本論文では、明末清初における「遺民」の多面性に着目し、明朝の遺民たちが清朝の支配下を如何に生き抜いたのかを考察する。そもそも、遺民は決して単一の定義や表象――顔に収まるものではなく、それぞれが複数の顔を併せ持っている。故に本研究はその諸相を探求し、遺民たちの自己認識および思想を明らかにすることを目的とする。従来の「忠臣としての遺民像」にとどまらず、彼らがどのように自己存在を認識して、どのような生き方で遺民の道を歩んだのかを、思想史的・文献学的視点から多角的に検証する。
本文は、以下の4名の遺民に焦点を当てる。すなわち、中国南方出身の王夫之、中国北方出身の李楷、そして中国から日本へ亡命した張斐と戴曼公である。王夫之は、明朝滅亡後の晩年に当たる時期、湖南の石船山において長期に亘って隠棲した遺民思想家であり、明の遺民を代表する最も重要な人物の一人である。李楷は、陝西から江南へ流寓した北方人であり、その後清朝に仕官し、弍臣と見なされた錢謙益とも親交があった。張斐は、著名な来日遺民である朱舜水の死後、その後継者として長崎まで招聘された明末清初最晩期の遺民である。最後に、戴曼公は、日本に渡来した高僧・隠元の弟子とされる人物であり、従来黄檗宗の禅僧としての側面が主に研究されてきたが、遺民としての顔についてはほとんど論じられてこなかった。
序章では、まず本研究の目的を提示した上で、遺民研究の先行成果を概観し、分野ごとの先行研究を整理する。次に遺民という言葉の歴史的定義と先行研究の問題点を踏まえ、遺民の多面性という新たな問題意識を提示し、最後に本研究の方法論と全体構成を紹介する。
論文の本論は大きく二部に分かれている。第一部(1~6章)の「遺民思想研究」は、主に思想史の手法を用い、4名の遺民が持つ多面的な自己認識や思想の特徴を分析する。第二部(7~10章)の「遺民文献探究」は、文献学の手法を使い、特にこれまで知られていなかった4名の遺民に関する新出文献を発掘、調査する。これらの文献を整理、分析することで、側面から遺民の思想的多面性と、後世における遺民像の形成過程を解明することを目指す。
第1章「船山で隠棲した王夫之:中華の「遺民」・明の遺臣」は、従来の遺民研究が重視してきた南方遺民・王夫之を取り上げるが、近代以降に形成された王夫之像ではなく、明末清初当時の彼の実像に焦点を当てる。具体的には、「中華の遺民(ナショナリスト)=民族主義者」、「中華の遺民(ハーミット)=隠者」、「明の遺臣(ロイヤリスト)=忠臣」という三つの視点から、王夫之の遺民としての多面性を検討し、彼の遺民思想の核心が「華夷の別」ではなく、「存道」と「忠明」にあったことを論証する。
第2章「船山で隠棲した王夫之:孤臣」では、王夫之の生き方を単なる「亡国の遺民」だけではなく、「孤臣」という視点から捉え直し、南明政権を支えながらも、最終的には隠棲の道を歩むことを選んだ主な理由を明らかにする。特に、「章霊賦」などの自己語り史料を手掛かりに、南明期における王夫之の思想の展開に注目し、王夫之が次第に孤臣となっていった経緯(親喪・永暦政権での孤立・退伏幽棲)を考察する。さらに、その生き方を「孤憤」、「孤隠」、「孤忠」の三側面から分析し、政治的実践と学問的追求を兼ね備えた新たな王夫之像を提示する。
第3章「江南に流寓した李楷:北方人と「文化遺民」」では、これまで語られてきた南方遺民という視点から距離を置き、従来見落とされてきた北方出身の遺民・李楷の事案に即して、従来の南方遺民中心論を修正する。具体的には、李楷の「宋遺民広録序」を分析した上で、「文化遺民」という切り口から北方人の遺民論を再考する。李楷は「遺民」と「逸民」を区別し、「遺民」を「宋を称し宋を存す民」と定義した。さらに、彼は「開封陥落=宋亡」説を唱え、南宋に見捨てられた北方の人々を「南宋の遺民」と捉えた。その立場は銭謙益とも響き合い、中華文化の継承を遺民の使命と位置づけていたことを明らかにする。
