土肥 秀行(南欧文学)

研究者としての自分のこれまでについて、大学院進学を考えている学部生のみなさん、そして研究を続けるかどうか迷っている博士課程を終える前、あるいは終えたが常勤のない方々を想定しつつ書いていきます。予めお詫びしなければならないのは、思い出話調であること、さらに東大での経験について書く際には内むきであることです。ご容赦願います。そしてこれから書くことが励ましになるのか、「お前はいいよな」との感想をもたれて終わってしまうのか、正直わかりません。さらには、僕が研究者志望の人に対して常に言っていること、とにかく粘れるだけ粘って続けていってほしい、そうした人だけが最終的にポストに就いている、とのメッセージですら励ましなのかなんなのか。これは、「ではいったいどうやって?」とツッコまれても返す言葉のない精神論でしかありません。以下もその程度のものでしょう。

僕が辿ってきた道筋は、おおよそ次のとおりです。中学時代にイタリアへの関心~学部のうちはやっとやっとの伊語学習~修士でようやく伊文学へ~博士号ねらいでボローニャ大に留学~フィレンツェの東大センターで助手~帰国して学振PD、浜松の公立大学に就職し5年勤務、さらに西へ、京都の私立大学で8年勤務(この間、育英の奨学金返済免除となる年数に到達)、そして現在。まだ道半ばで、決して「あがり」ではありません。以下は、まだ迷い多き者の言葉です。

イタリア文学を専門にしていると、「なぜイタリアなのか」としばしばたずねられます。14歳のとき、竹山博英氏(のちに偶然、立命館大学で氏の後任となった)のマフィアルポ(そして映画『ゴッドファーザー』)に感化され、翻訳されたイタリア文学作品を読みつつ(最も印象に残っているのは米川良夫訳のピランデッロ『生きていたパスカル』)、いずれ言語を学ぼうとぼんやり考えはじめました。それが世間ではどちらかというとマイナーに分類される選択との自覚はありません。そう気付いたのは、大学入学直前に、東大の必修第二外国語にイタリア語がないのを知ったときでした(現在は第二外国語に含まれています)。よって現実的な選択となり、パスカル研究の支倉崇晴先生とパトリック・ドゥヴォス氏が担当のフランス語クラスに入りました(となりは蓮實重彦先生クラス)。第三外国語で伊語を選択したものの、ちゃきちゃきした西本晃二先生に魅せられつつも(あれで江戸っ子ではないのはおどろき)、単位を取るまではいかず、3年生になってからようやく本気で語学に取り組みました。進振時、当時すでにイタリア語イタリア文学から名称変更していた南欧語南欧文学はマイナーゆえに選ばず、なにをやってもいいと言われていた美学藝術学にしました(実際はそうではなく、だいぶドイツの哲学を学ばされました)。その方が同級生もいて楽しそうだったからです(南欧はいまでも駒場からあがってくるのは年にゼロか1)。いまでも当時の仲間に、交流はなくとも友人と思える人がいます。

就職活動はせずに、予定通り、修士からは南欧へ。時代はバブル崩壊直後でも、同級生はいわゆる優良企業に就職していきました(何人かは、僕のように、美学ではない専門の院へ)。修士をコンパクトに2年で終わらせたのは、博士に進んでイタリアへ渡る計画を立てていたからです。学部の3年生以降、夏や春の長期休暇ごとに、イタリアで最低一ヶ月は過ごしており、長期の留学生活への思いを募らせていました。博士進学後、半期でボローニャ大学へ。運よく前年に、ロータリー財団奨学金(2年分)の補欠合格の内定をもらっていました。当時も今もあまり例がありませんが、どうせ行くのなら学位(博士号)ねらいと意気込みだけはありました。制限時間6時間の論述試験を受け、なんとか博士課程に入れたものの、そのあとがたいへんで、規定の4年をはみだし5年かけて終えることになりました(イタリアの博士課程在籍者は、基本的に奨学金が支払われセミプロのような身分なので規定の期間で終わらせるのが普通。外国人の僕はなにももらっていませんでしたが)。ここまで研究の内容に触れずにおりましたが、学部の卒業論文から一貫して、映画監督として有名なパゾリーニの文学を扱いました。

ボローニャ大学イタリア文学科の博士課程に在籍しつつ、開設されたばかりの東京大学フィレンツェ研究教育センター(1998年から2004年まで)常駐の助手に採用され、フィレンツェに引っ越しました。このポストに5年勤められたので、イタリアにも居続けられ、博士論文を完成させることができました。

博士号を取得し、助手の契約期間も終わり(センター閉鎖と同時)、帰国して非常勤講師と博物館バイトを東大駒場で開始、学振PD採用につなげ、PD二年目に浜松にある県立の静岡文化芸術大学に就職。イタリア語やイタリア文化の教員を5年務め、京都の立命館大学文学部へ。立命館4年目には、ローマ大学サピエンツァで研究員として1年を過ごすことができました(僕にとっては第二の留学)。出身大学に戻り二年目に入る時点でこの原稿を書いています。

ここまで読まれた方は退屈されたのではないでしょうか。特に決断と呼べるものも経ず、むしろ流れでやってきました(大学卒業から30年近く経過したのが驚きなのはそのせいか)。人生の方向性は、自分で選択するというより、状況によって決められてきました。与えられた機会を活かしてなんとかやってこられた気がします。

東大では自分の研究だけでなく、後進の育成に力を入れていきます。イタリア文学プロパーを養成する機関は、日本には京大そして東大にしかありません。研究者としての自分が、南欧語南欧文学研究室がなければ存在しえなかったのですから、これからの人に対して、研究室の存続とさらなる発展を約束しなければなりません。そのために、僕は得られませんでしたが、東大とイタリアの大学とのダブルディグリーとしての博士号が可能となるような共同学位の仕組みが不可欠と考えています。具体的な事例と制度作りにこれからチャレンジしていきます。