本論文は、世紀転換期の日米において、日本文化の宣揚に尽力したウィリアム・スタージス・ビゲロー(William Sturgis Bigelow, 1850-1926)の事績を通し、ボストン美術館に託された理想を探るものである。その手がかりとしたのが、1909(明治42)年にビゲローが受けた勲三等旭日中綬章に関する「叙勲上奏書」である。当文書には、ボストンの上流階級であるボストン・ブラーミンとしてのビゲローの出自に始まり、来日後の事績として、日本美術の学問的探究、東京美術学校への貴重書の寄付、廃仏毀釈で疲弊した古社寺の保護といった内容が記されている。さらに帰国後には、ボストン美術館日本美術部の設置と所蔵品の寄贈が続き、その全体像が示されている。こうしたビゲローの活動の幅の広さを踏まえ、本論では第I部で日本美術コレクター、第II部で天台密教に受戒した仏教者、第III部でボストン美術館理事、という各側面に焦点を当てる3部構成とした。それぞれが立脚する美術史、宗教学、博物館学という異なる学問分野の架橋を試み、最終的には、そこから浮かび上がる事績を詳らかにし、ビゲローが求めた東西融和の理想を照射することを目的とした。
第I部では、日本滞在中のビゲローと日本美術に着目し、古美術の収集活動と、フェノロサによる新日本画運動の支援を明らかにした。
まず第1章では、ボストン美術館日本美術コレクション形成の概要を把握する。1882(明治15)年にエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925)と共に来日したビゲローは、東京大学で教鞭を執るアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)と、教え子の岡倉覚三(天心、1863-1913)に出会い、日本美術の収集を始める。帰国後、ビゲローは美術館理事に、フェノロサは日本美術部長に就任し、彼らの膨大なコレクションが美術館に収められることとなった。
第2章では、ビゲローが同行した1886(明治19)年のフェノロサ、岡倉による欧米視察を検証した。彼らは、欧米の美術館や美術学校の視察により、博覧会・博物館・美術学校を統括する文部省美術局という美術制度を構想した。その手本としたのが、イギリスで成功を収めたサウス・ケンジントン博物館と附属の美術学校による美術制度だった。これをもとに美術教育カリキュラムが作成され、その策定に大きく貢献したのがフェノロサと狩野芳崖(1828-1888)だった。しかし、二人三脚で構想されたカリキュラムは、開校から1年半余でのフェノロサの帰国により、ほとんど実現する機会を得ず、その後校長に就任した岡倉によって、審美主義のもとで伝統重視の美術教育へと転換が図られた。
第3章では、ビゲロー寄贈の洋書群を手がかりに、芳崖の作品に内在するフェノロサの美術理論を解明した。鑑画会における日本画の革新は、1882(明治15)年の講演「美術真説」で示された「妙想」の実現に向けての試みであった。フェノロサの美術理論は、自らがボストンで学んだサウス・ケンジントン方式の美術教育にあり、その具体的な手本としたのが、ビゲロー寄贈書のオーウェン・ジョーンズ『装飾の文法』や、ウィリアム・ターナーの版画集だった。フェノロサによる近代日本画は、最新の西洋の美術理論や描画法と、日本の伝統に基づく画題や画法を融合して生まれたものであり、これを推進すべく鑑画会に集った画家たちを援助したのがビゲローであった。
第II部では、ビゲローを東洋思想の観点から考察した。医学を修め、当時最先端の科学に関心を寄せていたビゲローが、神智学や仏教に傾倒していった要因として、19世紀末の欧米社会における宗教的状況や、ボストンの地で醸成された東洋思想への憧憬といった思想的背景があった。
まず第4章では、ビゲローが仏教へと志向するに至った東洋思想を整理し、彼の思想が欧米の仏教史研究においていかなる位置を占めるのかを確認した。特に第I部で論じたビゲローと日本美術も視野に入れ、同時代に欧米を席巻していたジャポニスムとの関係から探った。
