ったと言ってよい瞬間だった。
記事で語っていないことがある。それは自分が、いわゆる新宗教の信仰を持つ家庭に生まれ、最近よく使われるようになった「宗教2世」に似た環境で育ってきたということである。上記の体験には、そのような背景があるだろう。教祖もやはり「人間の幸福のために生きろ」に近い教えを説いていたからである。しかし、そこにはどこか自分自身の幸福のために、というニュアンスがあったと記憶している。それに対して、自分一人の幸福のために生きるのは、あまりにも小さい、という反抗心が芽生えた。自分と他者の幸福を包摂するような幸福をあくまでも目指してゆこうというのが、そのメッセージの意味を深く考えて出していった結論である。
私は、その教団の指導者たちが、自身の持つカリスマ性を自覚すると分派してゆくという歴史を、後に学んだ。また実際の指導者たちの言葉や態度から、プライドや自尊心が彼らの「選択」を狂わせているのだと洞察した。そして、呪術的な力よりも、無我や愛などと言った教えを備えた宗教の方がより進んでいるのではないかと考えた。ある物事が、より大きな視点から見て、またより長期的な視点から見て妥当なのかどうかを反省するという営みを、長く続いている宗教は、システマチックに組み込んでいる。そのような反省的行為を通して、何らかの徳性を養おうとしている。そうして人格をみがいている人が多くいるため、組織は長続きする。それでいて、自己の限界を自覚するところに、より大きな存在、時間を超えた存在への認識が開けてくる。このような循環が理想的だと思い描くようになった。
高校時代には、こうした反省的な営みを学問的に遂行しているのは、心理学、中でも精神分析だと考えるようになった。大学に入るとエーリッヒ・フロムの思想に触れ、ますます心理学への憧れを強めた。かくして、文学部時代には心理学研究室に所属したのだが、当然と言えば当然だが、自分が探究しているのは、もっと宗教に近いけれど、宗教ではない何か(今日的にはスピリチュアリティ)だと思うようになってゆく。それは勉学から距離を置くことにつながった。同時に、幼い頃から所属していた教団からも離れ、既成宗教と新宗教に関する書物をあさるように読んでいった。
これらとは別に音楽活動に精を出したこともあり、学問からはどんどん遠ざかり、授業にも出席しなくなった。結果として、あともう少しというところで、単位を落とし、留年に至る。あるレコード会社への就職が内定していたが、それも白紙となる。
こうして、いわゆる何ものからも宙ぶらりんになり、ついでに付き合っていた彼女からも振られ(後に結婚するが)、自分の存在の意味が分からなくなり、いわゆる鬱の状態になり、それを打破しようと、色々なものに飛びつき、最終的に自分は何かを勉強し続けるしかないと思うようになる。
ある日、図書館が終わるまで本を読み、外に出ると真っ暗な闇の中に安田講堂が浮かび上がっていた。誰もいない大学に自分だけがいて、世間からどんなに取り残されても、自分には何かを学ぶということができる。それだけでいいじゃないか。最後までここで学問を続けてゆく。ふつふつと、そのような思いがわき上がってきた。これも一種の神秘体験、回心体験だったと思う。
人生とは不思議なものである。この挫折と「根拠のない立ち上がり」があったから、私は現在この大学の教授として教鞭を執っていられるのだ。厳しい裁定を下して、留年に導いてくれ、決して学生に妥協することのなかった心理学の高野陽太郎先生には感謝するばかりである。
捨てる神があれば拾う神もある、と言うべきだろうか。自分を拾ってくれたのは宗教学の島薗進先生だった。もちろん、島薗先生は拾ったつもりはなかったかもしれない。勝手に「危ない奴」が付いてきたという感じだっただろう。私はと言えば、先生は新宗教の研究者なのだから、「この人ならきっと自分のすべてを理解してくれるに違いない」という思い込みで付いて行ったのだと思う。それもある種の教祖崇拝に近いものだった可能性はある。後に自分が宗教的な権威主義から徐々に離脱すると、先生との関係は、より人間的なものへと変容していったのだが。
回心の前までは、大学の授業というものはサボるものであり、テストやレポートは、人のノートで対策するものだという不真面目な学生だった。そこには小中高を通して教師というものにいだいてきた不信感がある。だが、大学院進学後は、一変した。授業はすべて出席するものであり、不真面目な学生を見たくないので最前列に座り、出席したからには必ず教師に質問をすることに決めた。その時に発見したのは、意外にも自分が他の院生より英語をよく読め、文章を書くのが早いということであった。そして、よく分からないテクニカルタームやジャーゴンを弄することを嫌う性質が、それまでは哲学や思想への接近を阻んでいたのだが、かえって本格的な学究には好都合かもしれないということであった。もしかして学者に向いているのではないかと次第に思い始めたのは博士課程に進んでからのことである。
とはいえ自分は、これらすべてを「私の選択」として生きてきたわけではなかった。何か大いなるものに突き動かされ、導かれており、選択しているというより、それ以外に自分が生きる道はなかった、というのが正直なところである。
生まれた場所が、足尾銅山鉱毒事件の被害地の隣だったということもあり、現在は田中正造の研究に少しずつコミットしているところだが、田中正造にひかれるのも、彼が同じく公共に奉仕することを人生の指針とし、目の前で困っている人をやむにやまれず、助けなければならないという惻隠の情に突き動かされた人だったということが大きいと思う。それ以外にそう生きるしかなかったという人格の見本が、自分の故郷で活動していたという事実は、目に見えない形で自分を支えている。
東京大学も、またそういう場所なのではないかと思う。世間では悪い学者たちの巣窟のようなイメージを持たれているが、私がここで、これまで出会ってきた学者は、皆どこかに使命感のようなものを宿していると感じさせてくれる。
教師として後進のものを指導するといっても、こうした自分の生き様や学問への姿勢を押し付けてよいものかどうかは、ためらわれる。中には、自分の好きなことしかやらない、ということを心がけて、そのポリシーに忠実に生きている研究者もいる。それも立派だと思う。
ただ最後に付け加えるとしたら、やはりエーリッヒ・フロムの言葉である。自分が自由に選択しているように思っているとき、それはその人の性格構造に規定されており、実は不自由なのだという警句である。それを自覚し、その選択が生をもたらすか死をもたらすかを基準とすると、おのずから選択は決まってゆく。自分の場合は、それがより多くの人の幸福につながるか、否かという基準になる。
私の選択は、きっとこれからも「私の選択」ではないだろう。