本論文は、「親の責務をめぐる倫理学的研究:役割とケアに着目して」と題し、現代社会における生殖補助技術の発展や多様な親子関係の可視化を背景に、〈誰がどのような道徳的基礎によって「親」であるべきか〉という問いを探究するものである。従来の倫理学の枠組みでは捉えきれなかった親役割の社会的・関係的側面、そして漸進性に焦点を当て、〈ケアする役割〉としての道徳的親を説明する規範的基盤として、道徳的親性(moral parenthood)のコミットメント説の擁護と改良を目指す。
この議論の背景には、親の権限と責任が排他的なものとして強く認識されている現状に対する問題意識がある。親のあり方が子どもの生に重大な影響を与えるこの社会において、「婚内生殖親」規範や生殖補助技術の普及、性的マイノリティの親実践といった親子の多様化とそれらに対する社会的な支援環境の未整備などがさまざまな問題を引き起こしている。そのような事態は、既存の「親」概念の規範的な妥当性を問い直し、〈誰が、どのような理由で『親』であるべきか〉を説明する親性の規範理論の必要性を強く要請している。
この問題に対して本論文は、法的な「親権者」の特定に焦点を当てる法哲学的アプローチではなく、親の「責務」や「責任」に着目する倫理学的なアプローチ、すなわち道徳的親性の探究を採用する。道徳的親性とは、生物学的事実や法的地位から区別される、道徳的な親のあり方を指す。本研究は、サリー・ハスランガーの改良的探究の方法論を親性概念に適用し、広い反省的均衡の方法を用いて議論を展開する。そしてまず、「親」概念の第一の目的は子どものニーズや利益を充足させ、生存と発達を保障することであるということから議論を出発させる。
第二章では、道徳的親の責務の主要な説の一つである生殖責任説を批判的に検討する。生殖責任説は、特別責務の随意モデルに基づき、「自由で、結果が合理的に予見可能な」生殖の責任を親の責務の基礎とする。本論文は、この説が以下の三点において不十分であることを論証する。第一に、親の責務は補償の責任ではないという点である。生殖責任説は、親の責務を「出生に伴って生じるニーズが満たされないことによる損害への補償」や「同意なしに出生させるという不正な行為への補償」と捉える。しかし、子どものニーズは成長と共に変化し「補償」の範囲を普遍的に規定できないことや、生殖者が「補償」できる能力や適格性を持つかどうかを考慮していない点、さらに親子関係が補償関係のように完了と同時に終了せず継続的な関係性を築く営みであるということを見落としている点で、親の責務を補償の責任であると考えることは妥当ではない。第二に、生殖責任説には生殖と因果関係の曖昧さの問題がある。「自由で、結果が合理的に予見可能な生殖」を責任の基礎としたとしても、因果関係の特定方法については論争があり、妊娠継続のみを原因とする極端な結論を招いたり、なぜ子どもの誕生に決定的に関わった医療従事者を「因果関係者」に含めないのかを説明できなかったりする。また、生殖に普遍的な価値中立的な因果関係を見出すことは、親役割の慣習性と社会性を無視する親の自然化にほかならない。第三に、生殖責任説は親業の社会的性質を説明できない。生殖責任説は親の責務を親子の一対一関係に限定し、子育てのコストが個人だけでは賄いきれないという経験的事実、そして子どもの生育が社会全体に利益をもたらす公共財としての側面を無視している。これらの批判を通じて、親の責務の基礎は、過去遡及的な個人的行為、すなわち生殖ではなく、未来志向的で関係的な構造の中に求められるべきであることを本論文は主張する。
第三章では、生殖責任説の限界を克服するための新たな理論的基盤として、マイケル・ハーディモンによる特別責務の役割責務モデルと、ロバート・グディンによるヴァルネラビリティモデルを提示し、それらを組み合わせたものを道徳的親性の理論の基盤にすべきであることを主張する。役割責務モデルによれば、親は、子どもの生存と健全な発達という目的を持つ社会的役割であり、その責務は役割に付随する役割責務として生じる。一方、ヴァルネラビリティモデルは、責務の根源を、私たちが脆弱で他者に依存的な存在であるという事実に求め、子どものヴァルネラビリティに対して特定の個人や集団が応答しなければならないプラグマティックな当為から特別責務が生じるとする。本論文は、この二つのモデルを相補的に組み合わせることで、親の責務を社会的構造(役割責務モデル)と個人的・集団的な関係性(ヴァルネラビリティモデル)の両側面から包括的に捉えることができると主張し、これにより、親役割は〈ケアする役割〉として位置付けられる。