本論文は、フィクション作品による情動喚起を、分析美学の方法論によって分析するものである。本論文の問いは二つある。一つは、〈フィクション作品が鑑賞者の情動を喚起するとはどういうことか〉という問い、もう一つは〈情動喚起の芸術的な価値づけはどのように行われるのか〉という問いである。これらの問いに対する私の答えは、それぞれ以下のようなものである。つまり、フィクション作品による情動喚起とは、〈作品の形式的特徴(芸術的デバイス)によって、作品の虚構的内容の(鑑賞者あるいはキャラクターにとっての)特定の価値的性質(基準的特質)を活性化し、その性質を表象する情動的反応を適切にすること〉である。そして情動喚起の芸術的価値の一つは、〈情動喚起によって複雑で新奇な情動経験をもたらすこと〉である。この結論を導くために、本論文は以下のような構成で議論を行う。
この章では、以降の議論の基盤となる、基礎的な概念についての先行研究を概観し、この後の章で用いる概念を整備する。一つは「フィクション[fiction]」概念である。ここでは分析美学におけるフィクションの定義論を振り返り、本章で採用する定義を明示する。私は「メイクビリーブ[make-believe](あるいは想像[imagining])」によってフィクションを定義する先行研究の共通了解に同意した上で、それに「物語[narrative]」の条件を加えたものを、本論文の念頭に置く「フィクション作品[work of fiction]」として特徴づける。
もう一つは「情動[emotion]」概念である。情動の定義は、情動の哲学および感情心理学で長らく論じられてきた事柄である。本章では、身体説(ジェームス=ランゲ説)と、認知説の対立を振り返った上で、それらを現代で統合した身体評価説(Prinz 2004 [2016]])を採用する。つまり情動とは、対象の価値的性質(基準的特質、中心的関係テーマ、形式的対象)を、身体変化によって追跡することで、表象する心的状態である。
その上でこの章では最後に、〈虚構的対象に対する情動〉というトピックに簡単に触れる。「フィクションのパラドックス」の議論において、私たちは存在しないものに対して真正な情動を抱くことができるのか、という議論が続いてきた。この問題に関して私は、戸田山(2016)による思考説(Carroll 1990 [2020])の解釈を参照する。それによれば、情動の入力システムは信念だけではなく、メイクビリーブでもあり得るのであり、それによって経験される情動は真正なものである。
第2章 悲劇を観てなぜ悲しむべきなのか:フィクション鑑賞における適切な情動的反応について
第1章で検討した概念的基盤を前提に、第2章ではフィクション作品(の特定の場面)が、〈特定の情動を喚起しているとはどういうことなのか〉という問いを、〈特定の情動的反応が適切と見なされるとはどういうことなのか〉という問いとして分析する。例えばスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ジョーズ』(1975)において、キャラクターがサメに襲われる場面で(愉快さや喜びではなく)恐怖という情動が適切であるとされるとき、それは何に基づいているのだろうか。
この章ではこの問いに対する先行研究の主張を検討し、それらの問題点を指摘した上で、Gilmore(2020)のデザイン説を修正し、ジャンル説として発展させる。私の主張は以下のようなものである。つまり、フィクション作品の鑑賞における適切な情動的反応は、作品の形式的特徴(芸術的デバイス)の効果によって活性化される、対象の基準的特質を表象するものである。ただしその形式的特徴の効果と対象に帰属され得る基準的特質は、それぞれ作品の属するジャンルに依拠する。
第3章 キャラクターの代わりに怖がる:代理経験と情動的関与の三つの様態について
この章では、フィクション作品の鑑賞において私たちがしばしば、自分自身以外にとっての価値的性質を表象する情動を抱くとはどういうことなのか、という問いを扱う。言い換えれば、キャラクターに対して情動的に参与するとはどういうことなのか、という問題を分析する。私たちはフィクション鑑賞において、キャラクターに関係して様々な様態で情動を経験する。つまり、『オイディプス王』においてオイディプスが運命のいたずらでそのような境遇に陥ったことを哀れに思うこともある一方で、『ジョーズ』においては(サメに気づいていない)キャラクターの代わりに恐怖を感じることもある。このようなキャラクターに対する様々な様態の情動的な参与を、先行研究は統一的な仕方で説明してこなかった。
私はNanay(2016)の代理経験理論を活用することで、キャラクターに対する情動的な参与を三つの様態(共感的参与、代理的参与、状況的参与)に分類する。それによって、キャラクターに対する情動的参与を〈価値的性質を表象する情動〉と〈実践的利害に基づく注意〉の観点から、統一的な仕方で説明する。つまり代理的参与とは、「鑑賞者Aが、Aの把握しているキャラクターCの実践的利害に基づいた価値的性質Eに注意を集中させ、Eを表象する情動を経験する」こと、共感的参与とは、「鑑賞者Aが、キャラクターCの把握しているCの実践的利害に基づいた価値的性質Eに注意を集中させ、Eを表象する情動を経験する」こと、状況的参与とは、「鑑賞者AがキャラクターCの実践的利害を含めた状況全体に特定の価値的性質Eを帰属し、Eを表象する情動を経験する」ことである。
