本研究は、南東アラビアとユーフラテス川中流域における墓地遺跡と城郭遺跡を研究対象に、低地と⾼地の関係に着目することで、青銅器時代から鉄器時代の社会動態を明らかにするものである。本論文はⅠ~Ⅲ部の3部構成で全12章からなる。
第Ⅰ部では、西アジア乾燥地域における遊牧について論じ、ユーフラテス川中流域の具体例の分析を行った。第1章では研究目的と背景について述べた。第2章では当地域における前4千年紀から前1千年紀の古気候データについて、第3章では、当地域の青銅器・鉄器時代における遊牧についての先行研究を整理した。第4章では地理情報システムやデジタル測量技術など、本論文における研究の方法を提示した。
第5章では、前期青銅器時代ユーフラテス川中流域の中規模集落であるテル・ガーネム・アル・アリ近傍墓地群の統合的な分析を行った。墓型式と立地に注目した墓域構成の分類、および墓出土土器の統計的分析を行い、分節的で均質性の高い墓地構造が明らかになった。このような特徴は、血縁集団に基づいた社会体制と矛盾しないものであり、前期青銅器時代において乾燥地での遊牧に適応した社会体制が存在していた可能性が示唆された。また、可視領域及び最小コストコリドー分析の結果、墓地がステップにおける集団のテリトリーを表す装置として機能したことが示唆された。本研究を通して、低地のテルとステップ上の墓地、牧草地という一まとまりの構造が確認できた。
第Ⅱ部では、南東アラビアのオマーン国の遺跡の研究を通して、青銅器・鉄器時代の通時的な社会動態の復元を試みた。第6章では、研究対象である城郭の研究意義と研究背景について論じた。前期青銅器時代の「タワー」についても触れ、鉄器時代の城郭についてもまとめた。
第7章ではタヌーフ遺跡群での調査について論じた。墓地の通時的な可視領域分析を行った。ハフィート期には峡谷全体に墓が分散し可視領域も広範囲にわたるため、山岳から低地までの広い範囲を移動する集団活動が示唆される。一方、ワディ・スーク期には墓の分布が局地化し、可視領域も限定的となることから、移動範囲は峡谷周辺の小規模な地域に縮小したと解釈される。鉄器時代にはクラスター状の墓群が分散し、視認性もやや増大するものの、その基本的な様相はワディ・スーク期と連続している。続いてタヌーフ地域の城郭遺跡の調査成果について論じ、これらの遺跡の可視領域分析も行った。
第8章ではグブラト・ニズワ04遺跡での調査について論じた。本遺跡では、典型的なウンム・アン=ナール期の「タワー」の建設的特徴が見られ、「タワー」と周辺地域の城郭遺跡の特徴を折衷的に有していることがわかった。遺物の表採調査からも、本遺跡の建造年代はウンム・アン=ナール期にまで遡ることが示唆された。
第9章ではアル・ハジャル遺跡について論じた。今回の調査の結果、本遺跡が前期鉄器時代の遺跡であるとする先行研究を支持する結果が得られた。谷を封鎖する長塁型の城郭は、南東アラビアでは他に類例がない。このような構造は地域全体を防衛しようとするものに他ならず、領域的な支配が存在していたことを示唆する。
第10章では、南東アラビア全体の先史時代の城郭の展開について、ウンム・アン=ナール期のタワーと鉄器時代の城郭遺跡を対象として立地、プランニング、建築技術に注目して分析を行った。南東アラビア地域の鉄器時代城郭のプランニング分析から、タヌーフ地域周辺の城郭遺跡は鉄器時代の他遺跡と類似性が低いことが示された。また、石垣遺構の三次元測量データを用いて、石積み構造の統計的比較分析を実施した。各石材の面積や形状指標を算出し、主成分分析と階層的クラスタリングを実施した結果、石垣は3つのクラスターに分類された。結果としては、アッ=スワイヒリーヤ06および13の頂部・テラス部の石垣がウンム・アン=ナール期の遺跡であるグブラト・ニズワ04やタヌーフ01と同じクラスターに分類された。このことから両遺跡の主要構造がウンム・アン=ナール期に構築された可能性を指摘した。