しかし、この〈ケアする役割〉は歴史的に特定の集団、特に「女性」に不公正に押し付けられてきた背景があり、その責務のあり方が公正でなければならない。これについて、エヴァ・フェダー・キテイによる「つながりに基づく平等」の議論を参照し、不正な責任割り当てを許容せず、ケアする親とケアされる子どもの双方のニーズが適切に充足される公正な役割の構築を目指すべきだと主張する。そして、その具体的な要件として、リプロダクティブ・ジャスティス(子どもをもたない権利、子どもをもつ権利、安全で健康な環境で親になる権利)の理念を参照し、道徳的親性の理論が公正なケアのあり方を追求する道筋を示す。
第四章では、第三章で確立した理論的基盤に基づき、道徳的親性のコミットメント説を擁護し、改良する。コミットメント説は、道徳的親の責務の基礎を、親業と親子関係への継続的な道徳的コミットメントに求める。それによって、エリザベス・ブレイクらが主張する自発説が抱えていた「親役割の自発的引き受け」の曖昧さを克服し、親役割の継続的で関係的な性質を的確に捉え直すのである。このコミットメントとは、適切な世話や養育と継続的な固有の関係の二要素からなり、道徳的価値の認識に動機づけられた表出された行為である。コミットメント説を採用すべき積極的な理由として、親役割の占有と遂行の区別が曖昧で、必ずしも占有が遂行に先立たないという親業の実情を詳細に分析する。その背景には、ケアとしての親業がもつ三つの性質がある。一つ目は、自己の変容であり、妊娠・出産から子育てを通じ、親の自己が子どもという他者との関係性によって根本的に変容することである。二つ目、相互作用による漸進的発達という性質である。これは親業が一方的ではなく、子どものヴァルネラビリティからの要請や指名に応答し、親子の共発達として漸進的に形成されていくという点を示している。そして三つ目は、アンビバレントな感情と葛藤という性質である。これは親業が喜びと同時に苦悩や苛立ちを含む葛藤を伴い、その動機付けが常に揺らぎ続けるという側面を捉えている。これらの性質は、親の責務が一時点の〈自発的引き受けかどうか〉という二分法では捉えきれないことを示唆しており、コミットメント説は、この複雑なプロセスを常に繰り返されている継続的な引き受けとしてのコミットメントと捉えることで、親役割をグラデーショナルで柔軟なものとして再定義する。さらに、コミットメントが公正な仕方であり続けるための要件として、親が自身のニーズと子どものニーズを顧み、不正な親規範を批判的に吟味しつつ、責務を継続的に引き受け直す態度である「反省的コミットメント」を導入する。これは、親が抑圧的な自己犠牲に陥ることを防ぎ、親役割の柔軟な調整と移行の可能性を議論に導入し、反省的コミットメントを支える制度や環境の整備を社会に要求するものである。
第五章では、コミットメント説に対する三つの主要な疑問や反論に応答する。第一に、愛とコミットメントに関する疑問に対しては、親の愛は内心の感情ではなく、適切な養育と関係性へのコミットメントという行為として表出されるべきであると論じる。葛藤やアンビバレントな感情がある現実をかんがみても、道徳的評価の観点から重要なのは適切な行為としてのコミットメントの遂行である。第二に、親の数とコミットメントに関する反論に対して、コミットメント説が「親は一人か二人であるべき」という近代家族の規範を問い直すものであり、子どもの利益を満たす協調的なコミットメントが行われている限り二人以上いても問題はないと主張する。また、誰もコミットしない場合でも、社会制度を通じて新たなコミットメントが必ず発生し、子どもの生が継続的に支えられるはずであり、新たなコミットメントを行う人が道徳的親であると考えられる。第三に、コミットメント説は、子どもにコミットしない生殖者を道徳的親とはみなさないが、生殖者は「同意なく存在させた」祖先・作り手として、道徳的親とは異なる「生殖者」としての役割責務を負うと主張する。この責務は子どもの生に対する一応の責務であり、その社会の文脈に沿って道徳的親の役割との関連で、子どもの出自を知る権利の保障などとして具体化される。
