加藤 隆宏(インド哲学仏教学)
私たちは何かを選択する時、完全に自由に自分の意志や努力でそれを選び取ることができているのでしょうか。自分の経験に照らして考えてみると、どうもそういうわけではない気がします。私たちが選択できるものには限りがあって、初めから選びたくても選べないものもたくさんあります。古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』には、すべては「運命」によって決められているという極端な見解が紹介されます。「いかなる人間でも運命に逆らうことはできない。運命のみが目的を達する。人間の努力は無益である。」『マハーバーラタ』V.40.30(上村勝彦訳、ちくま学芸文庫)確かに、私たちのあずかり知らないところで、私たちが好むと好まざるにかかわらず、様々なことが決定づけられていることを私たちはよく知っています。私たちは生まれてくる場所を選ぶことができませんし、生まれること自体、私たちがコントロールできることではありません。老い、病、そして死など(仏教ではこれを生老病死の「四苦」とよびます)についても、私たちの選択に関係なく、避けがたく身にふりかかってきます。私たちは日々、自分たちがコントロールできない何か(神の計画、宇宙の法則、『マハーバーラタ』流にいえば「運命」、あるいは、インド的には私たちが過去になした自らの行為の結果、すなわち「業」等々)によって選択そのものを制限されていると言えます。
しかし、このような見方を突き詰めていくと、上でみたような、「人間の努力は無益である」といった、少し困った結論が見えてきてしまいます。修行や善行の実践を通じて幸福に向かおうとする古代インドの人々にとって、努力が無意味であるという帰結は特に受け入れがたいものがあります。そこで彼らはこう考えました。過去(インドの場合には前世も含む)になした様々な行為の結果として発現している私自身を含む現在を変えることはできないとしても、現在に働きかけることで未来(インドの場合には来世も含む)については変えることができるのだと。これは厳密に考えると、一貫性を欠いた議論となり、矛盾をはらんでいますが、ある種の視点の転換(インド式現実主義的ゲシュタルトスイッチと勝手に名付けたいと思います)が起こっているということなのでしょう。私たちの力が及ばない部分については仕方なく受け入れるとしても、これから起こることに対しては私たちの関与が可能であるというように、未来志向に視点を切り替えることで、私たちの努力や意志の価値が守られました。
前置きはこれくらいにして、私の選択について。
もともと言語に興味があったため、駒場ではいくつかの外国語だけは割と熱心に勉強しました。古典語も一つくらいと選択したのがサンスクリット語でした。これはしかし、ギリシャ語、ラテン語は他の科目と重なっており、履修可能だったのがサンスクリット語だけでしたので、自ら積極的に選択したものと呼べるようなものではありません。それ以外のところでは、ろくに勉強もせずに遊んで暮らしていましたので、そうした不真面目がたたり、留年こそ免れたものの、進振ではごく限られた、いわゆる底割れしている学科しか選択肢がありませんでした。ただ、サンスクリット語を学んでおり、多少面白さを感じていた頃でもあったため、印哲を進学先に選ぶことができました。振り返ってみると、この選択は私の人生でかなり重大なものだったということになりますが、当時はもちろんそれほど重たく捉えていませんでした。「ちょっと面白そうだから、印哲に進学してみるか、他に選択肢もほとんどないし」くらいの感じです。その後、修士に進み、博士に進み、海外留学を経験し、その他の紆余曲折を経て、30年以上経った現在ではインド哲学の教員をしています。その間、ここでは書き尽くせないほどの選択を経てきました。そもそも選べないものについて、諦めることも多くありましたが、自分が選んだわけでも望んだわけでもないのに、思いがけない幸運によって突然道が開けたり、苦境から救われることも何度か経験しました。私が主体的に選択したか否かにかかわらず、自分自身が最終的に決めたことについて、それを選ぶことを許してもらえるような環境にあったことや選んだ道に進むことを応援してくれる人々が周りにいたことはありがたいことで、自分が決めたことに常に全力で取り組むことができたのは本当にラッキーでした。
