本論文の目的は、現代日本のオンラインで観察できる性的節制の現象が、いかなる論理に支えられ、いかなる倫理を形成しているのかを明らかにすることである。ここでいう論理とは、性的節制の実践の目的と実践を支える知識を指し、倫理とは、実践者の主体を形成し、生き方を方向づける規範を指す。
現代において、身体にはたらきかける自己管理は多様であり、引き算としての身体の自己管理と言いうる節制は、生き方・身体・知識という三者の循環的・相互的な連関から理解される、社会学的に重要なテーマであり続けてきた。本論では、この三者の関係を後期Foucaultの「自己のテクノロジー」に依拠した研究における重要な理論的視座として設定する。日本において、「自己のテクノロジー」に依拠して身体の自己管理を論じた研究には発展の余地があり、(1)統治性との関係からいかなる体制や権力関係があり、そうしたものへの抵抗がいかに可能であるかを理解するために身体に着目する必要がある。次に、(2)身体を根拠にした抵抗が生じる状況において争点の中心となる知識の選択や生成が、専門知と身体にもとづく知との関係やメディアの変化に注意して把握されなければならない。最後に、(3)このような過程で構成される生き方が個人を高める一方で束縛もしうる、両義的な状況を捉える必要がある。このように、本論では、身体-知識-生き方が複合的に絡み合い、他者によって統治される可能性を抱えながらも望ましい自己のために主体を形成するものとして、自己のテクノロジーをとらえる。以上のような理論的枠組みの提示を第1章「身体の自己管理論のために」で展開する。
第2章では、本論に直接関係する現代の性的節制現象についての先行研究を批判的に検討し、3つの研究課題を設定する。多様な身体の自己管理の実践の中でも特異な現象として、英語圏の「NoFap」や中国語圏の「戒色(jiese)」、そして日本の「オナ禁」などがインターネット上で見られている。現代の性的節制現象を扱ったこれまでの研究は、「治療か、(有害な・問題のある)男性性の追求か」という二者択一的図式に縛られ、認識上・方法論上の限界を抱えている。こうした図式が作られていった背景には、一方では臨床心理学の嗜癖研究における医療化やポルノグラフィ研究における「ポルノ有害論」が、他方では英語圏で社会問題化しつつあるミソジニーやマノスフィアの根源として男性性を問題視するフェミニズムがある。特に、男性性を問題視する立場の記述は、コミュニティで共有される知識の非科学性を指摘する「正しい/誤りである」という二項対立にもとづく価値判断を含む。加えて、分析方法上もデータの抽出に問題があったり、解釈においてあらゆる要素を「問題のある男性性」に還元したりする傾向があり、歴史性や文脈などを考慮した他の解釈可能性が初めから排除されている。それに対して、本論はこうした視点をあらかじめ設定するのではなく、オナ禁の実践の過程から浮かび上がる要素を描き出すことを目指す。そのために、〈身体-知識-生き方〉という身体の自己管理論の枠組みを通じて、(A)オナ禁の目的、(B)オナ禁の実践を支える知識、(C)オナ禁の過程で実践者に内面化される生き方という3つを明らかにする研究課題を設定した。
分析対象とするデータ、および方法論の検討は3章で行った。オナ禁現象における語りを内在的に理解し、時系列的な変動を考慮して記述するため、ソーシャルメディア上の大量の書き込みや、2000年代から2010年代のインターネット上のコミュニティを形成する一要素であったウェブログなどに残された体験談を収集した。主なデータは、2000~2020年の間に開設された2ちゃんねる(5ちゃんねる)のスレッドへの投稿(223万件)、2007~2022年のTwitter(X)への投稿(309万件)、そして、2004~2014年の間に主にブログサービスを利用して作成されたオナ禁体験談のブログ(約3万6000件)である。これらの大規模なデータから中心や主題を見つけ出すにあたり、テキストの計算的手法を取り入れ、質的手法・量的手法を混合させたアプローチを検討した。
