自分の直感を信じる。

小林 真理(文化資源学)

進路選択ということに限定すれば、自分なりに大きかったのは、高校から大学に行くときだったと思います。私は、ほぼストレートに全員が付属の大学に進学する女子大の付属高校に入学しました。そこから別の大学に抜け出すということにエネルギーが要りました。なぜわざわざ付属高校に行ったのに、大学受験をしなくてはならなかったのかといえば、高校の入学式に校長先生が「当校は、良妻賢母を育てる学校だ」と言われたことでした。本来はそのような方針の学校ではないのですが、当時の校長がそのように言われたのです。その古色蒼然とした女性像に衝撃を受け、何者かになりたいと思っていたが、何かはわからない自分の未来を否定されたような気がしました。ここにいてはだめだという漠然とした不安。入学式のその日から、この学校の路線で進むことについて疑問を感じ、そこから抜け出すということに自分の高校時代のエネルギーのほとんどを費やしてしまったような気がします。友達には恵まれていましたし、こんな面倒な私とつきあってくれたことに感謝もしていますし、楽しいこともありました。ただただ、いわゆる学校に対する不満を解消できないまま3年間悶々と過ごしていた気がします。高校卒業と同時に大学への進学が決まらなかったものの、卒業したときの開放感は忘れられません。

大学時代は、まさに大学がレジャーランド化していると言われた時代で、学生たちは皆、テニスサークルに入り、学生時代を謳歌していました。ただ、男子が大多数を占める大学の女子学生というのは、女子大の学生です。女子大の付属から抜け出してきた私は、女子とみなされない矛盾。また音楽演奏サークルに話を聞きに行けば、授業に出ずに練習をしなくてはならないということで断念。他にどうも入りたいサークルもないということで観念。それならばとばかりに自分達でサークルを作り(早稲田大学宝塚歌劇を愛する会)、大学時代は観劇と同人誌づくりに熱中していました。同じ頃に早稲田大学の文学部では宝塚歌劇を研究対象として扱いシンポジウムを開催するなどしており、そのお手伝いをさせていただいたりもしました。そのときに文学部で講師をされていた古井戸秀夫先生と、20年以上の時を経て同僚になる日がくるなどとは思いもよりませんでした。

大学を卒業する年は男女雇用機会均等法が施行されたときでしたが、先輩の誘いもあり政治学研究科の行政法専修に進学しました。これも小さな選択だったかもしれません。私は、書物や芸術(とくに舞台芸術)が何でも好きで、今でもこれは変わりません。どれかを選んで深く研究するということは考えられませんでしたし、好きなものを研究すると好きではなくなるのではないかという天邪鬼的な直感があったのと、どちらかといえば社会科学系の学問が好きでした。

ところで、私の人生の中でプラスの衝撃と豊かさを与えてきたものはすべて舞台に係わるものでした。大阪万国博覧会の長蛇の列に嫌気がさした母が連れていってくれたのが宝塚歌劇でした。3階の一番後ろの端の席から見た華やかさと楽しさ、銀行員だった父の赴任でブラジル滞在中に訪れたマナウスの歌劇場とアルゼンチンのコロン劇場の壮麗さと、サンパウロで生まれて初めて見たオペラ「アイーダ」の生きながらにして墓に閉じ込められるという幕切れにおののき、初めて卒業旅行で訪れたロンドンやニューヨークでみたミュージカル俳優の圧倒的な演技力と歌唱力に驚愕し、博士課程の1年目の1990年にウィーンで見た「エレクトラ」ではリヒャルト・シュトラウスの音楽とクプファーの演出に度肝を抜かれ、そして1994年のウィーン国立歌劇場の来日公演で聞いたカルロス・クライバー指揮の「薔薇の騎士」は圧倒的なドライブ感に身体が震えました。

芸術文化政策という研究領域を見つけたのも、修士課程1年の夏休みを利用して2週間ミュージカル三昧をするためにロンドンを訪れていたときでした。マチネとソワレの合間は、ロンドンの本屋巡りをしていましたが、そこでJohn PickのArts Administrationという書物を発見します。1980年に出版されたものでした。芸術運営、芸術管理とも訳せるこの書物、私が専攻している行政もAdministrationです。読んでみるとこのAdministrationは行政ではない、しかしもしかすると、芸術行政や芸術政策を研究の対象とできるかもしれないと直感的に実感しました。自分の大事にしているものと、自分の居る場所が繋がったような気がしました。修士論文ではイギリスとフランスの芸術文化政策の制度の比較をしました。研究を始めてみると、研究というものが実に面白い。海外には日本にない書物や研究があるということもわかってきました。当時、日本では誰も扱っていない領域で、行政法学のメインストリームではありえない内容にのめり込む自分を指導教員の先生が放置してくれていたことがどれほどありがたかったかわかりません。ただ、このとき、これで食べていけるようになるとは思っておらず、親も元気だし、なんとかなるだろうという暢気な感じでした(これは後に幻想だということもわかりますが)。修士課程を3年間で終えたときには、もう少し研究を続けてみたいと思いで博士課程に進学しました。

博士課程に進学してみると、世の中では驚くことが進行していたことに気づきます。日本全国の地方行政が舞台芸術を行うための文化会館や文化ホールを建設し出していたのです。1990年は、毎週全国のどこかの地方自治体が文化会館をオープンさせていました。その頃新宿の紀伊國屋書店で見つけたのが、首都圏文化行政研究会が発行していた「新編文化行政の手引き-文化行政は人々の楽しみをつくることができるか?」というブックレットでした。このタイトルは私の中にあった問題意識を言葉にしたものでした。地方自治体の熱心な職員が首都圏文化行政研究会を組織して、定期的に研究会を開催していました。出版社に連絡を取り、その研究会に参加させてもらうことになりました。

こうして書いてみると、選択らしい選択は高校から大学に行くときでした。迷って困っているときには何かに招かれてきたような気がしてなりません。帰国子女だからとか、女性だからと差別されることや、不愉快なことや、いわれのないいじめにあったり、耐えられないと思ったりしたことも多数ありました。それを乗り越えられてきたのは、芸術や文化は人を豊かにするという信念とそれを支えたいという思いのようなものが明確になってきたからだと思います。