本論文は、紀元前後から紀元後五世紀頃にかけての南アジアにおける仏教、すなわち「中期南アジア仏教」という枠組みにおいて、七つの実践項目からなる定型的なリスト、及び菩提分法という概念がどのように伝承されていたのか、どのように理解されていたのかを明らかにする研究である。
 この「中期南アジア仏教」という枠組みはGregory Schopenが1995年に発表した論文“Deaths, Funerals, and the Division of Property in a Monastic Code”において初めて提唱した南アジア仏教に関する時代区分である。そこでGregory Schopenは、この「中期南アジア仏教」を僧団/僧院の大規模な発展と大乗の周縁性という二つの点から特徴付ける。このGregory Schopenの理解は「初期大乗仏教」を巡る議論と呼応したことで大きな影響力を持ったが、その反面、「中期南アジア仏教」という枠組み自体に向けられた考察は進んでいない。
 そこで本論文は、七つの実践項目からなる定型的なリスト、及び菩提分法という概念に注目することで、「中期南アジア仏教」という枠組みに対する考察を深めることを目指した。この七つの実践項目からなる定型的なリストというのは、四念処、四正勤/正断、四神足、五根、五力、七覚支、八聖道という仏教文献で繰り返し言及される固定化されたリスト(以下、七セット)のことである。一方、菩提分法は菩提を補助する、菩提に導く法などと理解される概念である。この七セットと菩提分法は伝承の中で統合され、三十七菩提分法という概念を生み出した。この七セットのリスト、あるいは三十七菩提分法は現存する文献では最初期にあたる二世紀から確認できるだけではなく、「阿含」や「ニカーヤ」という経典集成、出家者規則/教団の運営規則を定めた律文献、菩薩の教えを説く「大乗経典」、説一切有部という学派や、中観派、瑜伽行派などの学派に属する者たちにより作られた哲学的議論を含む論書といった様々な文献ジャンルに確認でき、「中期南アジア仏教」という枠組みを横断的に分析するための最適な糸口になりうる。
 本論文の第一章では、上座部の一派である大寺派が伝えたパーリ文献、その中でも特に注釈文献に焦点を当てた。初めに、大寺派において「菩提分」という概念はどのように理解されていたのかを精査すべく、注釈文献の中心に位置付けられる『清浄道論』を調査すると、「菩提分」の「菩提」が「悟り」という瞬間的な状態を指し、「分」が菩提と同時に生じてその菩提を補助するという事態を表していることがわかる。つまり、菩提分法とは、悟りの瞬間に悟りを補助するためにはたらくものであるということになる。さらに、『中部注』という注釈文献に目を向けると、仏教徒の帰依の対象となる仏・法・僧の三宝のうち、三十七菩提分法は法宝を象徴するものであるという理解が確認できる。この二つの理解は注釈文献を通して見られる理解であることから、大寺派にとって三十七菩提分法は「悟り」と「法」の二つに関わる重要な教説であったことが判明する。
 第二章では、「中期南アジア仏教」という枠組みにおいて、七セット、及び三十七菩提分法について何が論じられていたのかを探るべく、五世紀までに成立したことが確実な『阿毘曇毘婆沙論』、『菩薩地持経』、『菩薩善戒経』、そして『大智度論』という論書、あるいは注釈文献に焦点を当てた。同章の前半では、『阿毘曇毘婆沙論』を中心としつつ、この文献の編纂/伝承母体である説一切有部という学派と関わりが深い文献群と比較して、七セット、及び三十七菩提分法について何が論点となっていたのか、その論点に対していかなる立場があったのかを整理した。これにより、文献間で採用する論点、その論点に対する立場が複雑に絡み合っており、いくつかの単線的な影響関係があったわけではないことが判明した。
 同章の後半では、瑜伽行派という大乗の一派により編纂されたと考えられる『菩薩地持経』と『菩薩善戒経』において、菩薩にとって七セット、及び三十七菩提分法はどのようなものとして捉えられていたのかを分析した。その結果、大きく分けると、三十七菩提分法を(1)ありのままに知るが目の当たりにしない、(2)声聞・大乗双方の方法によってありのままに知る、(3)勝義の点では、誤った想念を起こさず、言語表現を離れた本質を持つものであるとありのままに知る、という三点が、菩薩の七セット、及び三十七菩提分法を実践する方法として挙げられていることがわかる。それに対して、「般若経典」に関する注釈書である『大智度論』を見ると、三十七菩提分法は声聞・独覚の道に属し、菩薩には不要であるとする想定反論に答える形で、多様な応答が示される。そこで示される見解に、『菩薩地持経』と『菩薩善戒経』で示されるものを含めて検討すると、七セット、及び三十七菩提分法をめぐって、菩薩が声聞・独覚の教えをどのように学ぶべきかについて多様な見解が存在していたことが明らかになった。学習の必要性を認める立場(そもそも善法全般を学ぶ/衆生を救済するため/声聞からの非難を回避するためなど)、長い輪廻に耐えるためとする立場、証得や直視を否定する立場、そもそも声聞限定ではないとする立場、声聞・独覚の教えは不要とする立場、そして声聞と大乗で異なる修習理解を示す立場がある。これらは重なり合いながらも、複数の方向性を示している。