4章では、2ちゃんねるとTwitterの収集データ全体に対してLDAトピックモデルを適用し、オナ禁の目的についての語りを総体的に把握した。その結果、2ちゃんねるでは、当初は「マラソン」や「レース」といったゲーム的な取り組みが中心であったが、2000年代後半から2010年代にかけては、オナ禁による「効果」の探求が主たる目的へと移行し、さらに2010年代以降には筋トレや自己改善と結びつく実践として定着していった。同時に、否定的な懐疑派を「猿」と呼んで排除する態度や、エロを禁止対象とする規範化も進展していた。他方で、Twitterでは、2ちゃんねると同様にゲーム的な目的は残るが、特に2010年から2020年代初頭までの間に、自己改善=「効果」の追求が中心となっていった。いずれのプラットフォームにおいても主流化する自己改善という目的は、特に2010年代以降Twitterの投稿において「エネルギー」というスピリチュアルな概念(6章で詳述)によっても促進されていた。
5章では、2ちゃんねるの「オナ禁」スレッドがゲーム的イベントとして始まった歴史的経緯を確認し、特にオナ禁のゲーム的性格を支えていた集計の仕組みが、その後主流化する自己改善の性格にとって重要なテクノロジーとして機能していたことを示した。具体的には、1990年代後半の「禁煙マラソン」をパロディ化した「禁オナニーマラソン」が独自のルールと集計方式を伴って展開し、参加者の継続日数を可視化・序列化する「階級表」やカウンターが組織された。2000年代前半にはすでに自作のウェブ/デスクトップアプリが登場し、日数計測やランキング、掲示板機能を通して共同的な実践を可能にした。これらのDIY的な仕組みは、反消費的な対抗文化の側面を持ちつつも、アルゴリズムによるログイン強制やランキングへの参加を通じて実践者を駆り立てる監視文化的要素も備えていた。したがって、オナ禁における集計のテクノロジーは、ゲーム性と自己改善を媒介しながら、個人にとって自発性と強制性のあいだで揺れ動く自己管理の様式を形成していた。
6章では、オナ禁を支える知識について、主に2ちゃんねるにおいて参照される知識とその反応を精査するとともに、特にスピリチュアルな知の扱われ方についてはTwitterデータにおける語りから明らかにした。まず、2ちゃんねるでは、テストステロンに代表される生理学的知識がしばしば実践の根拠として援用されており、科学的厳密さに欠ける断片的な情報であっても、実践者の身体的な経験と結びつけられてオナ禁の「効果」を支えていた。また精子の質や健康リスクに関する医学的議論も参照されつつ、個人の身体感覚を優先して専門的知識と相互に補強し合う過程が観察された。他方で、Twitterでは、スピリチュアルな概念として「エネルギー」が語られ、反消費主義的であるが現在志向というよりは未来志向に「本当の自分」を求める自己改善の実践を正当化していた。これらの知識は、オナ禁をできる限り長期的に継続することが最も「効果」がある、という信念に沿っていた。
7章では、オナ禁を通して内面化される生き方について、ウェブログの中心的著者51人のオナ禁への専心過程を手がかりに明らかにした。体験談の記録からは、オナ禁の開始をきっかけに日々の達成や失敗を記録する過程で実践が習慣化され、そこに独自の意味づけが積み重なっていく様子が確認された。当初は挑戦的な試みとして語られていたオナ禁は、継続されることで身体や精神の変化の手応えと結びつけられ、さらに努力や鍛錬を重視する規範と接続することによって、自己管理や自己改善の倫理を内面化していった。また、実践者は自らの語りを更新しながら、オナ禁を「正しい生き方」として位置づけていくようになった。こうした専心過程を通じて、オナ禁は単なる行動制御にとどまらず、人生全般を規律化する生のスタイルへと転化していったことが明らかとなった。
終章では、以上の分析からオナ禁実践者にとってオナ禁がどのような自己のテクノロジーであったかを整理し、本研究の意義と今後の課題を示した。オナ禁には、英語圏や中国語圏の類似現象には由来しない、内発的に発展した実践を深めさせる論理と、実践を通して自己責任を内面化させた生き方へと方向づける生/性の倫理があると考えられる。本研究の意義としては、第一に、自己のテクノロジー研究における再帰性という視座を明確化したこと、第二に、知識と身体との関係性を経験的に描き出し、現代日本における性を巡る知識の通俗化過程に対して知見を提供したこと、第三に、オナ禁の実践から現代の生き方と倫理がもつ両義性を改めて示したことが挙げられる。今後の課題としては、第一に、現代の性的節制現象のトランスナショナルな広がりを明らかにする必要がある。第二に、従来の日本のセクシュアリティ史で提示された認識枠組みでは説明が困難な言説への解釈が残されている。最後に、「男性性」を問題視する視点をアプリオリに置かない分析によって複数の・矛盾するオナ禁の男性性を描き出すことに成功した一方で、自己改善へと絡み取られてゆくオナ禁の男性性には問題があることを指摘することが避けられなかった。そのため、男性性を語ることの不可避性を自覚しつつ、男性性をいかに脱中心化して批判的に扱うかという課題が残されている。
