梶原 三恵子(インド語インド文学)

古代インドのバラモン教の聖典であるヴェーダ文献を研究の対象としている。

大阪大学文学部に入学して、最初の二年間は初修外国語のドイツ語に明け暮れていた。二年生のときにサンスクリット語初級の授業に出たのは、一年生で教養課程の必要単位をあらかた取り終えたのと、高校生のころに日本文化への仏教の影響を述べた概説書を読んで、おおもとのインド仏教に漠然と関心を抱いたのを覚えていたからだと思う。仏教学を専攻するとまでは決めていなかったが、もし仏教学をするならサンスクリット語が必要になるというくらいは聞き知っていて、とりあえず初級に出てみようと考えたのだった。授業は難しかったが、先生の熱い話しぶりに引き込まれて受講を続けた。同じ先生の概論は仏教を軸にした壮大なインド思想史論で、これも惹かれるところ大だった。

三年生からの所属研究室を決めるとき、印哲と英文とで迷った。英文は大所帯で女子学生も多かったし、将来の職を考えると英語の教員というのはイメージしやすい気がした。印哲に進む学生は少なく、選ぶには勇気を要した。迷った末、マイナーな分野を学べるのは学生の時だけかもしれないと、進学先は印哲にし、並行して英文の授業にも出て英語の教員免許をとることにした。

そうして進学した印哲ではしかし多難だった。当時の阪大印哲で仏教学といえばサンスクリット語とチベット語と漢文を駆使する仏教論理学のことだった。サンスクリット語がなかなか読めるようにならずに焦っていたのに、論理学や教理や哲学はもっとわからなかった。大学院に進んで修論を書く段になっても研究の方向性を定められずにいたので、指導教官が大乗仏教論書を選んでくれたが、教理にはどうも惹かれなかった。とにかく読み進めているうちに、論書であるにもかかわらず一人称で書かれている部分が随所にあるのに気がついて、テキストの語りとか朗唱との関係とか全体の枠構造とか、そうしたトピックを拾い上げ組み立てて修論を書いた。これが仏教学の論文だろうかと心もとなかったが、いま考えれば広い意味での文学研究の入り口に立っていたのかもしれない。

博士課程からは、バラモン教を扱うヴェーダ学に専門を変更した。ヴェーダは祭式・儀礼を中心とする文献群である。その背景にあった当時の社会と文化を探っていこうと考えた。これは自分にとってはそれなりに大きな選択だった。サンスクリット語は一から勉強し直した。博士課程のあとアメリカに留学することにしたのが、日本での学生時代最後の大きな選択となった。それから視野が少しずつ広がっていき、ヴェーダもそれ以外の文献も古代インド文化を伝える文学としてとらえることが可能だと考えるようになっていった。