第4章「崎陽に来舶した張斐:「異域道行」を望む遺老」では、日本へ亡命した張斐の思想を検討し、彼が構想した「異域道行」の意義を明確にする。まず、江戸時代において「中華の大儒」として認識されていた張斐が、次第に「明の遺臣」と見なされるようになった過程を分析する。次に、張斐自身が「客星山人」や「遺老」と名乗ったことに着目し、彼の自己認識を明らかにする。最後に、張斐の独特な華夷観を考察し、日本への亡命が彼の思想に与えた影響を探る。特に、張斐が清への仕官や隠棲を拒み、日本を「君子名邦」と位置づけて遺老としての生を貫こうとしたことや、その思想は、華夷を「道」の有無で判断し、日本を道の継承地とみなす文化主義的構想であったことを分析し、本章では彼の亡命を、儒教倫理の実践として正当化された新たな遺民像の体現として結論づける。
第5章「黄檗に寄留した戴曼公:禅僧・「遺民」・医師」では、日本へ渡来した戴曼公(独立性易)の実像を、禅僧・遺民・医師という三側面から再検討するものである。従来、戴曼公は黄檗宗の禅僧としての顔が強調されてきたが、彼の出家は信仰心からというよりも生活の安定を求める動機の方が大きく、「逃禅遺民」としての側面が顕著である。特に、浙閩の紛争および黄檗の「忠明仏僧」との相違による対立が顕在化したことを契機に、彼は僧団を離脱している。一方、医術を通じて各地で活躍し、後世には名医として記憶された点も見過ごせない。こうした複数の視点から、戴曼公の多面性とその歴史的意義を再評価する。
第6章「黄檗に寄留した戴曼公:創られた痘科医」では、戴曼公と江戸後期の池田家による痘瘡治療の関係を再検討し、日本における明代医術の受容と再構成の実相を明らかにする。江戸末期、幕府医学館の教授であった池田瑞仙は、自らの祖先・池田正直が戴曼公から天然痘の治療法を学んだと主張し、『戴曼公治痘用方』などの多くの治痘書を世に送り出した。この説は日本医学史の通説として広まり、さらに森鴎外の小説を通じて物語的に強化され、一般に定着した。しかし、戴曼公と池田家の関係は、複雑で微妙な要素を含んでいる。本章では、江戸後期において形成された「痘科医」としての戴曼公像が、池田家によって意図的に作り出されたものである可能性を検討し、その形成過程と背景を考察する。
第7章「『船山遺書』の版本、書誌研究」では、王夫之思想の集大成である『船山遺書』の版本と書誌情報を整理、研究する。湘西草堂本から金陵本、衡陽補刻本、太平洋書店本、岳麓書社本に至る主要版本を調査、比較し、巻数や目録の異同、増補の背景を実証的に整理する。特に日本所在の複数の版本を踏査することで、政治的意図を伴う編集の実態や本文流動の過程を明らかにし、章末には各版本の対照一覧を付して今後の研究に資する基礎資料を提供する。
第8章「『宋遺民広録』の再発見と研究」では、李楷の「宋遺民広録序」が付された『宋遺民広録』の文献学的考察を行う。『宋遺民広録』は、明末清初に著された宋の遺民たちの事績を記録した書物であり、明の程敏政による『宋遺民録』を増補したものである。本書は長らく亡佚したと考えられてきたが、筆者は日本・中国の蔵書機関における稀覯写本調査を通じてこれを再発見し、さらに、異なる二系統の『宋遺民広録』の存在も明らかにした。本章では、文献学的手法を用いて、本書の内容、書名、さらに朝鮮への影響に関する諸問題を検討する。これにより、明末清初における宋の遺民に対する発掘活動を考察し、当時の知識人がどのように宋の遺民を語り、遺民像を再構築していたのかを解明する。