結論として、道徳的親性のコミットメント説は、従来の異性愛的単婚生殖親子を範型とする「親」規範からの脱却を促す。コミットメント説は、道徳的親性を分有可能で発展的なグラデーションのあるものとして捉え、親の権限と負担を小さくし、より多くの人がかかわる開かれた養育を可能にする社会改革を行うべきであると主張する。このように本論文は、道徳的親性の基礎を確立することで、排他的で閉鎖的な子育てが生み出す諸問題の解決に貢献し、ケアが基底する社会の実現に向けた規範的基盤を提示する。
この議論の背景には、親の権限と責任が排他的なものとして強く認識されている現状に対する問題意識がある。親のあり方が子どもの生に重大な影響を与えるこの社会において、「婚内生殖親」規範や生殖補助技術の普及、性的マイノリティの親実践といった親子の多様化とそれらに対する社会的な支援環境の未整備などがさまざまな問題を引き起こしている。そのような事態は、既存の「親」概念の規範的な妥当性を問い直し、〈誰が、どのような理由で『親』であるべきか〉を説明する親性の規範理論の必要性を強く要請している。
この問題に対して本論文は、法的な「親権者」の特定に焦点を当てる法哲学的アプローチではなく、親の「責務」や「責任」に着目する倫理学的なアプローチ、すなわち道徳的親性の探究を採用する。道徳的親性とは、生物学的事実や法的地位から区別される、道徳的な親のあり方を指す。本研究は、サリー・ハスランガーの改良的探究の方法論を親性概念に適用し、広い反省的均衡の方法を用いて議論を展開する。そしてまず、「親」概念の第一の目的は子どものニーズや利益を充足させ、生存と発達を保障することであるということから議論を出発させる。
第二章では、道徳的親の責務の主要な説の一つである生殖責任説を批判的に検討する。生殖責任説は、特別責務の随意モデルに基づき、「自由で、結果が合理的に予見可能な」生殖の責任を親の責務の基礎とする。本論文は、この説が以下の三点において不十分であることを論証する。第一に、親の責務は補償の責任ではないという点である。生殖責任説は、親の責務を「出生に伴って生じるニーズが満たされないことによる損害への補償」や「同意なしに出生させるという不正な行為への補償」と捉える。しかし、子どものニーズは成長と共に変化し「補償」の範囲を普遍的に規定できないことや、生殖者が「補償」できる能力や適格性を持つかどうかを考慮していない点、さらに親子関係が補償関係のように完了と同時に終了せず継続的な関係性を築く営みであるということを見落としている点で、親の責務を補償の責任であると考えることは妥当ではない。第二に、生殖責任説には生殖と因果関係の曖昧さの問題がある。「自由で、結果が合理的に予見可能な生殖」を責任の基礎としたとしても、因果関係の特定方法については論争があり、妊娠継続のみを原因とする極端な結論を招いたり、なぜ子どもの誕生に決定的に関わった医療従事者を「因果関係者」に含めないのかを説明できなかったりする。また、生殖に普遍的な価値中立的な因果関係を見出すことは、親役割の慣習性と社会性を無視する親の自然化にほかならない。第三に、生殖責任説は親業の社会的性質を説明できない。生殖責任説は親の責務を親子の一対一関係に限定し、子育てのコストが個人だけでは賄いきれないという経験的事実、そして子どもの生育が社会全体に利益をもたらす公共財としての側面を無視している。これらの批判を通じて、親の責務の基礎は、過去遡及的な個人的行為、すなわち生殖ではなく、未来志向的で関係的な構造の中に求められるべきであることを本論文は主張する。
第三章では、生殖責任説の限界を克服するための新たな理論的基盤として、マイケル・ハーディモンによる特別責務の役割責務モデルと、ロバート・グディンによるヴァルネラビリティモデルを提示し、それらを組み合わせたものを道徳的親性の理論の基盤にすべきであることを主張する。役割責務モデルによれば、親は、子どもの生存と健全な発達という目的を持つ社会的役割であり、その責務は役割に付随する役割責務として生じる。一方、ヴァルネラビリティモデルは、責務の根源を、私たちが脆弱で他者に依存的な存在であるという事実に求め、子どものヴァルネラビリティに対して特定の個人や集団が応答しなければならないプラグマティックな当為から特別責務が生じるとする。本論文は、この二つのモデルを相補的に組み合わせることで、親の責務を社会的構造(役割責務モデル)と個人的・集団的な関係性(ヴァルネラビリティモデル)の両側面から包括的に捉えることができると主張し、これにより、親役割は〈ケアする役割〉として位置付けられる。しかし、この〈ケアする役割〉は歴史的に特定の集団、特に「女性」に不公正に押し付けられてきた背景があり、その責務のあり方が公正でなければならない。これについて、エヴァ・フェダー・キテイによる「つながりに基づく平等」の議論を参照し、不正な責任割り当てを許容せず、ケアする親とケアされる子どもの双方のニーズが適切に充足される公正な役割の構築を目指すべきだと主張する。そして、その具体的な要件として、リプロダクティブ・ジャスティス(子どもをもたない権利、子どもをもつ権利、安全で健康な環境で親になる権利)の理念を参照し、道徳的親性の理論が公正なケアのあり方を追求する道筋を示す。