これを踏まえ、第5章では、来日後のビゲローの足跡をたどりながら、仏教への傾倒を明らかにした。岡倉とフェノロサによって仏教へと導かれたビゲローは、園城寺法明院住職の桜井敬徳(1834-1889)から受戒する。現在も法明院には、彼らの交流を辿ることができる書簡や仏具など様々な資料が所蔵されている。ビゲローが仏教に帰依した経緯と、その仏教思想による文化財保護の実践について、法明院資料から検証した。さらに、敬徳から受けた天台密教の教義を具体的に示す史料として注目されるのが、ビゲロー自筆の手帳『阿闍梨(Ajari)』(1888-89年)(ボストン美術館蔵)である。これを端緒にビゲローの仏教思想を掘り下げ、唯一の著書『仏教と霊魂の不滅(Buddhism and Immortality)』(1908年)を精読し、敬徳から受けた教義とは異なるビゲロー独自の仏教世界観を探った。
ビゲローの仏教思想は、日本での経験の核心を成す。彼の日本美術理解は仏教なくしては語れず、廃仏毀釈で疲弊した寺院への寄附も作善に基づいている。彼の仏教への帰依は帰国後も継続され、ボストン美術館においても、東洋と西洋を結び付ける思想の礎となった。ビゲローの代表的な事績として表れている日本美術の収集や文化財の支援、そして東西融和の思想には、その根底に仏教思想を読み取ることができる。
第III部では、ボストン美術館と日本美術の関係について、1870年の設立から日本美術部の設置、さらに1909年の新美術館における「仏像展示室」の開設に至るまでの経緯をたどり、日本美術の位相をめぐる議論の中で、美術館の有力理事としてのビゲローの存在意義を明らかにした。
まず第6章では、当時西洋の美術館では先駆的であった日本美術部の設立や、日本美術の啓蒙と発展に尽力したビゲローの事績に焦点を当てる。とりわけ、日本美術の位置付けを考える上で重要な転換点となった1909年の新美術館建設計画において、ボストン美術館が産業に資する美術教育を目的とした美術館から、審美主義的志向を強めた美術館へと変容を遂げた過程に注目する。この方針転換期に議論された新たな美術館の使命や収集・展示方法を示す資料が『理事報告書(Communications to the trustees)』(1904年)である。ここで理事としてのビゲローの関与により、それまで「小芸術(応用美術)」と見做されていた日本美術が「大芸術(純粋美術)」に組み込まれることになった。本報告書における具体的議論を検討することで、美術館理念の過渡期に揺れ動いた日本美術の位相とビゲローが果たした役割を詳らかにした。
続く第7章では、ベンジャミン・アイヴス・ギルマン(Benjamin Ives Gilman, 1852–1933)の『美術館理念の目的と方法(Museum Ideals of Purpose and Method)』(1918年)を取り上げ、岡倉覚三『茶の本』(1906年)との関係を検証した。これまで、アメリカの美術館史における岡倉の意義が論じられることはほとんどなかった。しかし、ギルマンに対する岡倉の影響、ならびにギルマンの本著書がその後アメリカの美術館における基本文献として位置づけられていった経緯を踏まえるならば、岡倉の存在は看過し得ないものといえる。
第8章では、新美術館の日本美術展示室に設置された「仏像展示室」の意義を論じた。「仏像展示室」の構想には、ビゲローやフェノロサ、モースをはじめ、建築家や学芸員らが関与していた。岡倉は、当時流布した東洋思想に関する言説を東洋美術の解釈に取り込み、「仏像展示室」に「精神性」を付与することで、東洋美術を西洋美術に対峙させたと考えられる。
岡倉はボストン美術館で東洋美術史の構築に向けて、日本美術のみならず、中国やインド美術の収集に尽力し、「アジアは一つ」の具現化を試みた。彼の構想は没後、1931年の東洋部の開設によって明確な形をとる。その理念は、ボストン美術館の『年次報告書』(1917年)に記載された一文、「美術館は現在、岡倉氏が常々主張していた意味において、一貫した総体として東洋美術を論理的に提示するための作品を有している」との言葉に端的に示されている。ビゲローが推し進めた日本美術の位置付けは、岡倉の助力のもと、ボストン美術館において確固たるものとなったのである。
これらの総括として終章では、先行して確認してきたビゲローの諸側面に基き、日露戦争時に文化外交を担ったその特質を検討した。ビゲローは、総体としての日本文化を横断的に結びつける結節点であり、それを社会に架橋した媒介者であったといえる。