現代において、身体にはたらきかける自己管理は多様であり、引き算としての身体の自己管理と言いうる節制は、生き方・身体・知識という三者の循環的・相互的な連関から理解される、社会学的に重要なテーマであり続けてきた。本論では、この三者の関係を後期Foucaultの「自己のテクノロジー」に依拠した研究における重要な理論的視座として設定する。日本において、「自己のテクノロジー」に依拠して身体の自己管理を論じた研究には発展の余地があり、(1)統治性との関係からいかなる体制や権力関係があり、そうしたものへの抵抗がいかに可能であるかを理解するために身体に着目する必要がある。次に、(2)身体を根拠にした抵抗が生じる状況において争点の中心となる知識の選択や生成が、専門知と身体にもとづく知との関係やメディアの変化に注意して把握されなければならない。最後に、(3)このような過程で構成される生き方が個人を高める一方で束縛もしうる、両義的な状況を捉える必要がある。このように、本論では、身体-知識-生き方が複合的に絡み合い、他者によって統治される可能性を抱えながらも望ましい自己のために主体を形成するものとして、自己のテクノロジーをとらえる。以上のような理論的枠組みの提示を第1章「身体の自己管理論のために」で展開する。
第2章では、本論に直接関係する現代の性的節制現象についての先行研究を批判的に検討し、3つの研究課題を設定する。多様な身体の自己管理の実践の中でも特異な現象として、英語圏の「NoFap」や中国語圏の「戒色(jiese)」、そして日本の「オナ禁」などがインターネット上で見られている。現代の性的節制現象を扱ったこれまでの研究は、「治療か、(有害な・問題のある)男性性の追求か」という二者択一的図式に縛られ、認識上・方法論上の限界を抱えている。こうした図式が作られていった背景には、一方では臨床心理学の嗜癖研究における医療化やポルノグラフィ研究における「ポルノ有害論」が、他方では英語圏で社会問題化しつつあるミソジニーやマノスフィアの根源として男性性を問題視するフェミニズムがある。特に、男性性を問題視する立場の記述は、コミュニティで共有される知識の非科学性を指摘する「正しい/誤りである」という二項対立にもとづく価値判断を含む。加えて、分析方法上もデータの抽出に問題があったり、解釈においてあらゆる要素を「問題のある男性性」に還元したりする傾向があり、歴史性や文脈などを考慮した他の解釈可能性が初めから排除されている。それに対して、本論はこうした視点をあらかじめ設定するのではなく、オナ禁の実践の過程から浮かび上がる要素を描き出すことを目指す。そのために、〈身体-知識-生き方〉という身体の自己管理論の枠組みを通じて、(A)オナ禁の目的、(B)オナ禁の実践を支える知識、(C)オナ禁の過程で実践者に内面化される生き方という3つを明らかにする研究課題を設定した。
分析対象とするデータ、および方法論の検討は3章で行った。オナ禁現象における語りを内在的に理解し、時系列的な変動を考慮して記述するため、ソーシャルメディア上の大量の書き込みや、2000年代から2010年代のインターネット上のコミュニティを形成する一要素であったウェブログなどに残された体験談を収集した。主なデータは、2000~2020年の間に開設された2ちゃんねる(5ちゃんねる)のスレッドへの投稿(223万件)、2007~2022年のTwitter(X)への投稿(309万件)、そして、2004~2014年の間に主にブログサービスを利用して作成されたオナ禁体験談のブログ(約3万6000件)である。これらの大規模なデータから中心や主題を見つけ出すにあたり、テキストの計算的手法を取り入れ、質的手法・量的手法を混合させたアプローチを検討した。
4章では、2ちゃんねるとTwitterの収集データ全体に対してLDAトピックモデルを適用し、オナ禁の目的についての語りを総体的に把握した。その結果、2ちゃんねるでは、当初は「マラソン」や「レース」といったゲーム的な取り組みが中心であったが、2000年代後半から2010年代にかけては、オナ禁による「効果」の探求が主たる目的へと移行し、さらに2010年代以降には筋トレや自己改善と結びつく実践として定着していった。同時に、否定的な懐疑派を「猿」と呼んで排除する態度や、エロを禁止対象とする規範化も進展していた。他方で、Twitterでは、2ちゃんねると同様にゲーム的な目的は残るが、特に2010年から2020年代初頭までの間に、自己改善=「効果」の追求が中心となっていった。いずれのプラットフォームにおいても主流化する自己改善という目的は、特に2010年代以降Twitterの投稿において「エネルギー」というスピリチュアルな概念(6章で詳述)によっても促進されていた。
