本論文は、大学に代表される律令国家の学制について、儀礼の受容との関係を意識しつつ、本論を2部に分けて平安時代までの展開を論じたものである。
 序章では、学科の編成と官僚制に接続する人材育成機能の2点を中心に進められてきた古代学制の研究に対して、学問の担い手となった人びとや古代東アジアの学校で重んぜられた儀礼の修得のあり方に着目する重要性を指摘した。さらに、本論の議論の前提として律令制導入以前の南朝や朝鮮半島からの学芸の伝播を検討するとともに、7世紀には学芸の継承が帰化人集団内部に限定されるものから王族や他の豪族も参加するものへと拡大していた状況を確認した。
 第1部「日本における学令の受容と展開」は、唐日律令制比較研究の視点から、学校制度について規定した学令条文の受容のあり方について検討したものである。第1章「学令の条文構成と特色」では、学令に準じた教育関係条文を有する医疾令との対照を行うことによって唐日学令の特色を考察した。その結果、学祖をまつる祭祀(釈奠)の実施、入学時に行われる束脩に関わる条文の排列の違い、日常生活に関する規定が詳細にわたる点が医疾令と異なる学令の特色であると指摘できる。これらは、いずれも経書にも淵源を求められるもので、儒教にもとづく学校の規範や儀礼の実施にかかわるものであると言え、学令が規定する大学が儒教に根ざしたものであるという特色を示すものである。他方、医疾令では唐令でも医者の家系の者を任用することを認めるなど、世襲による面が強く、家柄によらない人材登用を行う学校制度とは矛盾するものも含んでいた。日本の場合は、大学でも帰化人の子孫を登用することとなっており、その点で学校制度の理念である儒教的な条文群を実現することには困難を生じさせたという見通しを示した。
 第2章「養老学令12講説不長条小考」は、学令に規定する経書の修得が出来ていない場合であっても秀才試・進士試に挙送してもかまわないとする条文を検討したものである。本条文は、文学的な内容を課す秀才・進士試を受験する場合に経書学修を免除する日本令独自の条文と評価されることもあったが、唐令の復原を考証するなかで母法の存在を指摘し、母法の背景たる中国の状況を考察した。すなわち、中国の場合は学校以外の教育環境が整備されていたため、そうした人材が学校教育の修了期限を待たずして任官できるようにするために設けられた措置であった。一方、日本令の場合は、大宝令の段階では大学本科の教科書に『文選』・『爾雅』を加えることで、同様のあり方を想定していたものの、秀才試・進士試の出題に応じた内容を学ぶ文章生が設置されて以降、本条は実態を失っていった。さらに、養老令の施行にあたっては、大学本科の学修内容が経書に限定されたことで本条は空文と化したと論じた。
 第3章「延喜大学式25講書日限条小考」は、教科書の講義日数を規定した『延喜式』の条文について検討したものである。本条は、唐令を母法としたことが知られており、『令集解』では奈良時代の注釈書でも言及されているものだが、大宝・養老令には立条されていない。その事情として、日本令ではテキストの音読・暗唱は音博士、テキストの講読は博士以下の教官が担うというしくみが採用されていたため、一人の教官が教授することを前提とする本条を条文として取り入れることができなかったと論じた。ところが、平安初期の漢音奨励を頂点として大学本科や文章科において音読が廃れていくなかで、漢音の修得は専門の音科に限定的となり、音博士によるテキストの音読・暗唱の課程が失われていった。これにより、一人の教官が教授するという唐に近い体制が整い、本条実施の素地が形成された。しかしながら、唐令で年数表示された講義期間が日数で表示されたことは本条自体が教官に対する給付の算定日数を規定する条文とされたことを示すものであり、その性格が唐令とは変化していると論じた。
 第4章「摂関期における釈奠の胙」は、学令にも規定された釈奠の変化について、摂関期の儀式次第や古記録に見える供物に関する記述から復原・遡及的に唐礼の継受を論じたものである。摂関期に用いられた年中行事には、二月・八月の釈奠の翌日に「献胙」の記述が見え、天皇に対して、大学頭から釈奠の供物の一部が献じられていた。この儀式は、貴族層が立ち会う大学での儀式とは別のものとされたため、貴族層が立ち会うことはなく、三大儀式書などにはその次第が記録されることはなかった。祭祀の供物を天皇に献じる行為の淵源となるのは、皇帝の名前で祭祀が行われた際に供物を献じるという唐令(礼)に見える有司摂事の形式を取り入れたものであり、平安初期の郊祀の場合にも同様の事例が知られることもあり、奈良時代から平安初期にかけて唐礼に基づく釈奠儀礼が導入された際の名残であると論じた。また、ケガレ意識の広まりとともに唐風の供物の使用が後退して文学行事が中心になったと論じられることも多かった摂関期の釈奠祭祀について、天皇・貴族層の関与する年中行事の一部としての意義を有したと結論づけた。