また本章は、それらの三つの参与様態のいずれかを適切な情動的参与とする、芸術的デバイスの役割にも触れる。
第4章 ロックンロールと拷問:視聴覚メディアにおける対位法と混合感情について
この章では、映画における視覚的内容(e.g. 拷問)と音楽(e.g. 明るいロックンロール)が食い違っている「対位法」と呼ばれる技法について分析する。ここまでの議論では、フィクション鑑賞において、BGMなどの芸術的デバイスが活性化する基準的特質を表象する情動的反応が適切であり、そのシーンが喚起する情動と見なされると論じてきた。しかし、対位法を用いたシーンにおいては、芸術的デバイスと対応する情動と、作品内容に対して適切な情動が食い違ってしまっているように思える。そこで私はまず、対位法を用いたシーンであるスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』のラストシーンを分析したSong(2020)の主張を批判的に検討する。その結果、Song(2020)の議論には作品内容において単一の情動のみが適切であるという非明示的な前提が見られることを指摘し、それが擁護できないことを経験科学の成果を活用して示す。私はその上で、『博士の異常な愛情』のような対位法を用いた一部のシーンにおいては、作品内容の複数の異なる基準的特質を表象する、混合感情が適切であると主張する。
第5章 「お涙頂戴」の何が芸術的に良くないのか:情動喚起の評価について
この章では「お涙頂戴」を代表とする、フィクション作品による情動喚起に対する芸術的評価を分析する。私たちはフィクション作品を芸術作品として鑑賞する際に、小説における文体のリズムや映画における画面の構図を美的に味わうだけでなく、フィクション作品がどのように情動を喚起するかをも気にかけている。芸術的に良い情動喚起はヒューマンドラマにおいては「感動的」、ホラー映画においては「戦慄させる」、コメディにおいては「抱腹絶倒」などと高く評価される一方で、「お涙頂戴」「陳腐」「感傷的」と低く評価される情動喚起もある。そのような評価は、何をどのように評価しているのだろうか。
私はこの問いに対して、先行研究やフィクション作品に関する実践から「意図説」(情動喚起の意図が明らかであることが芸術的に悪い)「感傷説」(感傷的なテーマを扱っている・特定の人物を理想化したり悪魔化していることが芸術的に悪い)「過剰説」(情動喚起のための芸術的効果が過剰であることが芸術的に悪い)という三つの一見もっともらしい主張を導き出した上で、それらを批判し、その問題点を解決する「限定説」を提案する。これによれば、芸術的に悪い情動喚起とは、芸術的デバイスの心理的効果の過大さや内容の紋切り型などによって、適切な情動がありふれた単純な情動に限定された情動喚起である。それによって私は、一部フィクション作品による情動喚起の芸術的評価において、作品が可能にする新奇で複雑な情動経験が重視されていることを示す。ただし、そのようなフィクション作品の情動喚起の芸術的評価は、作品の属するジャンルの目的に依存するものである。ポピュラーフィクションや子ども向け作品などの場合は、情動喚起がむしろ限定されていることが標準的であったり、あるいはむしろ芸術的に高く評価されたりすることがあるだろう。
もう一つは「情動[emotion]」概念である。情動の定義は、情動の哲学および感情心理学で長らく論じられてきた事柄である。本章では、身体説(ジェームス=ランゲ説)と、認知説の対立を振り返った上で、それらを現代で統合した身体評価説(Prinz 2004 [2016]])を採用する。つまり情動とは、対象の価値的性質(基準的特質、中心的関係テーマ、形式的対象)を、身体変化によって追跡することで、表象する心的状態である。
その上でこの章では最後に、〈虚構的対象に対する情動〉というトピックに簡単に触れる。「フィクションのパラドックス」の議論において、私たちは存在しないものに対して真正な情動を抱くことができるのか、という議論が続いてきた。この問題に関して私は、戸田山(2016)による思考説(Carroll 1990 [2020])の解釈を参照する。それによれば、情動の入力システムは信念だけではなく、メイクビリーブでもあり得るのであり、それによって経験される情動は真正なものである。
第2章 悲劇を観てなぜ悲しむべきなのか:フィクション鑑賞における適切な情動的反応について
第1章で検討した概念的基盤を前提に、第2章ではフィクション作品(の特定の場面)が、〈特定の情動を喚起しているとはどういうことなのか〉という問いを、〈特定の情動的反応が適切と見なされるとはどういうことなのか〉という問いとして分析する。例えばスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ジョーズ』(1975)において、キャラクターがサメに襲われる場面で(愉快さや喜びではなく)恐怖という情動が適切であるとされるとき、それは何に基づいているのだろうか。
