本論文では、風葬や洗骨の慣習を有していた沖縄に、埋葬や火葬を前提とする日本の法体系が適用される歴史的過程を明らかにするとともに、その実態について記述する。そして、明治期以降の日本の墓埋法制によって各地の多様な葬墓が“平準化”したとする先行研究を反証し、法制や行政が葬墓制に与えた影響変数を再検討する。ひいては、法と民俗の二項対立を問い直し、両者は例外的に現状を容認する“共犯関係”とも言うべき深い関係にあるという仮説を検討する。法制や行政に着目した葬墓制研究は沖縄研究に限らず稀であることから、本論文は、日本の近現代葬墓制史における政治的変数を捉え直す、パイオニア的研究と位置付けられることになるだろう。また、国家的な抑圧によって“民俗的な世界”が崩壊したという図式の延長とも言える葬墓の“平準化”説を問い直すことで、日本の「近代」研究を捉え直すことになり、更には民俗学が扱えずにいた「近代」研究を切り拓く研究としても位置付けられることになるだろう。
序章では、問題の所在を明らかにし、本研究の位置づけと意義の確認、本研究の方法、筆者の立場性などについて記述する。
第1章から第3章までは、先行研究のほぼ無い沖縄における墓埋法制の歴史に関する記述である。第1章では、沖縄への「墓埋法」適用の歴史の“前史”として、本土における墓埋法制の歴史と議論の整理を行う。先行研究を土台に、本土での墓埋法制の展開を、「神葬祭奨励→脱宗教化→『近代墓制』の成立」として記述し、祖先祭祀観・公衆衛生・除税・都市計画・公共性という近代国家の“墓観”が、明治17年の「墓地及埋葬取締規則」に結晶したこと、そして戦後の「墓埋法」に大枠が継承されたことを示す。他方で、現行法は「第1条 国民の宗教的感情に適合」することを根拠に解釈が拡散し、散骨をはじめとして多様化・無縁化する葬墓制の進行に十分に対応し得ず「ザル法」と呼ばれている点を確認する。また、分権改革の流れを受けて墓地等の経営許可権限が市区町村へと移行し、「墓埋法」の運用は地域裁量に委ねられている点を確認する。本章での整理は、以降の沖縄を事例とする“平準化”説再考の前提となる。
第2章では、琉球処分後の沖縄に本土の墓埋法制がいかに適用され、展開したかを検証する。洗骨改葬・門中墓・墓地売買等の実情と明治政府の法制の齟齬が顕在化しつつも、初期は旧慣温存政策のもと、積極的な調整は図られず留め置かれる。他方で衛生観念と公共性は早期に浸透する。その後、旧慣温存政策が一転され、風俗改良運動・土地整理事業の完了・行政主導による火葬の推進運動を経るが、明治37年(1904年)に県が制定した施行細則がほとんどの沖縄葬墓の慣習を容認していることから、結果として明治の法制は沖縄葬墓の核心慣習を揺るがすことはなく、“平準化”は起こらない。沖縄の伝統的な葬墓形態は近代をほぼ無傷のまま通過することとなる。
第3章は、米軍統治期の沖縄の行政機構で制定された2つの法――昭和26年(1951年)「墓埋条例」と昭和34年(1959年)「墓埋立法」――が、本土の「墓埋法」との連続性を基調としつつ、風葬・洗骨・門中墓等の慣習を制度内に包摂した過程を示す。他方で、基地拡張の軍令(クリアランス)は墓の強制撤去と移転を招き、墓の「個人墓地」化・小型化・規格化を加速し、後年の民間業者による霊園型開発へ接続する。軍令や基地を前に沖縄の伝統的な葬墓形態は変容せざるを得ないこととなったが、一方で、強権的な軍令とは対照的な日本・沖縄側の墓埋法制の曖昧さ/寛容さを証明する歴史の一側面が示される。
第4章は、本土復帰以降の沖縄における墓埋行政の現在地を、現行「墓埋法」と地域慣習の交錯として描く。まず、風葬・洗骨、墓地の売買譲渡、「個人墓地」や門中墓といった慣習が、なお実態として継続していることをフィールドデータより確認する。次に、県の『墓地公園整備基本指針』(2000年)が「個人墓地問題」を提起し、家族墓の抑制と公営墓地整備・集約化へ誘導する政策転換を示した点を整理する。そして実態把握のため、門中墓(法的には「個人墓地」)を多く有する糸満市、家族墓(「個人墓地」)の新設許可件数が県内1位のうるま市の墓埋行政を検証する。結果として、糸満市(門中墓全面保全)とうるま市(受け皿整備までの間、「個人墓地」を広めに許可)の事例から、地方自治体が国家法と生活慣行の間を媒介し、規制と黙認・例外運用・地域実情の斟酌を通じて「折り合い」を形成している実態が明らかとなる。