第9章「成簣堂所蔵手批本『明季遺聞』の書誌研究」では、明末清初の民間史書『明季遺聞』の成簣堂文庫所蔵手批本を対象に、その書誌的特徴と伝来経緯を明らかにするとともに、張斐の歴史認識と水戸藩儒者との関係に焦点を当てて考察する。本書には張斐による補足、訂正、批判的朱筆が多数加えられており、明清交替を経験した遺民の歴史認識を具体的に示す貴重な資料である。さらにその後の水戸から徳富蘇峰への伝来と再評価の過程にも注目し、『明季遺聞』が日本においていかに受容・評価されたかを検討する。
第10章「『戴曼公治痘用方』の文献調査と整理」では、日本屈指の本草医書コレクションを有する杏雨書屋に所蔵される『戴曼公治痘用方』の16種の写本を整理、分析する。これらの写本は、池田瑞仙によって創作された可能性が高いが、それにもかかわらず、日本の天然痘治療史において極めて重要な役割を果たしてきた。本章では各写本の序文を比較し、戴曼公の権威の構築と池田流痘瘡治療法の源流の形成過程を明らかにする。その上で、写本間の書誌情報、及び記された天然痘治療の処方を整理する。本章の分析を通じて、『戴曼公治痘用方』の成立過程とその医学史的意義を明確にし、日本近世医学における戴曼公像の形成を再評価する。
終章では、本論の内容を系統的に総括し、その成果と課題を明確化する。本論文の結論として、明末清初における遺民とは、決して一元的な遺民像に収斂される存在ではなく、各々がその背景的、地域的、思想的文脈の中で多様なかたちで構築された、いわば「遺民の諸相」と呼ぶべき、多面的な顔を示していたという点を明らかにする。
最後に、本論文の過程において浮かび上がった新たな問題意識や研究の限界をもとに、今後の研究課題を整理する。特に、本論文で取り上げた4名の遺民に対する考察から得られた知見を示すと同時に、なお未開拓の視点についての分析可能性を示し、明末清初における遺民研究のさらなる深化の方向性を展望する。
本文は、以下の4名の遺民に焦点を当てる。すなわち、中国南方出身の王夫之、中国北方出身の李楷、そして中国から日本へ亡命した張斐と戴曼公である。王夫之は、明朝滅亡後の晩年に当たる時期、湖南の石船山において長期に亘って隠棲した遺民思想家であり、明の遺民を代表する最も重要な人物の一人である。李楷は、陝西から江南へ流寓した北方人であり、その後清朝に仕官し、弍臣と見なされた錢謙益とも親交があった。張斐は、著名な来日遺民である朱舜水の死後、その後継者として長崎まで招聘された明末清初最晩期の遺民である。最後に、戴曼公は、日本に渡来した高僧・隠元の弟子とされる人物であり、従来黄檗宗の禅僧としての側面が主に研究されてきたが、遺民としての顔についてはほとんど論じられてこなかった。
序章では、まず本研究の目的を提示した上で、遺民研究の先行成果を概観し、分野ごとの先行研究を整理する。次に遺民という言葉の歴史的定義と先行研究の問題点を踏まえ、遺民の多面性という新たな問題意識を提示し、最後に本研究の方法論と全体構成を紹介する。
論文の本論は大きく二部に分かれている。第一部(1~6章)の「遺民思想研究」は、主に思想史の手法を用い、4名の遺民が持つ多面的な自己認識や思想の特徴を分析する。第二部(7~10章)の「遺民文献探究」は、文献学の手法を使い、特にこれまで知られていなかった4名の遺民に関する新出文献を発掘、調査する。これらの文献を整理、分析することで、側面から遺民の思想的多面性と、後世における遺民像の形成過程を解明することを目指す。