日本美術や仏教を包括する日本文化が、なぜボストンで受容され、世界における文化的位相を変える役割を担ったのか。その背景には、ボストン・ブラーミンが資本主義社会の恩恵を享受する内部に位置しながらも、物質主義を忌避する価値観を共有していたことにある。東西の思想を網羅し、あらゆる地域と時代の文化を展示する世界文化史美術館の構想は、まさにこうした価値観の下で提唱され、新美術館において具現化された。展示室平面図には、東翼に古代ギリシア・ローマ美術、西翼に日本・東洋美術が配置され、その中間に位置するアメリカ・ボストン美術館が両洋をつなぐ。東西融和の世界観は、フェノロサ、岡倉、そしてビゲローが共有した思想にほかならない。宗教と芸術、東洋と西洋を結び付ける彼らの理想は、ボストン美術館で結実を見たのである。
第I部では、日本滞在中のビゲローと日本美術に着目し、古美術の収集活動と、フェノロサによる新日本画運動の支援を明らかにした。
まず第1章では、ボストン美術館日本美術コレクション形成の概要を把握する。1882(明治15)年にエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925)と共に来日したビゲローは、東京大学で教鞭を執るアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)と、教え子の岡倉覚三(天心、1863-1913)に出会い、日本美術の収集を始める。帰国後、ビゲローは美術館理事に、フェノロサは日本美術部長に就任し、彼らの膨大なコレクションが美術館に収められることとなった。
第2章では、ビゲローが同行した1886(明治19)年のフェノロサ、岡倉による欧米視察を検証した。彼らは、欧米の美術館や美術学校の視察により、博覧会・博物館・美術学校を統括する文部省美術局という美術制度を構想した。その手本としたのが、イギリスで成功を収めたサウス・ケンジントン博物館と附属の美術学校による美術制度だった。これをもとに美術教育カリキュラムが作成され、その策定に大きく貢献したのがフェノロサと狩野芳崖(1828-1888)だった。しかし、二人三脚で構想されたカリキュラムは、開校から1年半余でのフェノロサの帰国により、ほとんど実現する機会を得ず、その後校長に就任した岡倉によって、審美主義のもとで伝統重視の美術教育へと転換が図られた。
第3章では、ビゲロー寄贈の洋書群を手がかりに、芳崖の作品に内在するフェノロサの美術理論を解明した。鑑画会における日本画の革新は、1882(明治15)年の講演「美術真説」で示された「妙想」の実現に向けての試みであった。フェノロサの美術理論は、自らがボストンで学んだサウス・ケンジントン方式の美術教育にあり、その具体的な手本としたのが、ビゲロー寄贈書のオーウェン・ジョーンズ『装飾の文法』や、ウィリアム・ターナーの版画集だった。フェノロサによる近代日本画は、最新の西洋の美術理論や描画法と、日本の伝統に基づく画題や画法を融合して生まれたものであり、これを推進すべく鑑画会に集った画家たちを援助したのがビゲローであった。
第II部では、ビゲローを東洋思想の観点から考察した。医学を修め、当時最先端の科学に関心を寄せていたビゲローが、神智学や仏教に傾倒していった要因として、19世紀末の欧米社会における宗教的状況や、ボストンの地で醸成された東洋思想への憧憬といった思想的背景があった。
まず第4章では、ビゲローが仏教へと志向するに至った東洋思想を整理し、彼の思想が欧米の仏教史研究においていかなる位置を占めるのかを確認した。特に第I部で論じたビゲローと日本美術も視野に入れ、同時代に欧米を席巻していたジャポニスムとの関係から探った。
これを踏まえ、第5章では、来日後のビゲローの足跡をたどりながら、仏教への傾倒を明らかにした。岡倉とフェノロサによって仏教へと導かれたビゲローは、園城寺法明院住職の桜井敬徳(1834-1889)から受戒する。現在も法明院には、彼らの交流を辿ることができる書簡や仏具など様々な資料が所蔵されている。ビゲローが仏教に帰依した経緯と、その仏教思想による文化財保護の実践について、法明院資料から検証した。さらに、敬徳から受けた天台密教の教義を具体的に示す史料として注目されるのが、ビゲロー自筆の手帳『阿闍梨(Ajari)』(1888-89年)(ボストン美術館蔵)である。これを端緒にビゲローの仏教思想を掘り下げ、唯一の著書『仏教と霊魂の不滅(Buddhism and Immortality)』(1908年)を精読し、敬徳から受けた教義とは異なるビゲロー独自の仏教世界観を探った。
