納富 信留(哲学)

人生にはいくつかの転機がある。新しい局面を開く、そんな決断である。私にとってもっとも重要だったのは、東大の大学院でギリシア哲学を学ぶなかで、そこを出てイギリス・ケンブリッジ大学に留学するという選択だった。

それ以前に、私が文学部で哲学を専門にするにあたっても、およそ想像できるさまざまな疑問や反対が家族や教師や友人たちから向けられた。だが、以前から興味があったギリシア哲学に本格的に取り組む期待と悦びとで、困難を感じることはなかった。しかし、そうして疑問なく進んだ大学院で、それ以後の人生に関して大きな壁に突きあたった。

今では想像できないかもしれないが、1990年代前半までは「博士課程」で博士論文を書くことは期待されていなかった、いや、書いてはいけなかった。博士論文とは大学者がキャリアの終盤で世に出す大著を意味していた。博士課程にいる学生は学会誌にせっせと論文を投稿して研究職を得る機会をまつ。だが、私にはそんな過ごし方は辛抱できなかった。自分が打ち込むテーマを徹底して書き上げる集大成が博士論文であり、その目標なしに大学院にいることは無意味だと感じたからである。研究をしている実感と意義を見失いかけていた私は、漠然とした、しかし強烈な閉塞感から、修士論文を書き終えるとさっそく日本を出て海外の大学院に移る道を探った。

とはいっても、海外生活の経験もなく知己もいなかった私は、指導を仰いでいた都立大学の加藤信朗先生にお願いして、ケンブリッジ大学のマイルズ・バーニェット教授に推薦状を書いていただいた。バーニェット教授はプラトンやアリストテレスの哲学で世界を代表する研究者で、私が学部に入る前に一度来日されて多くの日本人の知り合いがいた。私は一度もお会いしたことのない教授に、手紙を書いてケンブリッジでプラトンの研究をしたいと申し出た。紆余曲折をへてそのケンブリッジに生まれて初めて降り立った1991年夏にはバーニェット先生はサバティカル中で、初めてお目にかかったのは1992年になってからであった。今から考えると、信じられないような無謀で無計画な留学である。奨学金もなく、限られた資金の減り具合をにらみながら最短期間で研究を仕上げるプレッシャーのもと、私の英国での研究が始まった。

東大文学部の哲学研究室では、斎藤忍随教授(結局、御目に掛かる機会はなかった)の退職後は10年ほどギリシア哲学の専門スタッフがいない状態がつづき、駒場から井上忠先生、都立大から加藤信朗先生が非常勤で講義と演習を持たれていた。その後も岩田靖夫、土屋賢二、鈴木幹也といった先生方が代わる代わる授業を担当され、最終的に天野正幸先生が着任された。私はその過渡期の学生ということもあり、まったく自由に研究したと同時に、日本にとどまることにこだわりはなかった。先生方も仲間たちも、やんわりと、あるいは強く私の国外脱出を思いとどまらせようとした。だが、そんな風当たりが強ければ強いほど、逆らって航海する勢いがつく。意気が上がり、もうこのまま日本にいても仕方ないなどと言い放った私に、当時の研究室主任だった渡辺二郎先生はニヤッと目を向けて、そんなことを言って日本に戻ってこれるとは思わないようにと言われた。背中を押す厳しい言葉だったが、留学中には渡辺先生をはじめ天野先生、指導教員だった坂部恵先生や仲間たちも飛び出したこの学生を温かく見守ってくださった。今は亡き先生方に心から感謝申し上げたい。私は日本を離れてイギリスで、そして一時期はアメリカでも思う存分に研究をして、5年後に九州大学に就職して日本に帰ってきた。まさか舞い戻ると思いもしなかった私は、飛び出した折の気持ちを想起しては、こそばゆい思いを噛みしめた。

異世界ケンブリッジでの研究生活は1日1日、1時間1時間がすべて新鮮で刺激的だった。新しい論文や本を読みあらゆる講義に出て、先生や仲間たちと議論し、論文を書き進めた。ギリシア哲学の最先端にして最高度の研究を日々目にし、自分もその一部として参画していることに誇りと喜びを感じた。英語が十分ではなかった私は、日本語で書いたり話したりすることを一切やめて英語だけで考え、3年目には日本語を忘れ、親しんだ歌謡曲も思い出せなくなった。だが、そうして4年かけてケンブリッジの学生として博士論文を完成し、さらにもう少しかけてそれを改訂してケンブリッジ大学出版局から研究書として出版した。私は、自分の背中を押してくれた日本の先生方にようやく顔向けができるように感じた。

2016年に東京大学に移ってきた時、ケンカを売るように飛び出した25年前のことを思い出して不思議な感慨を覚えた。あの時そのまま日本にとどまったとしたらどうなっていたのか、想像もつかない。ケンブリッジで博士論文を仕上げた頃には、そのまま海外に残って研究を続けるという選択肢を優先していた。さまざまな時宜の折り合いの結果こうなった人生は、自分で決断して作り出したわずかの部分と、大きな流れでそうなった大半の部分とが入り混じっている。こうして一回りして、かつての先生たちの年齢となり教壇に立つ自分の姿に、我が身とは思えないような距離を感じる。

英語でburn one’s boatという表現がある。日本語では「背水の陣」といったところだが、私も一度英国に渡ったからには、初志貫徹せずには戻らない覚悟でいた。「不東(東せず)」、それは仏典を求めて西方に旅立った玄奘三蔵がインドに辿り着かなければ中国には戻らないという決意を示した言葉である。研究成果をめぐる厳しい議論に敗れて戻ったカレッジの部屋で、一人天井を見上げて“I burnt my boat”と自分に言い聞かせたあの気分を思い出すと、いつも身が引き締まる。かの日の決断がはたして何だったのかは、人生がすべて終わってみてようやく分かるのだろう。今は次の局面にむけて、心して生きていきたい。