第Ⅲ部は考察(第11章)と結論(第12章)からなる。先史時代の社会動態の展開について南東アラビア及びユーフラテス川中流域を比較検討し、低地と高地の関係に注目しながら論じた。墓の分析の結果、ワディ・タヌーフ墓地群においては、前3200~2700年には視認性の高い斜面上に墓が集中する一方で、前2000~1600年には視認性の低いテラス上に墓地が営まれるという視認性の低下が確認された。この傾向は、テル・ガーネム・アル・アリ近傍墓地群にも類似性が見られた。このような変化は気候変動と連動しており、両地域で部分的に並行することがわかった。一方で、テル・ガーネム・アル・アリ周辺はこの時期を最後に大規模な墓地や集落が廃絶するのに対し、タヌーフ地域では峡谷内に居住する集団はその後も継続した。
ウンム・アン=ナール期の「タワー」は季節的に分散した集団が集結する場として利用されたと考えられ、それが存在する集落は、様々な資源を開発する遊牧民が季節的に集まり、交易を行う中心地となったと考えられる。天水農耕が困難な地域における生存戦略として、分散した集団が異なる生態的ニッチを利用し、生産物を交換するという一種の分業的な体制が成立していたと論じた。そして、これは前期鉄器時代にファラージ灌漑が成立し、ラクダの家畜化が発生することで確立したと考えられる。ユーフラテス河中流域においても、前期青銅器時代末に、沖積低地を利用した農耕と、周辺ステップを利用した短距離放牧、そして長距離遊牧という3つの生業が一つの集団の中で分化する様が見られた。以上のことから、いずれの地域においても青銅器時代から鉄器時代にかけて、厳しい自然環境の中で3つの集団に分岐し、それぞれ異なる資源を開発することで、相互に補完し合う社会体制が形成されたと結論づけた。
第Ⅰ部では、西アジア乾燥地域における遊牧について論じ、ユーフラテス川中流域の具体例の分析を行った。第1章では研究目的と背景について述べた。第2章では当地域における前4千年紀から前1千年紀の古気候データについて、第3章では、当地域の青銅器・鉄器時代における遊牧についての先行研究を整理した。第4章では地理情報システムやデジタル測量技術など、本論文における研究の方法を提示した。
第5章では、前期青銅器時代ユーフラテス川中流域の中規模集落であるテル・ガーネム・アル・アリ近傍墓地群の統合的な分析を行った。墓型式と立地に注目した墓域構成の分類、および墓出土土器の統計的分析を行い、分節的で均質性の高い墓地構造が明らかになった。このような特徴は、血縁集団に基づいた社会体制と矛盾しないものであり、前期青銅器時代において乾燥地での遊牧に適応した社会体制が存在していた可能性が示唆された。また、可視領域及び最小コストコリドー分析の結果、墓地がステップにおける集団のテリトリーを表す装置として機能したことが示唆された。本研究を通して、低地のテルとステップ上の墓地、牧草地という一まとまりの構造が確認できた。
第Ⅱ部では、南東アラビアのオマーン国の遺跡の研究を通して、青銅器・鉄器時代の通時的な社会動態の復元を試みた。第6章では、研究対象である城郭の研究意義と研究背景について論じた。前期青銅器時代の「タワー」についても触れ、鉄器時代の城郭についてもまとめた。
