齋藤 希史(中国語中国文学)

月並みなことを言えば、選択する以前に確固とした私があるのではなく、選択した後に私というものの輪郭がおぼろげながら浮かんでくる。もしくは、選択を迫られているうちに、私が何者なのかを考えることになる。選択することで私が生まれる、ということかもしれない。ただ、そうして生まれたはずの私も、じっさいはあやふやなものだ。そのあやふやさに気づいて、選択したことを私という存在の根拠にしようとして、選択した何かを捨てまいとすることもある。選択は正しかったのだと思いこむこともある。だから、かつての選択について語ることは、多かれ少なかれ、自己正当化というか、要するに言いわけじみてしまう。それが繰り返されると、言いわけもうまくなる。ストーリーになる。

いまこの文章は進学ガイダンス冊子に掲載するために書かれている。みなさんも、なぜ東大に行こうと思ったのですか、どのような受験勉強をしたのですか、と聞かれるたびに、だんだんとうまく答えられるようになっていったのではないだろうか。そしてもしかしたら、するすると答えられれば答えられるほど、どこか違うところもあるんだけど、という落ち着かなさも抱いてきたのではないだろうか。何かを選択するときには、はっきりとはことばにできないような微妙な心の動きがあって、まっすぐなこころざしとも周囲を見回しての損得勘定とも違うあれこれの断片が絡み合うことがある。そしてそれは自分と相手を納得させるわかりやすい理由の背後にいったんは隠れるとしても、いつか、ああ、そういうことだったのか、と思い起こされたりもする。もし、選択によって輪郭づけられた私というものがあるとするなら、むしろそういうところに見出されるようにも思う。

さて、私の場合。いわゆる進路ということでは、京都大学文学部に進んだことがまず最初の大きな選択だった。数の上では東大進学者の多い学校に通っていて、京大を受けるクラスメートなどいなかったし、東大志望でも文三などごく少数だったから、何で京大に、何で文学部に、とさんざん聞かれたものだ。こちらの答えも用意されていた。『新唐詩選』という岩波新書から吉川幸次郎という学者と京大中国学の存在を知り、幸いにも高校の図書室にあった『吉川幸次郎全集』を読み、一方で、ルソーに興味を引かれていたので桑原武夫を読むことになり(これも岩波新書)、京都大学に人文科学研究所というものがあることを知り(背伸びをして『ルソー研究』という報告書も読んだ)、大学も自由でおもしろそうなので、そういう環境の中で勉強したい、ということだった。いま書いても何だかまとも(?)すぎて溜め息が出てしまうけれど、これはこれで嘘ではない。しかたない。

ただそうしたストーリーの裏には、高校に進学したころは理科二類を志望したものの(生態学に興味があった)、東大の進学振分け制度を知ってげんなりしたとか(すみません)、朝の混雑した千代田線で学校に通うのはもういやになってきたとか、親元を離れて暮らすことへの微かな期待とか(京都には受験まで行ったことがなかったから、そもそもどんなところか想像もつかなかった)、結局は国語が得意科目だったとか、京大の大ざっぱな試験問題が性に合うような気がしたとか、取るに足りないような断片があれこれあった。そしてここに思い起こしている断片は、選択の背景としてそれでも多少は説明しやすそうなものが選ばれているに過ぎず、記憶から消えてしまった断片はもっとあったに違いない。けれどもそうした断片がなければ、自分は選択などできなかったのではないか。

教養課程から専門課程への進学については、二回生で行った中国西安での一ヶ月の語学研修が決め手になった。そのとき市内の古籍書店で買った『文選』の影印本はいまでもふだんづかいしている。大雁塔に浮かんだ月がきれいだったのも憶えている。トマトと卵の炒めものは好物になった。それはともかく、せっかく中文に進学したものの、大学院受験に二度も失敗して、さてどうしようかなあと思ったときも、中国にひと月あまり旅行にでかけた。神戸から上海まで船で行って、そこから鉄道で成都まで行き、昆明から重慶に出て、長江を下って南京、杭州、紹興、そして上海に戻るというもので、当時(たしか1987年)は事前に鉄道やホテルを予約することなどできなかったから、ザックをかついで(弟と二人旅だった)、人ごみで埋まった窓口やカウンターで交渉(喧嘩)をして、何を買おうとしても「没有!(ない!)」と言われ、まさに中国と格闘しながら先に進む毎日だった。二回生のときは友好協会のかさの下で賓客扱いだったのとは正反対で、むしろそれだから、まあ、ちゃんと勉強し直してまた大学院を受けてみようか、という気にいつのまにかなっていた。

考えてみれば、どちらの中国滞在も私の選択を後押ししてはいるのだが、それは決心を固めるための材料がそろったということではなくて、日常から離れた時空間で経験され感受された断片が大事だったのではないかと思う。非日常というのは一つの装置で、そこに自分をほうりこむと、さまざまな経験や感覚の断片が生まれる。選択に迷ったときは、仔細に比較衡量するのもよいけれど、非日常の空間に身を置くのもわるくない。

そして現在。ここ何年か、出張などで空港を利用するたびに、そこで働くことを想像するようになった。パイロットになりたいのではなく(幼いころはそうだった)、整備であったり案内であったり、地上で支える仕事である。職場を替えなければならないとしたら、今度は空港で働きたい。そんなことを考えたりもする。それにしても、たしかに空港は好きな空間だけれども、どうしてそう感じるのだろう。大学の仕事に疲れているから、ではなくて(ではないとするなら)、自分が大学教員を職業として選択している理由とじつは重なっているからかもしれないと最近思うようになった。言い換えれば、いまの私はどうやら空港を大学のメタファーと見ているらしく、学問そのものへの興味とは別に、いつのまにか私の中にできた職業意識がそういうものらしいのである。そしてその背後には、たぶんいくつもの断片がある。それについては、機会があればまた。