5章では、2ちゃんねるの「オナ禁」スレッドがゲーム的イベントとして始まった歴史的経緯を確認し、特にオナ禁のゲーム的性格を支えていた集計の仕組みが、その後主流化する自己改善の性格にとって重要なテクノロジーとして機能していたことを示した。具体的には、1990年代後半の「禁煙マラソン」をパロディ化した「禁オナニーマラソン」が独自のルールと集計方式を伴って展開し、参加者の継続日数を可視化・序列化する「階級表」やカウンターが組織された。2000年代前半にはすでに自作のウェブ/デスクトップアプリが登場し、日数計測やランキング、掲示板機能を通して共同的な実践を可能にした。これらのDIY的な仕組みは、反消費的な対抗文化の側面を持ちつつも、アルゴリズムによるログイン強制やランキングへの参加を通じて実践者を駆り立てる監視文化的要素も備えていた。したがって、オナ禁における集計のテクノロジーは、ゲーム性と自己改善を媒介しながら、個人にとって自発性と強制性のあいだで揺れ動く自己管理の様式を形成していた。
6章では、オナ禁を支える知識について、主に2ちゃんねるにおいて参照される知識とその反応を精査するとともに、特にスピリチュアルな知の扱われ方についてはTwitterデータにおける語りから明らかにした。まず、2ちゃんねるでは、テストステロンに代表される生理学的知識がしばしば実践の根拠として援用されており、科学的厳密さに欠ける断片的な情報であっても、実践者の身体的な経験と結びつけられてオナ禁の「効果」を支えていた。また精子の質や健康リスクに関する医学的議論も参照されつつ、個人の身体感覚を優先して専門的知識と相互に補強し合う過程が観察された。他方で、Twitterでは、スピリチュアルな概念として「エネルギー」が語られ、反消費主義的であるが現在志向というよりは未来志向に「本当の自分」を求める自己改善の実践を正当化していた。これらの知識は、オナ禁をできる限り長期的に継続することが最も「効果」がある、という信念に沿っていた。
7章では、オナ禁を通して内面化される生き方について、ウェブログの中心的著者51人のオナ禁への専心過程を手がかりに明らかにした。体験談の記録からは、オナ禁の開始をきっかけに日々の達成や失敗を記録する過程で実践が習慣化され、そこに独自の意味づけが積み重なっていく様子が確認された。当初は挑戦的な試みとして語られていたオナ禁は、継続されることで身体や精神の変化の手応えと結びつけられ、さらに努力や鍛錬を重視する規範と接続することによって、自己管理や自己改善の倫理を内面化していった。また、実践者は自らの語りを更新しながら、オナ禁を「正しい生き方」として位置づけていくようになった。こうした専心過程を通じて、オナ禁は単なる行動制御にとどまらず、人生全般を規律化する生のスタイルへと転化していったことが明らかとなった。
終章では、以上の分析からオナ禁実践者にとってオナ禁がどのような自己のテクノロジーであったかを整理し、本研究の意義と今後の課題を示した。オナ禁には、英語圏や中国語圏の類似現象には由来しない、内発的に発展した実践を深めさせる論理と、実践を通して自己責任を内面化させた生き方へと方向づける生/性の倫理があると考えられる。本研究の意義としては、第一に、自己のテクノロジー研究における再帰性という視座を明確化したこと、第二に、知識と身体との関係性を経験的に描き出し、現代日本における性を巡る知識の通俗化過程に対して知見を提供したこと、第三に、オナ禁の実践から現代の生き方と倫理がもつ両義性を改めて示したことが挙げられる。今後の課題としては、第一に、現代の性的節制現象のトランスナショナルな広がりを明らかにする必要がある。第二に、従来の日本のセクシュアリティ史で提示された認識枠組みでは説明が困難な言説への解釈が残されている。最後に、「男性性」を問題視する視点をアプリオリに置かない分析によって複数の・矛盾するオナ禁の男性性を描き出すことに成功した一方で、自己改善へと絡み取られてゆくオナ禁の男性性には問題があることを指摘することが避けられなかった。そのため、男性性を語ることの不可避性を自覚しつつ、男性性をいかに脱中心化して批判的に扱うかという課題が残されている。