インドで仕事をしていると「ジュガール」という言葉をよく耳にします。これは、色々なものが不足していたとしてもひとまず現状を受け入れ、創意工夫(急場しのぎの間に合わせとも言う)によってその現状を打開しようというインド流の仕事術、仕事観です。足りないことを嘆くよりも、今あるもので何とかする。途中色々あってもノープロブレム、最終的に丸く収まっていればそれでオッケー、イノベーションが起これば儲けもの。この精神は、人生における選択の話にも通じるところがあると思います。人生には自分の思うようにいかないことはたくさんあります。しかし、選べなかったものや選ばなかったものを嘆くより、選んだもの、あるいは、選ばざるを得なかったものに全力で取り組んでいく。こういうマインドセットをもっていれば、後になってから過去の自分の選択について振り返った時にも、きっとポジティブにそれを受け入れることができるのではないかと、最近では思うようになりました。
みなさんがどんな選択をされたとしても、ジュガールの精神があれば大丈夫です。迷わずに進んでください。
しかし、このような見方を突き詰めていくと、上でみたような、「人間の努力は無益である」といった、少し困った結論が見えてきてしまいます。修行や善行の実践を通じて幸福に向かおうとする古代インドの人々にとって、努力が無意味であるという帰結は特に受け入れがたいものがあります。そこで彼らはこう考えました。過去(インドの場合には前世も含む)になした様々な行為の結果として発現している私自身を含む現在を変えることはできないとしても、現在に働きかけることで未来(インドの場合には来世も含む)については変えることができるのだと。これは厳密に考えると、一貫性を欠いた議論となり、矛盾をはらんでいますが、ある種の視点の転換(インド式現実主義的ゲシュタルトスイッチと勝手に名付けたいと思います)が起こっているということなのでしょう。私たちの力が及ばない部分については仕方なく受け入れるとしても、これから起こることに対しては私たちの関与が可能であるというように、未来志向に視点を切り替えることで、私たちの努力や意志の価値が守られました。
前置きはこれくらいにして、私の選択について。
もともと言語に興味があったため、駒場ではいくつかの外国語だけは割と熱心に勉強しました。古典語も一つくらいと選択したのがサンスクリット語でした。これはしかし、ギリシャ語、ラテン語は他の科目と重なっており、履修可能だったのがサンスクリット語だけでしたので、自ら積極的に選択したものと呼べるようなものではありません。それ以外のところでは、ろくに勉強もせずに遊んで暮らしていましたので、そうした不真面目がたたり、留年こそ免れたものの、進振ではごく限られた、いわゆる底割れしている学科しか選択肢がありませんでした。ただ、サンスクリット語を学んでおり、多少面白さを感じていた頃でもあったため、印哲を進学先に選ぶことができました。振り返ってみると、この選択は私の人生でかなり重大なものだったということになりますが、当時はもちろんそれほど重たく捉えていませんでした。「ちょっと面白そうだから、印哲に進学してみるか、他に選択肢もほとんどないし」くらいの感じです。その後、修士に進み、博士に進み、海外留学を経験し、その他の紆余曲折を経て、30年以上経った現在ではインド哲学の教員をしています。その間、ここでは書き尽くせないほどの選択を経てきました。そもそも選べないものについて、諦めることも多くありましたが、自分が選んだわけでも望んだわけでもないのに、思いがけない幸運によって突然道が開けたり、苦境から救われることも何度か経験しました。私が主体的に選択したか否かにかかわらず、自分自身が最終的に決めたことについて、それを選ぶことを許してもらえるような環境にあったことや選んだ道に進むことを応援してくれる人々が周りにいたことはありがたいことで、自分が決めたことに常に全力で取り組むことができたのは本当にラッキーでした。
インドで仕事をしていると「ジュガール」という言葉をよく耳にします。これは、色々なものが不足していたとしてもひとまず現状を受け入れ、創意工夫(急場しのぎの間に合わせとも言う)によってその現状を打開しようというインド流の仕事術、仕事観です。足りないことを嘆くよりも、今あるもので何とかする。途中色々あってもノープロブレム、最終的に丸く収まっていればそれでオッケー、イノベーションが起これば儲けもの。この精神は、人生における選択の話にも通じるところがあると思います。人生には自分の思うようにいかないことはたくさんあります。しかし、選べなかったものや選ばなかったものを嘆くより、選んだもの、あるいは、選ばざるを得なかったものに全力で取り組んでいく。こういうマインドセットをもっていれば、後になってから過去の自分の選択について振り返った時にも、きっとポジティブにそれを受け入れることができるのではないかと、最近では思うようになりました。
みなさんがどんな選択をされたとしても、ジュガールの精神があれば大丈夫です。迷わずに進んでください。