第5章は、火葬場を持たない粟国島を中心に、離島の墓埋行政が「法の適用」ではなく「村落規範の延長」として運行する実相を描く。村は墓地指定を設けずとも不文律により立地を収斂させ、届出・許可は事後的/最小限にとどまる。他方、粟国島の『墓地基本計画』に表れた火葬場希求の文言は伝統否定ではなく、洗骨の負担・担い手不足・助成制度の存在がもたらした伝統の「自律的変化」の言語化であったことを示す。比較として与那国島や奄美群島の与論島を参照し、離島における墓埋法制から見えるものは、民俗と法の対立ではなく、民俗は法に“先行”して存在し、制度が追随するものであるという実態である。民俗と法はコミュニケーションによる調整によって、“連続”の位相で存在することを論じる。
本稿第1章から第3章で詳述する歴史記述、及び第4章、第5章で描く「墓埋法」運用の実相において、沖縄では法による葬墓の“平準化”説は当たらない旨を立証することになる。墓埋法制が日本において地域に広範な裁量権を認めてきたことが大きな要因であり、沖縄では独自に設けた法令、施行細則や要綱の中に伝統的な葬墓形態を包摂し、それらは維持されるのである。ただ、米軍によるクリアランスなどの影響もあり、「個人墓地」が不可抗力的に街に点在するようになって問題が顕在化すると、県主導で集約化が謳われるようになるが、市町村はここでも裁量権を用い、独自の『墓地基本計画』や条例を設けて地域慣習との“折衷”を行う。これらの歴史と実相からは、法は単に「適用」されるものではなく、村落規範や慣習の「延長」として存在している様、問題が顕在化したときに初めて行政や法が動くが、それでも慣習との“連続性”の中で「折り合い」がつけられる様が看取できると言える。民俗と法とは可変的であり、両者は密接なコミュニケーションを取り合って存在するのである。“共犯関係”とも言うべき関係にあるとの見立てが、ここで証明されることになる。
終章では、このような法と民俗の相関や力学が、沖縄や「墓埋法」に特別なものであるわけではないことを示す手立てとして、法人類学・法社会学的理論を提示し、再び本研究の意義に触れ、今後の展望を示す。
序章では、問題の所在を明らかにし、本研究の位置づけと意義の確認、本研究の方法、筆者の立場性などについて記述する。
第1章から第3章までは、先行研究のほぼ無い沖縄における墓埋法制の歴史に関する記述である。第1章では、沖縄への「墓埋法」適用の歴史の“前史”として、本土における墓埋法制の歴史と議論の整理を行う。先行研究を土台に、本土での墓埋法制の展開を、「神葬祭奨励→脱宗教化→『近代墓制』の成立」として記述し、祖先祭祀観・公衆衛生・除税・都市計画・公共性という近代国家の“墓観”が、明治17年の「墓地及埋葬取締規則」に結晶したこと、そして戦後の「墓埋法」に大枠が継承されたことを示す。他方で、現行法は「第1条 国民の宗教的感情に適合」することを根拠に解釈が拡散し、散骨をはじめとして多様化・無縁化する葬墓制の進行に十分に対応し得ず「ザル法」と呼ばれている点を確認する。また、分権改革の流れを受けて墓地等の経営許可権限が市区町村へと移行し、「墓埋法」の運用は地域裁量に委ねられている点を確認する。本章での整理は、以降の沖縄を事例とする“平準化”説再考の前提となる。
第2章では、琉球処分後の沖縄に本土の墓埋法制がいかに適用され、展開したかを検証する。洗骨改葬・門中墓・墓地売買等の実情と明治政府の法制の齟齬が顕在化しつつも、初期は旧慣温存政策のもと、積極的な調整は図られず留め置かれる。他方で衛生観念と公共性は早期に浸透する。その後、旧慣温存政策が一転され、風俗改良運動・土地整理事業の完了・行政主導による火葬の推進運動を経るが、明治37年(1904年)に県が制定した施行細則がほとんどの沖縄葬墓の慣習を容認していることから、結果として明治の法制は沖縄葬墓の核心慣習を揺るがすことはなく、“平準化”は起こらない。沖縄の伝統的な葬墓形態は近代をほぼ無傷のまま通過することとなる。