この章ではこの問いに対する先行研究の主張を検討し、それらの問題点を指摘した上で、Gilmore(2020)のデザイン説を修正し、ジャンル説として発展させる。私の主張は以下のようなものである。つまり、フィクション作品の鑑賞における適切な情動的反応は、作品の形式的特徴(芸術的デバイス)の効果によって活性化される、対象の基準的特質を表象するものである。ただしその形式的特徴の効果と対象に帰属され得る基準的特質は、それぞれ作品の属するジャンルに依拠する。
第3章 キャラクターの代わりに怖がる:代理経験と情動的関与の三つの様態について
この章では、フィクション作品の鑑賞において私たちがしばしば、自分自身以外にとっての価値的性質を表象する情動を抱くとはどういうことなのか、という問いを扱う。言い換えれば、キャラクターに対して情動的に参与するとはどういうことなのか、という問題を分析する。私たちはフィクション鑑賞において、キャラクターに関係して様々な様態で情動を経験する。つまり、『オイディプス王』においてオイディプスが運命のいたずらでそのような境遇に陥ったことを哀れに思うこともある一方で、『ジョーズ』においては(サメに気づいていない)キャラクターの代わりに恐怖を感じることもある。このようなキャラクターに対する様々な様態の情動的な参与を、先行研究は統一的な仕方で説明してこなかった。
私はNanay(2016)の代理経験理論を活用することで、キャラクターに対する情動的な参与を三つの様態(共感的参与、代理的参与、状況的参与)に分類する。それによって、キャラクターに対する情動的参与を〈価値的性質を表象する情動〉と〈実践的利害に基づく注意〉の観点から、統一的な仕方で説明する。つまり代理的参与とは、「鑑賞者Aが、Aの把握しているキャラクターCの実践的利害に基づいた価値的性質Eに注意を集中させ、Eを表象する情動を経験する」こと、共感的参与とは、「鑑賞者Aが、キャラクターCの把握しているCの実践的利害に基づいた価値的性質Eに注意を集中させ、Eを表象する情動を経験する」こと、状況的参与とは、「鑑賞者AがキャラクターCの実践的利害を含めた状況全体に特定の価値的性質Eを帰属し、Eを表象する情動を経験する」ことである。
また本章は、それらの三つの参与様態のいずれかを適切な情動的参与とする、芸術的デバイスの役割にも触れる。
第4章 ロックンロールと拷問:視聴覚メディアにおける対位法と混合感情について
この章では、映画における視覚的内容(e.g. 拷問)と音楽(e.g. 明るいロックンロール)が食い違っている「対位法」と呼ばれる技法について分析する。ここまでの議論では、フィクション鑑賞において、BGMなどの芸術的デバイスが活性化する基準的特質を表象する情動的反応が適切であり、そのシーンが喚起する情動と見なされると論じてきた。しかし、対位法を用いたシーンにおいては、芸術的デバイスと対応する情動と、作品内容に対して適切な情動が食い違ってしまっているように思える。そこで私はまず、対位法を用いたシーンであるスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』のラストシーンを分析したSong(2020)の主張を批判的に検討する。その結果、Song(2020)の議論には作品内容において単一の情動のみが適切であるという非明示的な前提が見られることを指摘し、それが擁護できないことを経験科学の成果を活用して示す。私はその上で、『博士の異常な愛情』のような対位法を用いた一部のシーンにおいては、作品内容の複数の異なる基準的特質を表象する、混合感情が適切であると主張する。
第5章 「お涙頂戴」の何が芸術的に良くないのか:情動喚起の評価について
この章では「お涙頂戴」を代表とする、フィクション作品による情動喚起に対する芸術的評価を分析する。私たちはフィクション作品を芸術作品として鑑賞する際に、小説における文体のリズムや映画における画面の構図を美的に味わうだけでなく、フィクション作品がどのように情動を喚起するかをも気にかけている。芸術的に良い情動喚起はヒューマンドラマにおいては「感動的」、ホラー映画においては「戦慄させる」、コメディにおいては「抱腹絶倒」などと高く評価される一方で、「お涙頂戴」「陳腐」「感傷的」と低く評価される情動喚起もある。そのような評価は、何をどのように評価しているのだろうか。
私はこの問いに対して、先行研究やフィクション作品に関する実践から「意図説」(情動喚起の意図が明らかであることが芸術的に悪い)「感傷説」(感傷的なテーマを扱っている・特定の人物を理想化したり悪魔化していることが芸術的に悪い)「過剰説」(情動喚起のための芸術的効果が過剰であることが芸術的に悪い)という三つの一見もっともらしい主張を導き出した上で、それらを批判し、その問題点を解決する「限定説」を提案する。これによれば、芸術的に悪い情動喚起とは、芸術的デバイスの心理的効果の過大さや内容の紋切り型などによって、適切な情動がありふれた単純な情動に限定された情動喚起である。それによって私は、一部フィクション作品による情動喚起の芸術的評価において、作品が可能にする新奇で複雑な情動経験が重視されていることを示す。ただし、そのようなフィクション作品の情動喚起の芸術的評価は、作品の属するジャンルの目的に依存するものである。ポピュラーフィクションや子ども向け作品などの場合は、情動喚起がむしろ限定されていることが標準的であったり、あるいはむしろ芸術的に高く評価されたりすることがあるだろう。
[進岡1]基礎概念の検討