根岸 洋(考古学)

私は2021年に人文社会系研究科・文学部の考古学研究室に着任した。母校に教員として戻ってきたことになるが、それまでの選択がどんなものであったのかを問われると、人に語ることができるほど立派なものでないというのが率直な思いである。大学教員といえば研究のみに邁進してきたイメージを持たれるかもしれないが、少なくとも私の場合はそうではなかった。生来の不器用さのため幾度も挫折してきたし、この道を進むべきか否か自問自答の日々を過ごしてきた。しかし今回、若い学生を対象に自らの経験について語る場をいただいたので、少しでも参考になればと思い、私がしてきた「選択」を紹介することにしたい。

私が漠然と考古学に関心を持ち始めたのは高校生の頃である。直接のきっかけになったのは世界史を担当されていたE先生であった。先生はかつていくつかの高校で歴史研究部(私の進学時には既に廃部)の顧問として生徒を率い、秋田県内で遺跡を発掘する活動をされていた。先生から考古学の話を伺ったのは授業中ではなく、論述問題の指導を受けていた放課後であった。これをきっかけに歴史学や考古学の専攻がある大学に興味が湧き、文科Ⅲ類を受験するという選択をした。これが私の進路における最初の選択である。

運よく東京大学に入学し、そのまま考古学の道に一直線と思いきや、当時の私は、初めて触れる様々な学問分野や課外活動に目移りし、興味関心が二転三転していた。一応、考古学研究会(サークル)に入り、遺跡の発掘調査に参加してはいたものの、もっぱら本の乱読と掛け持ちした別のサークルの活動に夢中になっていき、考古学への思いは次第に頭の片隅に追いやられていった。そんな状態で二年次の進学振り分けを迎え、第一志望はフィールドでの聞き取り調査を主な手法とする文化人類学にしようと思い立つ。しかし、当時大変人気のあった文化人類学のゼミに参加しようとするもセレクションに通らず、またはっきり言って真面目な学生ではなかったため進学が叶わなかった。そんなこんなで進学先は第二志望に選んでいた考古学に決定したのである。

考古学専修では教授陣や大学院生の先輩方に圧倒される毎日が続いた。特に苦戦したのが外国考古学を原著で学ぶ演習である。当時は日本の考古学を教えてくれる演習は少なく、中国語・ロシア語・フランス語などの文献を読んで発表することが求められた。そんな中、毎年8月にある北海道北見市常呂にある実習施設での発掘調査は実に楽しかった。先輩や同級生と合宿生活をしながら進める発掘現場で、一つの調査目的に向かって協力するチームワークの重要さを学んだ。しかし、心のどこかで文化人類学への関心が捨てきれず、さらに当時は就職氷河期真っ只中で将来への葛藤もあり、同級生が一般企業の内定をもらうのを横目に見ながら就活の真似事もしていた。さらに詳細を省くが大きなミスをしてしまい、ストレートに大学院へ進むことができず、周りとはやや違った道を選択することになる。

大学院に進学できなくなった私は、佐藤宏之助教授(現・名誉教授)の勧めで、埼玉県埋蔵文化財調査事業団(埼埋文)の期限付調査員となった。一旦大学を離れて社会に出たのである。日本では道路工事などに伴って遺跡が見つかった場合、あらかじめ遺跡を調査記録することが文化財保護法で定められている。そんな仕事を請け負う公的機関が埋蔵文化財の調査機関であり、考古学専攻を出た学生の主要な就職先である。期限付きとはいえ正規の地方公務員と同じ扱いを受ける職であり、学部卒の私を採用していただいた埼埋文には感謝してもしきれない。また、幸運なことに自分の研究分野である縄文時代の遺跡の発掘調査を担当することができ、働きながら見識を深めることができた。さらに上司が理解のある方で、翌年の大学院受験に向けた勉強も続けられるよう折を見て励ましていただいた。

しかし、この時点でまだ私は迷っていた。大学院に進学するということは決めていたが、考古学の研究職を目指すという覚悟はできていなかったように思う。実際、埼埋文の同期の多くは正規採用調査員を目指していたし、埋蔵文化財の仕事をしながらでも研究を続けることは可能だからだ(※注)。それでも大学院に進もうと思ったのは、考古学が自分に向いているのかを確かめたかったのと、一般就職をするという選択肢を残しておきたかったためである。ここにきて考古学以外の道に進むのかと疑問に思う向きもあるかもしれない。しかし実際、修士課程修了後に一般企業を選んだ先輩や同級生もいたので、自分としては選択の余地を残すことが必要であった。このとき22歳。つまるところモラトリアム期であった。

ひとまず予定通り大学院修士課程に進学したのだが、2年間で博士に進学するための研究の方向性を定めることができないでいた。その結果、修士論文は不合格となり、自分は考古学に向いていなかったのかとかなり落ち込んだ。修士課程3年目を休学し、また発掘調査関連ではあるが嘱託職員として採用してもらい、数ヶ月間研究から完全に離れる生活を送った。このとき一般就職への方向転換も検討していたのだが、同じように進路に悩む職場の同僚から励まされ、博士課程への進学に再挑戦するという選択をしたのである。

2回目の修士論文は無事に合格となり、博士課程に進んだ。博士課程では自ら獲得した研究費を使って海外の民族調査を始め、もともと関心のあった人類学的研究へと方向転換することにした。自分にとってはそのとき興味関心のある研究に取り組むことが最優先で、学位取得後のことは深く考えていなかった。そんなとき研究室の先生方から、「将来どんな道に進むのか、そのために今何をすべきかよく考えるように」との助言をいただいた。この言葉で初めて自覚したのが、自分の目指すべき研究の核となるものが、日本列島の先史考古学にあることであった。その結果、博士課程三年目にして学位論文を白紙に戻し、修士課程まで研究していた日本考古学をテーマに据えなおした。その一方で、いつか日本と世界の人類史を比較するような研究がしたいという思いを抱くようになった。これが今の自分の研究テーマに繋がっている。

その後は博士課程を満期退学し、青森県で文化財保護行政の専門職に就いた。この職を選んだのは埼埋文での経験が大きい。初年度に役所で働きながら学位論文を完成させるのは苦しかったが、なんとか書き上げたことでようやく考古学の研究職を目指すという覚悟ができたように思う。この覚悟に至ったのが31歳の時だから、なんと悠長で優柔不断なことかと思う方もいるだろう。もっとも22歳の時から修士の2年間を除き、何らかの給与を得ていたため、働きながら悩み続けることができた。研究職を目指す方の多くはもっと早くに決断するのかもしれないが、少なくとも私には悩む時間が必要であったし、当然暮らしていけるだけの収入も必要だった。そのような私を許容してくれた考古学という分野が、なんと懐の深いことかと嘆息するばかりである。

いま自分が教える立場になってみると、学部三年生まで専門分野を選ぶことができない東大生が、その後の進路に悩むのは当然だろうし、決して恥ずべきことではないと強く思う。また研究分野にもよるだろうが、一度大学から離れたとしても、また学び直すという選択肢もあって良いはずである。迷走を繰り返しながら今に至った私のこの駄文が、ほんの少しでも学生諸君の参考になれば望外の喜びである。

※都道府県をはじめとする自治体では、埋蔵文化財の調査・保護に係わる専門職の採用があるが、これらはあくまで行政職であって研究を業務にすることはできない。しかし遺跡の発掘調査や学芸業務に携わることはできるため、行政機関で働きながら研究を続けていく人が多い。このような職種は少なくとも人文系には珍しく、考古学分野ならではの特質といえるかもしれない。