第7章ではタヌーフ遺跡群での調査について論じた。墓地の通時的な可視領域分析を行った。ハフィート期には峡谷全体に墓が分散し可視領域も広範囲にわたるため、山岳から低地までの広い範囲を移動する集団活動が示唆される。一方、ワディ・スーク期には墓の分布が局地化し、可視領域も限定的となることから、移動範囲は峡谷周辺の小規模な地域に縮小したと解釈される。鉄器時代にはクラスター状の墓群が分散し、視認性もやや増大するものの、その基本的な様相はワディ・スーク期と連続している。続いてタヌーフ地域の城郭遺跡の調査成果について論じ、これらの遺跡の可視領域分析も行った。
第8章ではグブラト・ニズワ04遺跡での調査について論じた。本遺跡では、典型的なウンム・アン=ナール期の「タワー」の建設的特徴が見られ、「タワー」と周辺地域の城郭遺跡の特徴を折衷的に有していることがわかった。遺物の表採調査からも、本遺跡の建造年代はウンム・アン=ナール期にまで遡ることが示唆された。
第9章ではアル・ハジャル遺跡について論じた。今回の調査の結果、本遺跡が前期鉄器時代の遺跡であるとする先行研究を支持する結果が得られた。谷を封鎖する長塁型の城郭は、南東アラビアでは他に類例がない。このような構造は地域全体を防衛しようとするものに他ならず、領域的な支配が存在していたことを示唆する。
第10章では、南東アラビア全体の先史時代の城郭の展開について、ウンム・アン=ナール期のタワーと鉄器時代の城郭遺跡を対象として立地、プランニング、建築技術に注目して分析を行った。南東アラビア地域の鉄器時代城郭のプランニング分析から、タヌーフ地域周辺の城郭遺跡は鉄器時代の他遺跡と類似性が低いことが示された。また、石垣遺構の三次元測量データを用いて、石積み構造の統計的比較分析を実施した。各石材の面積や形状指標を算出し、主成分分析と階層的クラスタリングを実施した結果、石垣は3つのクラスターに分類された。結果としては、アッ=スワイヒリーヤ06および13の頂部・テラス部の石垣がウンム・アン=ナール期の遺跡であるグブラト・ニズワ04やタヌーフ01と同じクラスターに分類された。このことから両遺跡の主要構造がウンム・アン=ナール期に構築された可能性を指摘した。
第Ⅲ部は考察(第11章)と結論(第12章)からなる。先史時代の社会動態の展開について南東アラビア及びユーフラテス川中流域を比較検討し、低地と高地の関係に注目しながら論じた。墓の分析の結果、ワディ・タヌーフ墓地群においては、前3200~2700年には視認性の高い斜面上に墓が集中する一方で、前2000~1600年には視認性の低いテラス上に墓地が営まれるという視認性の低下が確認された。この傾向は、テル・ガーネム・アル・アリ近傍墓地群にも類似性が見られた。このような変化は気候変動と連動しており、両地域で部分的に並行することがわかった。一方で、テル・ガーネム・アル・アリ周辺はこの時期を最後に大規模な墓地や集落が廃絶するのに対し、タヌーフ地域では峡谷内に居住する集団はその後も継続した。
ウンム・アン=ナール期の「タワー」は季節的に分散した集団が集結する場として利用されたと考えられ、それが存在する集落は、様々な資源を開発する遊牧民が季節的に集まり、交易を行う中心地となったと考えられる。天水農耕が困難な地域における生存戦略として、分散した集団が異なる生態的ニッチを利用し、生産物を交換するという一種の分業的な体制が成立していたと論じた。そして、これは前期鉄器時代にファラージ灌漑が成立し、ラクダの家畜化が発生することで確立したと考えられる。ユーフラテス河中流域においても、前期青銅器時代末に、沖積低地を利用した農耕と、周辺ステップを利用した短距離放牧、そして長距離遊牧という3つの生業が一つの集団の中で分化する様が見られた。以上のことから、いずれの地域においても青銅器時代から鉄器時代にかけて、厳しい自然環境の中で3つの集団に分岐し、それぞれ異なる資源を開発することで、相互に補完し合う社会体制が形成されたと結論づけた。