第1章「船山で隠棲した王夫之:中華の「遺民」・明の遺臣」は、従来の遺民研究が重視してきた南方遺民・王夫之を取り上げるが、近代以降に形成された王夫之像ではなく、明末清初当時の彼の実像に焦点を当てる。具体的には、「中華の遺民(ナショナリスト)=民族主義者」、「中華の遺民(ハーミット)=隠者」、「明の遺臣(ロイヤリスト)=忠臣」という三つの視点から、王夫之の遺民としての多面性を検討し、彼の遺民思想の核心が「華夷の別」ではなく、「存道」と「忠明」にあったことを論証する。
第2章「船山で隠棲した王夫之:孤臣」では、王夫之の生き方を単なる「亡国の遺民」だけではなく、「孤臣」という視点から捉え直し、南明政権を支えながらも、最終的には隠棲の道を歩むことを選んだ主な理由を明らかにする。特に、「章霊賦」などの自己語り史料を手掛かりに、南明期における王夫之の思想の展開に注目し、王夫之が次第に孤臣となっていった経緯(親喪・永暦政権での孤立・退伏幽棲)を考察する。さらに、その生き方を「孤憤」、「孤隠」、「孤忠」の三側面から分析し、政治的実践と学問的追求を兼ね備えた新たな王夫之像を提示する。
第3章「江南に流寓した李楷:北方人と「文化遺民」」では、これまで語られてきた南方遺民という視点から距離を置き、従来見落とされてきた北方出身の遺民・李楷の事案に即して、従来の南方遺民中心論を修正する。具体的には、李楷の「宋遺民広録序」を分析した上で、「文化遺民」という切り口から北方人の遺民論を再考する。李楷は「遺民」と「逸民」を区別し、「遺民」を「宋を称し宋を存す民」と定義した。さらに、彼は「開封陥落=宋亡」説を唱え、南宋に見捨てられた北方の人々を「南宋の遺民」と捉えた。その立場は銭謙益とも響き合い、中華文化の継承を遺民の使命と位置づけていたことを明らかにする。
第4章「崎陽に来舶した張斐:「異域道行」を望む遺老」では、日本へ亡命した張斐の思想を検討し、彼が構想した「異域道行」の意義を明確にする。まず、江戸時代において「中華の大儒」として認識されていた張斐が、次第に「明の遺臣」と見なされるようになった過程を分析する。次に、張斐自身が「客星山人」や「遺老」と名乗ったことに着目し、彼の自己認識を明らかにする。最後に、張斐の独特な華夷観を考察し、日本への亡命が彼の思想に与えた影響を探る。特に、張斐が清への仕官や隠棲を拒み、日本を「君子名邦」と位置づけて遺老としての生を貫こうとしたことや、その思想は、華夷を「道」の有無で判断し、日本を道の継承地とみなす文化主義的構想であったことを分析し、本章では彼の亡命を、儒教倫理の実践として正当化された新たな遺民像の体現として結論づける。
第5章「黄檗に寄留した戴曼公:禅僧・「遺民」・医師」では、日本へ渡来した戴曼公(独立性易)の実像を、禅僧・遺民・医師という三側面から再検討するものである。従来、戴曼公は黄檗宗の禅僧としての顔が強調されてきたが、彼の出家は信仰心からというよりも生活の安定を求める動機の方が大きく、「逃禅遺民」としての側面が顕著である。特に、浙閩の紛争および黄檗の「忠明仏僧」との相違による対立が顕在化したことを契機に、彼は僧団を離脱している。一方、医術を通じて各地で活躍し、後世には名医として記憶された点も見過ごせない。こうした複数の視点から、戴曼公の多面性とその歴史的意義を再評価する。