 第三章では、文献ではなく思想的側面を中心に分析を進めた。前半で着目したのは「仏陀の悟り」と七セット、及び三十七菩提分法との関係である。いわゆる「仏伝」で描かれる仏陀の悟りの場面において、大寺派が伝承した三蔵に含まれる律文献では七セット、あるいは三十七菩提分法への言及が見られないのに対して、その注釈文献では言及されるようになる。このことは、「仏伝」ができた後に、相対的に遅れて七セット、及び三十七菩提分法が「仏陀の悟り」に編入されたことを表している。律文献で言えば、他に化地部という学派が伝承したとされる『五分律』でも仏陀の悟りと七セット、及び三十七菩提分法が関係付けられる。こうした、仏陀の悟りと七セット、及び三十七菩提分法の関係付けは、『太子瑞応本起経』という経典でも確認できることから三世紀まで遡ることが判明した。
 後半では、七セット、及び三十七菩提分法が「法」を象徴するものの一つであるという前述の理解がどのような広がりを見せたのかを調査した。考古資料上に現れる七セット、及び三十七菩提分法の位置付けから、五世紀までには中央アジア、東南アジア、東アジアの各地で七セット、及び三十七菩提分法が法を象徴するものとして理解されていたことがわかり、さらに、漢訳文献を用いることでこの理解が三世紀の南アジアにまで遡ることが判明した。
 このように様々な資料を調査すると、七セットというリストとは別に、競合する八セットからなるリストがあり、菩提分法には三十七菩提分法以外に四十一菩提分法や四十三菩提分法といった形もあったことがわかる。そこで、第四章ではこれら計四種の伝承がどうなっていたのかを探った。まず、八セットというリストは同じ七セットのリストに「四つの禅定」という項目が加わったものである。このリストの伝承も七セット、及び三十七菩提分法の伝承と同じく二世紀まで遡ることが可能で、その後、四世紀、五世紀、六世紀と続けて確認することが可能である。しかし、二世紀から五世紀までは七セット、及び三十七菩提分法の伝承とは明確に区別された形で八セットは伝承されていたが、六世紀の『大威徳陀羅尼経』という文献には八セットと七セット、及び三十七菩提分法が同時に現れる。つまり、この文献では八セットが七セット、及び三十七菩提分法と競合する伝承であるといった個性を失っていると言える。この後の時代に八セットが全く現れないことを踏まえると、六世紀頃を境に、八セットの伝承が七セット、及び三十七菩提分法の伝承に置き換えられた可能性が高い。七、八世紀のものと考えられる「涅槃経」の写本断片はこの可能性を支持する。
 また、四十一菩提分法は三十七菩提分法に「四つの聖者たちの系譜(四聖種)」という項目を追加したものであるが、この伝承はその提唱者ではなく、その反論者側の文献からのみ知られうる。この伝承の存在を最初に伝えるのは第二章でも見た『阿毘曇毘婆沙論』であるが、これ以降に四十一菩提分法の伝承を伝える文献も『阿毘曇毘婆沙論』に残された情報と同じ内容を機械的に反復させている。このことは、『阿毘曇毘婆沙論』の下限年代である五世紀には既に四十一菩提分法の伝承がほとんど影響力を失っていたことを示唆する。また、四十三菩提分法の伝承は大寺派が伝える『導論』にのみ確認できる。『導論』の注釈者は「六つの表象(六想)」という項目が三十七菩提分法に加わったのが四十三菩提分法であると解釈するが、ここで提示される「六つの表象」が大寺派にしか伝わらず、さらに『導論』の出自は大寺派以外の伝承であることが確実であるため、『導論』の注釈者の理解は、本来の意図から外れている可能性が高い。少なくとも『導論』の注釈が成立した時点で四十三菩提分法の構成内容は不明になっていたと言え、おそらく『導論』が大寺派の伝承に加わったことが確実にわかる五世紀頃には既に途絶えて久しい伝承であったと考えられる。
 以上から、中期南アジア仏教という枠組みにおいて、七セット、及び三十七菩提分法とそれに関わる伝承が他に三つ存在し、多元的な思想状況があったが、中期南アジア仏教の末頃には七セット、及び三十七菩提分法以外の伝承は途絶えつつあったことが分かる。つまり、中期南アジア仏教は、多元的であった伝承が支配的な一つの伝承に収斂していく時代であったということができる。