鈴木 泉(哲学)
或る高名な女性の文芸批評家によると、男性は歳を取ると自分語りをし始めるナルシス的な傾向が強いそうだ。「私は決心した」と語るデカルトやスピノザの<精神の歴史・物語>までもがそうだとは考えないが、「私の選択」を語る自分語りは「ドーダ!」と自らの過去を顕示することになりかねない。「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」(寺山修司)ではないけれど、喫煙者の哲学教師が学生の明日に向けて自らの来歴を語ることは、悲しいかどうか別にして、虚しい行為となりそうだから、ここでは哲学者として振る舞うことにしたい。
人生の岐路に立つ者が幾つかの可能的な選択肢の中から一つの路を選び取る、という一見すると分かり易い自由に関する構図は錯覚だとフランスの哲学者ベルクソンは言う。一つの路を進むことを決断した後で初めて、それとの対比においてあり得た他の選択肢が回顧的に浮かび上がるに過ぎない、自由の本義は或る事柄を為してしまったときにその人の人格が示されるという<表現としての自由>にこそ存在する、と議論は進む。例解しよう。
生の重要な局面において自死を選択する、ということがある。20世紀後半を代表するフランスの哲学者ドゥルーズは自ら虚空に身を投げたし、高名な保守主義者が入水したことも記憶に新しい。延命と自死とを天秤にかけて後者を選択したのだろうか。自死に重要な意義を認めたストア派の哲学に大きな影響を受けたドゥルーズも独特な死生観を有する保守主義者も、自死を決断することによって自らの生を作品と化して完結させた。まさしく自死を決断することによって自らの人格に表現を与えたのである。選択という概念が選択されるべき複数の選択肢を前提とする以上、彼らの行為を可能にしたのは正確には選択というよりは決断、それも「するか、しないか」という決断であった。この決断にあたって、何らかの逡巡があったかどうかは当人以外には不明だが、延命と自死という二つの選択肢の間での選択が働いたわけではないだろう。選択と決断との違いは自死という究極的な事象においてのみ見られるものではない。生の重要な局面における一般的には選択と呼ばれる事象——転職や熟年離婚等々——に共通するものである。転職や離婚を選択するとき、それまでの生の来歴が転職や離婚を促すのであり、一見して選択と見えるものは選ぶべくして選んだということに過ぎず、選ばれるべくして選ばれた事象を「為す」という決断を介して実現された行為によって人格が表現され、他人は、ああ、やはり/実はあの人はそういう人であったか、とその人となりを把握する。
このような議論は未成熟な青年にも当てはまるものだろうか。青年は、未だ輪郭の定まらないあえかな人格しか有することがないから、生の重要な局面において、自らの人格がそこにおいて表現されるような仕方で決断を下すことはない。人格という表現がやや重いなら、「自分探し」というときの「自分」という言葉で置き換えてもいい。青年の決断において人格としての「自分」が表現されるとは言い難く、束の間の「自分」が提示されたまでである。それでは、青年の場合には、決断とは異なる選択が重要な意味を有するのだろうか。
昼食の際に中央食堂にしようかメトロにしようかと考えて選択するのと同様に、生の重要な局面においてもまた複数ある可能な選択肢からの選択が働く、というのはやはりグロテスクな構図ではある。哲学専修と倫理学専修のどちらにしようかと考える際、赤門ラーメンとカレーライスの間で迷うのと同じようなメカニズムが働くというのだから。この構図は確かに戯画的なものではあるが、選択を構成するメカニズムの本質を示している。選択決定においては、複数の可能な選択肢からの選択がもたらす結果・効果の比較考量が重要な役割を果たす。だが、青年が生の重要な局面において選択を迫られる場合、このような構図は致命的な問題を抱えている。第一に、選択がそこから行われる可能な選択肢の少なさであり、第二に、比較考量を可能にする根拠の正当性である。経験に乏しい青年は、自らの身の丈に合った少ない数の選択肢しか知らないし、自らに提示された選択肢以外の選択肢の存在に思い至らない。また、乏しい数の選択肢から選択する際の比較考量の根拠は概ね道徳的かつ経済的な常識に求められることが多く、そのような常識に比較考量の根拠を委ねてしまえば、自らの生の重要な選択は世間の平板な常識との野合に帰着してしまう。生の重要な局面において、経験の貧しさと平板な常識を無反省に許容することは許されないだろう。このような局面において青年には何が可能か。
手許にある可能な選択肢の貧しさを自覚するとき、新たな選択肢の探求が始まるが、そのためには経験の拡大的な再編成が必要である。青年の多くは、手許にある可能な選択肢の貧しさを自覚するとき、他の可能性が存在することには気づきながらも、神のように無数にある可能性を見晴るかすように捉えることが出来ないから、それらの可能性の存在を夢想するに留まり、単なる可能性の総体という理念の空虚さに思い至ることがない。全てが可能であるということは、実質的には何も意味しないということに思い至らないのである。だから、新たな経験の領野に飛び込み、それまでの自分には思いもつかなったような選択肢の実質的な可能性と出会うことが求められる。他方、無数の可能な選択肢と実質的に出会った場合、選択の根拠を青年はどこに求めるのか。世間の平板な常識との野合を回避するとして、確固たる「自分」を未だもたない青年は、「自分」がそこにおいて表現されるような仕方で選ぶべくして特定の選択肢を選択してしまうことも出来ない。選択の根拠を有することのない青年にとって、選択とは一種の賭けである。しかし、その賭けは「見る前に跳べ」というように無根拠に選択することを意味しない。賭けにおいて重要なのは引き際であるとは、賭けの達人がよく述べる重要な金言である。次のレースはスルーしようと決断するように、何かをしないことを選択するという意味での否定的決断が賭けの勝負を決定し、自らの肯定的選択に勝機をもたらす。それまでの自分を紡いで来た貧しい経験を一度ご破算にし、その経験に由来する可能な選択肢を退け、さらには新たに出会った可能な選択肢を否定的に篩にかけること、このことが最良の選択肢を浮上させる。
「あのころオレはずいぶん年をとっていた/今はもっと若い」と唄うボブ・ディランならいざ知らず、大人には自らの人格をご破算にすることは難しい。可能性の総体を夢想することを許される子どもとも異なる青年には、経験を拡大的に再編成し、自らの小さな「自分」に由来する多くの可能な選択肢を拒否して、自らの未来に賭けることが出来るという特権がある。私は、駒場の二年生の夏前に、他の可能性を顧慮することなく哲学に賭けた。だが、そこに至るまでには、ジミー・ペイジのようなギタリストになりたいという幼い夢と文化人類学や映画批評への関心とに基づく可能な選択肢への否定的決断があった。学びの対象を定めることが生における大切な決断であると考える諸君にとっても、それまでの自分を切り捨てて未知のものに身を開くという歩み、言ってみれば、自分探しならぬ「自分なくし」(みうらじゅん)の旅は大きな意味をもつだろう。