芳賀 京子(次世代人文学開発センター)

「ヘラクレスの選択」という言葉がある。人生の重大な岐路では敢えて困難な道を選ぶべし、という教訓として語られることが多い(興味のある人は、クセノフォン『ソクラテスの思い出』2.1.21–34を参照して欲しい)。西洋美術の主題としてもたびたび取り上げられており、裸体の美しい女性として表されている悪徳の擬人像が誘う平らかな道と、謹厳な女性姿の美徳の擬人像が指差す険しい山道への分かれ道で、若き英雄ヘラクレスが悩んでいる場面が描かれていることが多い。

だが実際には、えてして若者の目には遠くにある目的地しか入っておらず、そこに至る道のようすなどたいして考えないものではないか。若い頃の私も、自分の興味あるものへと続く道を進んだだけで、そこに「選択」と呼ぶほどの局面はなかったように思う。高校生の頃、新聞の日曜版に「世界名画の旅」という連載があった。そこに毎週、高階秀爾先生が寄稿されていた文章を読んで、東京大学で美術史を学びたいと思った。1年生の終わりの春休みには、ひとりで1ヶ月かけてフランス、イタリア、ギリシャの博物館を巡り、油絵やフレスコ画よりもギリシャの大理石彫刻が好きだと気づいた。だから私は進振り前に、研究室はおろか対象とする地域や時代まで、おおむね心に決めていたことになる。3年生になって美術史学研究室に入り、まさに西洋古代を専門とする青柳正規先生の教えを受け、これを一生の仕事にできればと考えた。そのまま大学院に進み、折しも青柳先生が開始したイタリアのタルクィニアでの発掘に、初年度から参加するつもりでいた。

 しかしそこで、人生には選択の自由などない場合もあるのだと思い知る。不摂生がたたり、修士2年の春の健康診断の結果、私は長期入院を余儀なくされた。最初に保健センターから呼び出された時、あとで大学病院の先生に説明していただくからと告げた方の顔があまりに深刻だったために、短い人生だったと見上げた空がとても青かったのを妙にはっきり記憶している。実際には、秋には大学に戻ることができ、病気も1年半ほどで完治したのだが。

入院中は、多様な人々の人生を垣間見た。大部屋の病室には、老齢になってから病気が再発し、もうずっと入院しているという人たちが多かった。彼女たちと見舞客たちとの交流を眺めながら、女の一生とは何なのだろうと、23歳にして自身の老後に思いを巡らせた(逆に彼女たちは、ベッドの上で研究書を読みふける私を見やりながら、「勉強しすぎて入院したのに、それでも勉強しているなんてかわいそうね」と噂していたらしい)。

この療養経験で、つくづくと自分の視野の狭さを痛感した。それとともに、岐路で選択する上でのひとつの指針を得た。人間はいつ死ぬかわからない。そして人生は、研究がすべてではない。だから悔いが残らないように、岐路に行き当たったらその道程など気にせずに進む道を選ぶことにしよう。そして2本の道のどちらかを選択しなければならないと思いこむ前に、たとえ時間はかかっても両方の目的地へと至る道がないか考えてみよう。

その後、1年多くかけて修士を修了し、博士課程に進み、完治後も3年間は国内で様子を見たほうがいいという言葉を聞き流して、秋にはイタリア政府給費生としてローマ第2大学に留学。翌年の4月にはさらに3年間のイタリア政府奨学金を得て、アテネにあるイタリア考古学研究所の大学院専門課程に入学することができた。ギリシャとローマにまたがるヘレニズム美術を修論で扱い、その双方の考古学を学びたいと考えていた私にとって、まさに夢のような環境である。ギリシャ・ローマの考古学だけでなく、先史考古学、ビザンチン考古学、建築学、保存修復学、碑文学、古銭学、人類学など、多岐にわたる授業カリキュラムは、それまで美術史だけの知識にとどまっていた私がまさに必要としていたものだった。さらに年間3ヶ月におよぶギリシャやトルコの遺跡見学旅行と、クレタ島ゴルティナでの発掘は、身体をつかって学問すると自然と思考も健全になるという新鮮な感覚を教えてくれた。

このアテネの研究所でも、正規の年限ではイタリア語での修了論文を書き上げられず、1年多く費やすことになるのだが、この期間はイタリアからの奨学金がないかわりに、アテネにとどまる義務もない。そこでクリスマス休暇に入ると同時に、日本に一時帰国して結婚し、その後は夫の留学先であり、当時、古典考古学界を牽引していたパウル・ツァンカー教授のいるミュンヘンに移動して執筆を続け、翌年の12月に無事、修了論文を提出した。しかしこの「専門課程」というのはイタリア独自のもので、国によっては博士課程相当と認められることもあるが、そうでない国も多い。結局そこからさらに3年かけて、東大にも博士論文を提出することになった。博論提出前に1人目の子供が生まれ、その出版前に2人目が生まれた。幸い、学術振興会の特別研究員をフルタイムの職とみなしてもらえ、子供たちは保育園に入ることができた。

気恥ずかしいような昔話を長々と書き連ねてしまったが、要は、学生の頃は悩みもせず、目的地に向かってまっしぐらに進んだだけだった。その後、結婚や出産という選択をしたわけだが、「研究がすべてではない」と実感した後だったから、多少の遠回りは気にならなかった。ただし夫からあらかじめ、「家事は9割、僕がするから」という言質は取った(嘘だったが)。さすがに、家族一緒に滋賀に住んでいながら東北大に就職する時と、やっとそろって仙台に住めたのに東大に移ると決める時には、それでよいのかとかなり悩んだ。しかし長い目で見れば、何が幸せかなどわかるわけもなく、何より母親だからやりたいことを「家族のために」あきらめるとは、子供たち、特に娘には言いたくなかった。いちばんしわ寄せがいっているのは、子煩悩なのに単身赴任状態になってしまった夫だが、こればかりは結婚相手の選択を誤ったと思ってあきらめてもらうしかない。