 第2部は「平安時代における漢学の展開」と題して、平安時代における文化・学問的な事象について検討したものである。第1章「平安時代前期の紀伝の学問と礼制整備」は、9世紀に推進された中国的な儀礼の導入・礼制整備と文章科との関係を論じたものである。『内裏式』編纂を担当した人物に文章科出身者が多く含まれる一方で、経学を扱う大学本科の出身者は確認することが出来ないように、文章科が扱う学知と礼制整備との間の結びつきが想定される。文章科の扱う学問について過去に遡って検討すると、そもそも文章科は『文選』のような文学書を学ぶことを中心に発足したものと言えるが、吉備真備の三史将来以降、中国の弘文館などをモデルとした史書の学修が追加された。その背景には政治的場面での中国故事の利用が増加したことなどが想定でき、文章科が扱う内容のうち史書は重要な位置を占め、まさに「紀伝」の名にふさわしいものであった。このような文章科出身者が政治的な場で学識を発揮した場として、九世紀後葉の実例が残る礼議を検討すると、紀伝の書として中国正史のほかに『大唐開元礼』・『大唐六典』を使用する点に特徴が見られた。両書は儀注・職官の書として『隋書』経籍志で史書に分類されており、史書を扱う文章科の専門たるにふさわしいと言える。『大唐開元礼』・『大唐六典』は、唐風儀礼の受容のために必要な書物であり、文章科がそうした書物を読み解く分野であったという点も礼制整備に資するものであったと論じた。以上をふまえると、文章科出身者が『内裏式』編纂のような礼制整備に関与しているのは、文章科の学問のあり方を反映するものといえる。こうした専門性を活かした礼制整備への貢献は、平安時代前期を通じて文章科出身者が政界で重んぜられた一因と言うこともできよう。
 第2章「平安時代の読書儀と宮廷社会」は、平安時代中期以降に天皇・皇太子などが成年を向かえるに先立って実施するようになった読書始の形成について検討を加えたものである。平安時代前期の文章経国の機運のなかで、特定の漢籍や『日本書紀』などを読み進める君臣共学の場として読書儀が行われることがあった。これは、書物を読み終えることを前提とした実態をともなったものであった。しかし、幼帝の出現などによって、書目は『御注孝経』に限定され、貴族層の立ち会いも冒頭の一節を読む短時間の場面に限定されて読了を前提としなくなるなど形式的なものとなり、後世まで続く読書始として定着を見た。ただし、読書始の場で読まれる漢詩では天皇・皇太子の学問的資質が称賛されるなど、儀式に平安時代前期同様の効果を期待するデモンストレーションとしての性格が残ったのであり、平安時代中期の宮廷社会における漢籍の重要度を示すと論じた。
 第3章「摂関時代の教育はどのようであったか」は、『源氏物語』の夕霧の大学就学を起点として摂関時代の教育のあり方を概観したものである。摂関期にあっても、中下級貴族を対象として令制以来の大学の教育が機能し、貴族社会では彼らに文章作成能力が求められており、文章生から進士や秀才を経て受領層まで到達する官途が用意されていた。さらに、上級貴族に求められる教養としての学問のあり方がこれとは異なっていた有様を当該期の幼学書のあり方などから概観し、貴族社会の確立とともに貴族のランクに応じて必要とする学知が異なっていた様子を示した。
 終章では、これまでの議論を総括して、学芸の受容の点でみた律令国家の学制の特色と限界について、東アジア全体の中に位置づけて論じることを試みた。まず、第一部の検討内容を朝鮮半島の新羅と比べて検討した。唐制への接近は、法制度上は日本の方が近しい反面、実態的な面は新羅の方が最新情報を反映している傾向がある。これは、日本が律令法を体系的に継受したところに起因する特性であり、あらためて学令の受容が日本の学芸レベルの底上げをはかるものとなったことを確認した。さらに、第二部の検討内容を国風文化論との関係性で論じた。平安時代中期に至ると、天皇や摂関が教養を身につけることは重視されつつも、上級貴族に必要とされる学芸は大学で教授される専門分野とは乖離するなど、その変質のあり方は文化の国風化と軌を一にするものであったと言える。以上をふまえ、律令国家によって、学芸の面でその後の日本の文明の基礎が形作られたと論じた。