ビゲローの仏教思想は、日本での経験の核心を成す。彼の日本美術理解は仏教なくしては語れず、廃仏毀釈で疲弊した寺院への寄附も作善に基づいている。彼の仏教への帰依は帰国後も継続され、ボストン美術館においても、東洋と西洋を結び付ける思想の礎となった。ビゲローの代表的な事績として表れている日本美術の収集や文化財の支援、そして東西融和の思想には、その根底に仏教思想を読み取ることができる。
第III部では、ボストン美術館と日本美術の関係について、1870年の設立から日本美術部の設置、さらに1909年の新美術館における「仏像展示室」の開設に至るまでの経緯をたどり、日本美術の位相をめぐる議論の中で、美術館の有力理事としてのビゲローの存在意義を明らかにした。
まず第6章では、当時西洋の美術館では先駆的であった日本美術部の設立や、日本美術の啓蒙と発展に尽力したビゲローの事績に焦点を当てる。とりわけ、日本美術の位置付けを考える上で重要な転換点となった1909年の新美術館建設計画において、ボストン美術館が産業に資する美術教育を目的とした美術館から、審美主義的志向を強めた美術館へと変容を遂げた過程に注目する。この方針転換期に議論された新たな美術館の使命や収集・展示方法を示す資料が『理事報告書(Communications to the trustees)』(1904年)である。ここで理事としてのビゲローの関与により、それまで「小芸術(応用美術)」と見做されていた日本美術が「大芸術(純粋美術)」に組み込まれることになった。本報告書における具体的議論を検討することで、美術館理念の過渡期に揺れ動いた日本美術の位相とビゲローが果たした役割を詳らかにした。
続く第7章では、ベンジャミン・アイヴス・ギルマン(Benjamin Ives Gilman, 1852–1933)の『美術館理念の目的と方法(Museum Ideals of Purpose and Method)』(1918年)を取り上げ、岡倉覚三『茶の本』(1906年)との関係を検証した。これまで、アメリカの美術館史における岡倉の意義が論じられることはほとんどなかった。しかし、ギルマンに対する岡倉の影響、ならびにギルマンの本著書がその後アメリカの美術館における基本文献として位置づけられていった経緯を踏まえるならば、岡倉の存在は看過し得ないものといえる。
第8章では、新美術館の日本美術展示室に設置された「仏像展示室」の意義を論じた。「仏像展示室」の構想には、ビゲローやフェノロサ、モースをはじめ、建築家や学芸員らが関与していた。岡倉は、当時流布した東洋思想に関する言説を東洋美術の解釈に取り込み、「仏像展示室」に「精神性」を付与することで、東洋美術を西洋美術に対峙させたと考えられる。
岡倉はボストン美術館で東洋美術史の構築に向けて、日本美術のみならず、中国やインド美術の収集に尽力し、「アジアは一つ」の具現化を試みた。彼の構想は没後、1931年の東洋部の開設によって明確な形をとる。その理念は、ボストン美術館の『年次報告書』(1917年)に記載された一文、「美術館は現在、岡倉氏が常々主張していた意味において、一貫した総体として東洋美術を論理的に提示するための作品を有している」との言葉に端的に示されている。ビゲローが推し進めた日本美術の位置付けは、岡倉の助力のもと、ボストン美術館において確固たるものとなったのである。
これらの総括として終章では、先行して確認してきたビゲローの諸側面に基き、日露戦争時に文化外交を担ったその特質を検討した。ビゲローは、総体としての日本文化を横断的に結びつける結節点であり、それを社会に架橋した媒介者であったといえる。
日本美術や仏教を包括する日本文化が、なぜボストンで受容され、世界における文化的位相を変える役割を担ったのか。その背景には、ボストン・ブラーミンが資本主義社会の恩恵を享受する内部に位置しながらも、物質主義を忌避する価値観を共有していたことにある。東西の思想を網羅し、あらゆる地域と時代の文化を展示する世界文化史美術館の構想は、まさにこうした価値観の下で提唱され、新美術館において具現化された。展示室平面図には、東翼に古代ギリシア・ローマ美術、西翼に日本・東洋美術が配置され、その中間に位置するアメリカ・ボストン美術館が両洋をつなぐ。東西融和の世界観は、フェノロサ、岡倉、そしてビゲローが共有した思想にほかならない。宗教と芸術、東洋と西洋を結び付ける彼らの理想は、ボストン美術館で結実を見たのである。