第3章は、米軍統治期の沖縄の行政機構で制定された2つの法――昭和26年(1951年)「墓埋条例」と昭和34年(1959年)「墓埋立法」――が、本土の「墓埋法」との連続性を基調としつつ、風葬・洗骨・門中墓等の慣習を制度内に包摂した過程を示す。他方で、基地拡張の軍令(クリアランス)は墓の強制撤去と移転を招き、墓の「個人墓地」化・小型化・規格化を加速し、後年の民間業者による霊園型開発へ接続する。軍令や基地を前に沖縄の伝統的な葬墓形態は変容せざるを得ないこととなったが、一方で、強権的な軍令とは対照的な日本・沖縄側の墓埋法制の曖昧さ/寛容さを証明する歴史の一側面が示される。
第4章は、本土復帰以降の沖縄における墓埋行政の現在地を、現行「墓埋法」と地域慣習の交錯として描く。まず、風葬・洗骨、墓地の売買譲渡、「個人墓地」や門中墓といった慣習が、なお実態として継続していることをフィールドデータより確認する。次に、県の『墓地公園整備基本指針』(2000年)が「個人墓地問題」を提起し、家族墓の抑制と公営墓地整備・集約化へ誘導する政策転換を示した点を整理する。そして実態把握のため、門中墓(法的には「個人墓地」)を多く有する糸満市、家族墓(「個人墓地」)の新設許可件数が県内1位のうるま市の墓埋行政を検証する。結果として、糸満市(門中墓全面保全)とうるま市(受け皿整備までの間、「個人墓地」を広めに許可)の事例から、地方自治体が国家法と生活慣行の間を媒介し、規制と黙認・例外運用・地域実情の斟酌を通じて「折り合い」を形成している実態が明らかとなる。
第5章は、火葬場を持たない粟国島を中心に、離島の墓埋行政が「法の適用」ではなく「村落規範の延長」として運行する実相を描く。村は墓地指定を設けずとも不文律により立地を収斂させ、届出・許可は事後的/最小限にとどまる。他方、粟国島の『墓地基本計画』に表れた火葬場希求の文言は伝統否定ではなく、洗骨の負担・担い手不足・助成制度の存在がもたらした伝統の「自律的変化」の言語化であったことを示す。比較として与那国島や奄美群島の与論島を参照し、離島における墓埋法制から見えるものは、民俗と法の対立ではなく、民俗は法に“先行”して存在し、制度が追随するものであるという実態である。民俗と法はコミュニケーションによる調整によって、“連続”の位相で存在することを論じる。
本稿第1章から第3章で詳述する歴史記述、及び第4章、第5章で描く「墓埋法」運用の実相において、沖縄では法による葬墓の“平準化”説は当たらない旨を立証することになる。墓埋法制が日本において地域に広範な裁量権を認めてきたことが大きな要因であり、沖縄では独自に設けた法令、施行細則や要綱の中に伝統的な葬墓形態を包摂し、それらは維持されるのである。ただ、米軍によるクリアランスなどの影響もあり、「個人墓地」が不可抗力的に街に点在するようになって問題が顕在化すると、県主導で集約化が謳われるようになるが、市町村はここでも裁量権を用い、独自の『墓地基本計画』や条例を設けて地域慣習との“折衷”を行う。これらの歴史と実相からは、法は単に「適用」されるものではなく、村落規範や慣習の「延長」として存在している様、問題が顕在化したときに初めて行政や法が動くが、それでも慣習との“連続性”の中で「折り合い」がつけられる様が看取できると言える。民俗と法とは可変的であり、両者は密接なコミュニケーションを取り合って存在するのである。“共犯関係”とも言うべき関係にあるとの見立てが、ここで証明されることになる。
終章では、このような法と民俗の相関や力学が、沖縄や「墓埋法」に特別なものであるわけではないことを示す手立てとして、法人類学・法社会学的理論を提示し、再び本研究の意義に触れ、今後の展望を示す。