長屋 尚典(言語学)

人と違うことがしたい。

私は言語学研究室でフィリピンやインドネシアで話されるオーストロネシア語族の言語を研究しているが、なぜ私が今の専門分野を選択したかと聞かれれば、結局のところその一言に尽きる。

子どものころから人と同じことをするのが大嫌いで、スーパー戦隊シリーズなら赤色よりも青色のキャラクター、『コロコロ』よりも『ボンボン』、VHSよりもベータ、『ごっつ』よりも『元気が出るテレビ』、スーファミよりもメガドライブにかっこよさを感じる子どもだった (学生のみなさんはわからないと思うので Wikipedia で調べてください)。そのような性格だったので、得をするよりも損をすることの方が多かったが、それでも、人と同じように生きて死んでいくのはなんとなく嫌だった。

そんなひねくれ者の私が子どものときから興味があったのが言語だった。私は岡山県の限界集落で生まれ、中学に入るまで一人で信号を渡ったことがないような田舎で育ったが、小学校のときから習い事でやっていた英語の勉強は好きだった。自分が知らない言葉のルールが存在し、そのルールを勉強すればそれを話す人々とコミュニケーションできるという事実がなんとなく愉快だったのかもしれない。

言語に関する興味がいよいよ強くなったのは、中学生のころ、哲学だか現代思想だかの本を読んでソシュールのことを知ってからだ。言語記号の恣意性とか emic/etic とかいう言語学の基本的な概念や、レヴィ=ストロースの文化人類学や言語相対論などの考え方に触れて、もっとこのような勉強をしたいと思った。自分の話す日本語とは異なる構造や発想を持った言語を学び、それについて理解したいと思った。

高校に入ったころには、ふだん授業で勉強している言語の文法に特に関心があって、英語や古文、漢文について勉強するのが趣味だった。わからないところがあれば先生に聞いたり、図書館で調べてみたり、本の記述に納得がいかなければ自分で文法規則を考えて本の記述を修正してみたり、今から考えると言語学者のまねごとのようなことに没頭していた。

何がそんなに楽しかったのかというと、文法が美しかったからである。英語のテンス・アスペクトの体系を表 (パラダイム) にして悦に入ったり、英語で補文節をとる動詞を意味ごとにグループにわけてみたり、そういう作業が楽しかった。一方で、表に欠けているところがあると落ち着かなかったり、係り結びのように何のために存在するのかわからない文法現象を習ったときなどは不安で夜も眠れなかったりした。

幸いにして、岡山の片田舎の本屋でも受験参考書はある程度揃っていて、英語なら『ロイヤル英文法』や『英文法解説』などの文法書を、古文なら『古文研究法』などの参考書を買って愛読していた。週末には岡山市の丸善や紀伊国屋などの大きな本屋に行って、気の向くままに本を買って読んだ。その頃読んだ本としては、池上嘉彦先生の『記号論への招待』や木村英樹先生の『中国語はじめの一歩』などが特に思い出深い (大学に入ってからこの先生方の講義を受けることになるとは想像もしていなかった)。

そんな高校生だったので、東大に入学するころには言語学を研究したいと思うようになっていた。その気持ちは駒場の時にさらに強くなった。当時の駒場には言語学の授業がたくさんあったからである。なかでも、後に私の指導教員となる西村義樹先生の授業は衝撃的だった。授業の冒頭、ソフトな声で、やや恥じらいながら「みなさん、『トイレを流す』というとき、『トイレ』は何を指していますか? 『トイレに行く』というときの『トイレ』と同じですか?」という問いかけをなさり、「トイレ」という単語の意味構造を熱心に教えてくださった。「トイレ」のような日常の単語にもこんな多義性があるのかと感動した。

こういうわけだから、進学振り分けでも言語学を勉強できるところを選択しようとすぐに決めた。しかし、問題があった。今もそうだが当時の東大にも言語学を研究できる進学先がいくつもあったのである。選択をしなければならない。そんななかで私は言語学研究室を選んだのだが、それはなぜか?

それはやはり人と違うことがしたかったからである。みんながやっている言語をみんながやっている方法でやるのは、天の邪鬼の自分には耐えられないことだった。みんながやっていない言語を、みんながやっていない方法でやりたいのである。そうなると、できるだけ人がやっていない「変わった」言語を研究できるところがいい。さらに、相変わらず英語は好きだったので英語を使って研究もしたいし、いつか世界のどこかに留学したい。

この二つの条件を同時に満たしていると思ったのは言語学研究室だった。今もそうであるが、言語学研究室は、日本語や英語だけでなく世界のどんな言語の研究もできる。また、世界のどんな小さな個別言語にも対応する必要があるからこそ普遍的な方法論を志向し、それゆえに、授業テキスト・資料も英語を使うことが多い。まさに自分のためにあるような研究室だった。

実際、その選択は正しかった。当時の言語学研究室にはモンゴルやらグルジア (当時の呼び名) やらエチオピアやら韓国やら台湾やら中国やらペルーやら、世界のあちこちの「変わった」言語を研究している先輩たちがいた。飲み会では、フィールドワークの話をしたり、摩訶不思議な文法現象についてニコニコ語り合ったりしていた。授業では分厚い英語の教科書を渡され、課題も英語で提出するなど、英語も勉強できた。そのときはできたフランス語でソシュールの Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes を読む演習に参加し、ゴート語の辞書を引いてこなかったという理由で叱られたこともあった。

そうこうしているうちに3年生も終わりに近づき、卒論について考えなくてはならない時期になった。私は卒論でフィリピンの言語、特にタガログ語を研究することに決めた。その理由は何か?

それはやはり人と違うことがしたかったからである。タガログ語はそんな自分にうってつけの言語だった。なにしろ動詞が文の最初に出現するのである。日本語の反対である。日本語なら「花奈がパンを食べた」というところ、Kumain ng tinapay si Hannah というように、「食べた を パン が 花奈」という。とても変わっている。しかも、当時の言語学研究室だけでなく、日本でも研究者があまりいなかった。他にも理由はあるのだが、人と違うことができるというのが一番の理由で私はタガログ語の研究を始めた。そして、その研究を続けて現在に至る。

このように、私の選択は人と違うことがしたいという気持ちに突き動かされてきた。それがよかったかどうかは正直よくわからない。よかったこともあれば、わるかったこともある。でも、後悔はない。勉強したいことを勉強し、昨日知らなかったことを今日知ることができる。それはとても幸せなことだ。

駒場の学生のみなさんには、一回きりの人生だから、他人のことなんか気にせずに、自分の勉強したいことを選択してほしいと思う。もしも私のように「変わった」言語が勉強したいなら言語学研究室に来るといいと思う。そのときは、歓迎する。