藤井 光(現代文芸論)
2008年の夏の数日、僕はアメリカのアイダホ州北部の山間地に滞在していた。そのとき翻訳していた小説の作者デニス・ジョンソンが、そこに居を構えていて、自宅を誰にでも開放する期間に招いてくれたのだ。
地元で詩を専門とする出版社を経営している女性、大学の創作科でジョンソンの授業を取っていた若手作家たち、文芸誌の編集者の男性、ジョンソンの姪たち。そうしたカラフルな面々が、山麓の一軒家に集い、思い思いに数日間を過ごしていた。文芸誌の編集者はかつて原稿料の支払いをジョンソンに断られてしまい、そのかわりに山小屋をひとつ建てる約束をして、毎年この時期に遊びに来て小屋作りに勤しんでいた。
ジョンソンの教え子のひとりが、新婚カップルとして来ていた。イリノイから車で一週間ほどかけてアイダホに来ていて、そのあとオレゴンに向かうのだという。ジョンソンは初対面だったほうの人に、「きみも作家なの?」と訊ねた。そうです、という答えを聞いて、ジョンソンはひと言だけつぶやいた。「じゃあ、ふたりとも呪われてるわけだな」
みんなが笑った。その言葉はジョンソンなりの、ベテラン作家から若手への冗談めかしたエールだった。それから9年後、ジョンソンは世を去った。
今になって「選択」というテーマで文章を書くにあたって、その「呪われてる」という言葉は、どうしても僕の脳裏に蘇ってくる。作家であること、何かを書くことが、選択ではなく呪いのようにして引き受けざるをえないものだとしたら、僕にとって、その作家が書いたものを研究すること、翻訳することはどういう意味を持つのか。小説に応答するように論文を書いたり、訳文を作るという形で言葉を書いていくとき、僕はどこまでその言葉を「選択」したと言えるのだろうか。
2010年、そのとき翻訳していた小説『紙の民』の作者であるサルバドール・プラセンシアに会うために、ロサンゼルスを訪れた。僕より4歳くらい年上のプラセンシアは、小説に出てくるロサンゼルス近郊の町エルモンテのあちこちを案内してくれた。車を運転しつつ、プラセンシアは生い立ちを少しばかり話してくれた。8歳でメキシコからアメリカに移住した彼は、家族も親戚もブルーカラーの労働者ばかりという環境で育った。そのなかで、プラセンシアは作家になりたいとはなかなか言い出せず、まわりには教師になるつもりだと語っていたという。
『紙の民』の原書The People of Paperは、2005年に出版された。その5年後に僕が会いに行ったとき、プラセンシアは第二長編を完成させるべく奮闘している最中だった。本人いわく、ページが綴じられた本ではなく、トランプカードのセットのように、箱のなかに一枚一枚ばらばらのページが入れてあって、読者がどうシャッフルしても読める物語にしたいのだという。「あと一年で完成すると思う」とプラセンシアが誇らしげに言っていたその小説は、僕がこの原稿を書いている2024年春の時点で、まだ日の目を見ていない。20年かけて一冊の本を書くことになるとは、作家本人も予測していなかっただろうし、果たして完成するのかもわからないが、それでも断言できることがある。その本を書くか書かないか、という選択肢は、プラセンシアにはなかったのだ。そして、その「呪い」を引き受けて日々頭を絞っている作家本人は、実に楽しそうだった。
2014年にシカゴに行ったのは、レベッカ・マカーイに会うためだった。そのときはマカーイの短編集『戦時の音楽』を翻訳していたのだった。せっかくなので、シカゴで一番好きな場所はどこですか、と聞いてみると、ダウンタウンの古風なビルに連れていってくれた。芸術家たちのための空間として1885年に造られたその建物には、僕が訪ねていったときも、音楽教室やギャラリーが多数入居していた。建物のなかを歩き回るのが、マカーイにとっては何よりも心安らぐ時間なのだという。その建物の玄関の上には、“All passes—art alone endures.”という言葉が刻まれていた。「すべては過ぎ去る——芸術のみが時を超える」。
マカーイはハンガリー生まれの父親を持つ作家である。祖父は第二次世界大戦中のハンガリーで、反ユダヤ主義的な法律を成立させた政治家だった。そのくだりを、マカーイ自身が短編の題材にしている。孫娘は祖父の過去について多くを知らないまま成人し、やがては戦争を背景として、罪悪感を主題とする短編を多く書くようになる。自分の創作はどこまで自分で選択したものなのか。それとも、祖父が代表する暗い歴史の力に動かされて小説を書いているのか。その問いは小説となり、芸術に変えられることで、作家という個人のもとを離れて、未来の読者に拡散していく。
僕が初めて翻訳した小説は、ジョンソンの『煙の樹』というベトナム戦争の物語だった。プラセンシアの『紙の民』は、移民たちが土星を相手に戦争を始めるという奇妙な小説だった。マカーイの『戦時の音楽』では、第二次世界大戦の記憶を21世紀にどう保持すべきか、という問題があちこちに顔を出す。つまり、どれも戦争小説なのだ。その三人に限らず、ダニエル・アラルコンの『ロスト・シティ・レディオ』はペルーの内戦、テア・オブレヒトの『タイガーズ・ワイフ』は旧ユーゴスラビア内戦をモデルとした寓話的な小説だし、アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』は第二次世界大戦中のヨーロッパ、ハサン・ブラーシムの『死体展覧会』はイラク戦争後の混沌を舞台としている。僕の翻訳との付き合いは、戦争文学と切っても切り離せない。
なぜ戦争文学にこだわってしまうのか。学部4年生のとき、大学院に入るという選択肢をなんとなく考え始めた2001年の夏に、アメリカの同時多発テロ事件が発生して、そこからアメリカがふたたび戦争に突入していったことに衝撃を受けたせいかもしれない。でもおそらく、そうした自覚的な選択よりも大きな要素がある。父方の祖父の戦争体験である。
祖父は軍人だった。情報機関の所属だったそうだが、祖父本人は自分の体験について詳しいことはまったく語らないまま、戦後45年ほどして世を去った。ただ、中国やインドネシアに派遣されていたこと、背中にいくつも傷があったこと、夜中に悪夢にうなされていたことなどは、家族も知っている。でも、多くは空白のまま残されている。そして言うまでもなく、その空白には無数の死者たちがいる。
もちろん、その空白は今では埋まることはない。でも、現在から過去に向けて応答しようと試みることはできる。そしてどういうわけか、現代のアメリカ文学や英語圏文学、とくに戦争の物語を研究したり翻訳したりすることが、僕なりに応答するやり方だった。
そのことを、最初から自覚していたわけではない。この分野の勉強をするようになって10年ほど経ってようやく気がついた。目の前にある興味を追いかけて、現代のアメリカで生きる作家たちの言葉に向き合っていたら、それは僕自身と過去とのつながりを新しい形で作り直すことでもあったのだ。何十年もかけて研究と翻訳を続けていく、それは僕にとっては選択する以前のことだった。気がついたときには、もう選択は終わっていた、とも言えるかもしれない。
今、デニス・ジョンソンにその話をすることができたなら、「きみも呪われてるな」と彼は言ってくれるだろうか。