第6章「黄檗に寄留した戴曼公:創られた痘科医」では、戴曼公と江戸後期の池田家による痘瘡治療の関係を再検討し、日本における明代医術の受容と再構成の実相を明らかにする。江戸末期、幕府医学館の教授であった池田瑞仙は、自らの祖先・池田正直が戴曼公から天然痘の治療法を学んだと主張し、『戴曼公治痘用方』などの多くの治痘書を世に送り出した。この説は日本医学史の通説として広まり、さらに森鴎外の小説を通じて物語的に強化され、一般に定着した。しかし、戴曼公と池田家の関係は、複雑で微妙な要素を含んでいる。本章では、江戸後期において形成された「痘科医」としての戴曼公像が、池田家によって意図的に作り出されたものである可能性を検討し、その形成過程と背景を考察する。
第7章「『船山遺書』の版本、書誌研究」では、王夫之思想の集大成である『船山遺書』の版本と書誌情報を整理、研究する。湘西草堂本から金陵本、衡陽補刻本、太平洋書店本、岳麓書社本に至る主要版本を調査、比較し、巻数や目録の異同、増補の背景を実証的に整理する。特に日本所在の複数の版本を踏査することで、政治的意図を伴う編集の実態や本文流動の過程を明らかにし、章末には各版本の対照一覧を付して今後の研究に資する基礎資料を提供する。
第8章「『宋遺民広録』の再発見と研究」では、李楷の「宋遺民広録序」が付された『宋遺民広録』の文献学的考察を行う。『宋遺民広録』は、明末清初に著された宋の遺民たちの事績を記録した書物であり、明の程敏政による『宋遺民録』を増補したものである。本書は長らく亡佚したと考えられてきたが、筆者は日本・中国の蔵書機関における稀覯写本調査を通じてこれを再発見し、さらに、異なる二系統の『宋遺民広録』の存在も明らかにした。本章では、文献学的手法を用いて、本書の内容、書名、さらに朝鮮への影響に関する諸問題を検討する。これにより、明末清初における宋の遺民に対する発掘活動を考察し、当時の知識人がどのように宋の遺民を語り、遺民像を再構築していたのかを解明する。
第9章「成簣堂所蔵手批本『明季遺聞』の書誌研究」では、明末清初の民間史書『明季遺聞』の成簣堂文庫所蔵手批本を対象に、その書誌的特徴と伝来経緯を明らかにするとともに、張斐の歴史認識と水戸藩儒者との関係に焦点を当てて考察する。本書には張斐による補足、訂正、批判的朱筆が多数加えられており、明清交替を経験した遺民の歴史認識を具体的に示す貴重な資料である。さらにその後の水戸から徳富蘇峰への伝来と再評価の過程にも注目し、『明季遺聞』が日本においていかに受容・評価されたかを検討する。
第10章「『戴曼公治痘用方』の文献調査と整理」では、日本屈指の本草医書コレクションを有する杏雨書屋に所蔵される『戴曼公治痘用方』の16種の写本を整理、分析する。これらの写本は、池田瑞仙によって創作された可能性が高いが、それにもかかわらず、日本の天然痘治療史において極めて重要な役割を果たしてきた。本章では各写本の序文を比較し、戴曼公の権威の構築と池田流痘瘡治療法の源流の形成過程を明らかにする。その上で、写本間の書誌情報、及び記された天然痘治療の処方を整理する。本章の分析を通じて、『戴曼公治痘用方』の成立過程とその医学史的意義を明確にし、日本近世医学における戴曼公像の形成を再評価する。
終章では、本論の内容を系統的に総括し、その成果と課題を明確化する。本論文の結論として、明末清初における遺民とは、決して一元的な遺民像に収斂される存在ではなく、各々がその背景的、地域的、思想的文脈の中で多様なかたちで構築された、いわば「遺民の諸相」と呼ぶべき、多面的な顔を示していたという点を明らかにする。
最後に、本論文の過程において浮かび上がった新たな問題意識や研究の限界をもとに、今後の研究課題を整理する。特に、本論文で取り上げた4名の遺民に対する考察から得られた知見を示すと同時に、なお未開拓の視点についての分析可能性を示し、明末清初における遺民研究のさらなる深化の方向性を展望する。