佐藤 至子(国文学)

私は近世(江戸時代)の文学を研究している。主な研究対象の一つは十九世紀に江戸で出版された合巻(ごうかん)と呼ばれる小説である。合巻は、ほぼ全ての紙面に挿絵があり、紙面上に挿絵と文章が混在する形態を持つ。読み切りの短編から何年にもわたって続いた長編まで、さまざまな作品があるが、最も著名なのは天保の改革の際に絶版処分となった『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦作・歌川国貞画)であろう。

近世文学に関心を持ち、合巻を研究するようになったきっかけを思い返してみると、自分のなかにあった小説や歌舞伎への興味がそこにつながったということは確かだが、大学の授業や身近な人の助言に導かれるところも大きかったように思われる。

もともと運動よりも読書が好きで、小学生の頃はナルニア国物語のような外国の児童文学をよく読んでいた。中学生の時は向田邦子の作品を愛読していたが、まわりに向田邦子について語り合える友人はいなかった。歌舞伎を観るようになったのは高校生からである。初めて観たのは三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で、女方の美しさや宙乗りの演出に驚き、すっかり魅了されてしまった。以来、しばしば歌舞伎座に出かけて観劇するようになり、三階席から双眼鏡で舞台を見つめていた。芝居の内容はすぐには理解できない場合もあったが、とにかく役者も舞台も美しくて飽きなかった。受験勉強の合間に「助六」や「白浪五人男」の名ゼリフを暗記したりもしていた。

大学では国文学を勉強しようと比較的早くから決めていた。お茶の水女子大学に入学し、一年生の時の授業で黄表紙について学んだ。黄表紙は十八世紀の後半に流行した絵入りの滑稽な読み物で、合巻の前身にあたるジャンルである。大学生協の書店に行くと、社会思想社から出版された黄表紙の画期的なアンソロジー『江戸の戯作絵本』(全六冊、現代教養文庫)があり、さっそく購入して読んだ。荒唐無稽な設定のものや江戸の人々の日常が垣間見えるようなもの、作者が作中に登場するものもあり、平安時代や中世の古典とはまったく違うおもしろさを感じた。

 研究することへの漠然とした憧れがあったので、三年生の時には大学院への進学について考えていた。中世文学、近世文学、国語学の演習科目を受講し、卒業論文では柳亭種彦の合巻と読本を取り上げた。合巻を中心に研究したいと思ったのは、いくつかの理由があった。まず、合巻の挿絵がおもしろく、小説における挿絵の役割に興味を持ったこと。また、合巻は複雑な筋立てを持つ作品が多く、それを読み解くのがおもしろそうだと思ったこと。そして、身近な人から「いま盛んに研究されているものではなく、あまり研究されていないものに取り組むほうが良い」と助言されたことである。

卒論を書くために資料を集め始めると、とくに合巻については適切な翻刻書が少ないことに気づいた。当時(一九九〇年代)、図書館などで閲覧できる合巻の翻刻書のほとんどは戦前に出版された古いもので、たいていの場合、挿絵は省略されていた。しかし、挿絵を見なければ研究にならない。そこで原本のコピーを手に入れるべく、国立国会図書館や国文学研究資料館、東京都立中央図書館に通った。卒論で取り上げる作品についてはそれで何とかなったものの、合巻というジャンルの全体像をとらえるには、もっと多くの作品を読まなければならない。勉強を続けるなら、合巻の原本を多く所蔵している大学の大学院に進みたいと考えるようになった。

東大の大学院に入学した後は、総合図書館にある合巻をひたすら読んだ。当時の総合図書館は、一階の大階段の近くに書庫への入り口があった。書庫の奥まったところに合巻の原本が保管されている部屋があり、そこに入る時は何ともいえない気分になったものである。その部屋には合巻以外の近世の小説類もあり、合巻を読むのに疲れると、人情本を借りて一階の閲覧室で読んだ。

総合図書館で手に取った合巻の中には、手擦れで紙面の一部が黒ずんでいたり、紙がめくれて元に戻らなくなったりしているものも見受けられた。その部分の文字が読み取れず、困ったこともあったが、その本を読んだ人々の列に自分が連なっているということも確かに感じられた。自分は研究者である前にひとりの読者であるという感覚が私のなかには根強くあるのだが、それは比較的早い時期から原本にふれてきたためかもしれない。

原本にふれると言えば、近世の版本や写本を扱っている古書店や古書即売会に行き始めたのも学生の頃である。合巻の原本を初めて買ったのは学部の四年生の時だったと思う。学生でも買える値段であった。

合巻に限らず、古書との出会いは運に左右される部分が大きい。たとえば古書店から送られてくる目録を見て注文しても、出遅れたり、抽選に外れたりして手に入らないことがある。その本を買おうと選択しているのは自分だけれども、必ずしも自分が購入者になれるとは限らないのである。

研究も、はじめに考えた通りに進むことは少ない。私の場合、調べて行くうちに思いもかけないことがわかったり、先達からの助言や教示(論文などを通じての教示も含む)に導かれたりして、予想もしなかった方向へ進んで行くことの方が多かった。だから、「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」ということわざを模倣して言えば、「書かれたものは読んでみよ、出会った人とは話してみよ」である。読めば読むほど、誰かと話せば話すほど、新しい景色が見えてくるはずで、そこに研究のおもしろさがあるのだと思う。