第四章では、第三章で確立した理論的基盤に基づき、道徳的親性のコミットメント説を擁護し、改良する。コミットメント説は、道徳的親の責務の基礎を、親業と親子関係への継続的な道徳的コミットメントに求める。それによって、エリザベス・ブレイクらが主張する自発説が抱えていた「親役割の自発的引き受け」の曖昧さを克服し、親役割の継続的で関係的な性質を的確に捉え直すのである。このコミットメントとは、適切な世話や養育と継続的な固有の関係の二要素からなり、道徳的価値の認識に動機づけられた表出された行為である。コミットメント説を採用すべき積極的な理由として、親役割の占有と遂行の区別が曖昧で、必ずしも占有が遂行に先立たないという親業の実情を詳細に分析する。その背景には、ケアとしての親業がもつ三つの性質がある。一つ目は、自己の変容であり、妊娠・出産から子育てを通じ、親の自己が子どもという他者との関係性によって根本的に変容することである。二つ目、相互作用による漸進的発達という性質である。これは親業が一方的ではなく、子どものヴァルネラビリティからの要請や指名に応答し、親子の共発達として漸進的に形成されていくという点を示している。そして三つ目は、アンビバレントな感情と葛藤という性質である。これは親業が喜びと同時に苦悩や苛立ちを含む葛藤を伴い、その動機付けが常に揺らぎ続けるという側面を捉えている。これらの性質は、親の責務が一時点の〈自発的引き受けかどうか〉という二分法では捉えきれないことを示唆しており、コミットメント説は、この複雑なプロセスを常に繰り返されている継続的な引き受けとしてのコミットメントと捉えることで、親役割をグラデーショナルで柔軟なものとして再定義する。さらに、コミットメントが公正な仕方であり続けるための要件として、親が自身のニーズと子どものニーズを顧み、不正な親規範を批判的に吟味しつつ、責務を継続的に引き受け直す態度である「反省的コミットメント」を導入する。これは、親が抑圧的な自己犠牲に陥ることを防ぎ、親役割の柔軟な調整と移行の可能性を議論に導入し、反省的コミットメントを支える制度や環境の整備を社会に要求するものである。
第五章では、コミットメント説に対する三つの主要な疑問や反論に応答する。第一に、愛とコミットメントに関する疑問に対しては、親の愛は内心の感情ではなく、適切な養育と関係性へのコミットメントという行為として表出されるべきであると論じる。葛藤やアンビバレントな感情がある現実をかんがみても、道徳的評価の観点から重要なのは適切な行為としてのコミットメントの遂行である。第二に、親の数とコミットメントに関する反論に対して、コミットメント説が「親は一人か二人であるべき」という近代家族の規範を問い直すものであり、子どもの利益を満たす協調的なコミットメントが行われている限り二人以上いても問題はないと主張する。また、誰もコミットしない場合でも、社会制度を通じて新たなコミットメントが必ず発生し、子どもの生が継続的に支えられるはずであり、新たなコミットメントを行う人が道徳的親であると考えられる。第三に、コミットメント説は、子どもにコミットしない生殖者を道徳的親とはみなさないが、生殖者は「同意なく存在させた」祖先・作り手として、道徳的親とは異なる「生殖者」としての役割責務を負うと主張する。この責務は子どもの生に対する一応の責務であり、その社会の文脈に沿って道徳的親の役割との関連で、子どもの出自を知る権利の保障などとして具体化される。
結論として、道徳的親性のコミットメント説は、従来の異性愛的単婚生殖親子を範型とする「親」規範からの脱却を促す。コミットメント説は、道徳的親性を分有可能で発展的なグラデーションのあるものとして捉え、親の権限と負担を小さくし、より多くの人がかかわる開かれた養育を可能にする社会改革を行うべきであると主張する。このように本論文は、道徳的親性の基礎を確立することで、排他的で閉鎖的な子育てが生み出す諸問題の解決に貢献し、ケアが基底する社会の実現に向けた規範的基盤を提示する。