問題の所在
1900年前後の日本において宗教と教育の関係は大きな転機を迎えた。文部省は1899年8月3日に訓令第12号を発出し、「一般ノ教育」を「宗教ノ外ニ特立」させるため、全ての官公立学校および初等・中等教育段階の正規の私立学校における宗教教育・儀式を禁止した。他方で、文部省は同年10月に別の行政命令により同禁止を緩和し、翌1900年1月以降宗教系学校(宗教団体が運営に関与する学校)に対して審査を経て特典(在校生の徴集猶予、卒業生の上級学校進学資格)を付与していった。一方で正規の学校教育から宗教を排除しつつ、他方で宗教系学校に正規学校と同程度の制度的地位を分配するという一見矛盾する政策を併存させたのである。これら政策は、その後戦前期日本における宗教と教育の関係を規定する基本的枠組みとして機能した。先行研究の整理と批判
多くの先行研究は、(1)文部省が特定の学校における宗教教育・儀式を禁止した理由を、次の3点から説明してきた。①1870年代に欧米諸国での調査に基づき文部省が受容した「教育と宗教の分離」理念を法令化するため。②1890年公表の教育勅語を主軸とする天皇制公教育を補強するため。③1899年7月の改正条約実施・「内地雑居」開始への対応として、日本における海外キリスト教宣教団体の教育事業を抑制するため。しかし、以上3点の理由について、近年はその再検討を促す研究が蓄積されつつある。①1890年代においても宗教者や宗教団体が地域の学校教育に関与していた実態が明らかにされている。②教育勅語の規範性が公表から一貫して中央政府内で確立していたという通説が再検討され、教育勅語政策の展開を動揺と弥縫を繰り返す漸進的な構築過程として捉え直す視座が提起されている。③1890年代の文部省内には、宗教教育・儀式の是非や宗教系学校の所管をめぐり多様で多元的な意見が存在したと指摘されている。こうした研究動向を踏まえると、①地域における「教育と宗教の接近」の実態、および②中央政府における教育勅語の規範性の動揺を前提に、③1890年代の文部省内の政策立案にまで遡って、宗教教育・儀式の禁止の理由を考察する必要がある。また先行研究は、(2)文部省が宗教教育・儀式の禁止を緩和し、(3)宗教系学校に特典を付与した理由を、①文部省の政策意図、②内政的要因(マスメディアの批判、東京府の初等教育政策、内務省の宗教政策)、③外交的要因(欧米諸国からの批判の回避、米国公使や米国宣教団体からの抗議)からそれぞれ説明してきた。しかし、これら研究成果を比較検討し、文部省の政策の成立過程を総合的に説明する試みはいまだ行われていない。
さらに明治期の政教関係史の先行研究は、文部省の政策のうち(1)宗教教育・儀式の禁止のみに注目し、それを「国家神道」または「非宗教」とされた神社神道が国民教化を独占する契機として解釈してきた。しかし、同研究は(2)禁止緩和および(3)特典付与に言及していないため、これら措置を通じて文部省が宗教教育や宗教系学校に加えた抑圧や統制の具体相を看過する可能性がある。この問題を解決するには、既存の政教関係論に照らして文部省の措置を選択的に取り上げるのではなく、文部省が政策全体をどのように構想し実施したのかを帰納的に記述しなくてはならない。
本研究の目的・課題・資料
以上の先行研究の不足点を解消しなくては、その後長く影響力を有した文部省の政策がなぜ成立し、それが宗教と教育の関係をどのように再編したのかを充分には説明できない。そこで本研究は、次の3点の課題の解決を目的とする。第1に、1890年代の文部省内において、宗教教育・宗教系学校に関してどのような論理や問題意識をもって政策が立案されたのか。第2に、宗教教育・儀式の禁止、同禁止の緩和、宗教系学校への特典付与を一連の政策として捉え、その成立・施行過程において文部省と省外のアクターとの間でどのような折衝が行われたのか。第3に、文部省の政策は、宗教と教育の制度的関係をどのような構造へと再編したのか。資料について、文部省の内部文書の多くが散逸している現状を踏まえて、本研究は文部大臣・文部省官僚経験者の個人資料、中央政府他機関・府県・外国政府の公文書、宗教団体や宗教系学校の関係文書をおもに使用し、新資料の発掘と既存資料の再検討を行う。
本研究の構成
本研究は、序章・本論6章・終章の計8章から成り、本論は第Ⅰ部「1890年代における宗教系学校政策の立案と実態」、第Ⅱ部「1899年文部省訓令第12号の成立・施行過程における折衝」の2部に分かれる。第Ⅰ部は次の3章から構成される。第1章は、1893年10月に文部省試補岡村司が同省専門学務局長木下廣次に提出した意見書「宗教学校ノ処分ニ関スル卑見」を新たに分析することで、宗教と教育の関係をめぐる文部省内の議論を検討した。第2章は、1893年から1897年までに文部省高等官の間で回覧・審議された法案7種類・意見書5点を分析することで、宗教系学校の監督方法をめぐる文部省内の議論を検討した。第3章は、1890年代に兵役上の特典を取得したキリスト教系・神社系・仏教系学校の事例を分析することで、地域における宗教系学校の監督の実態を、とくに文部省、府県庁、関係宗教団体の間の折衝に注目して検討した。
第Ⅱ部は次の3章から構成される。第4章は、文部省の改正条約実施準備計画および法典調査会における「私立学校令」案審議を新たに分析することで、訓令第12号の成立過程を再検討した。第5章は、米国プロテスタント宣教師の書簡および米国の外交文書を新たに分析することで、文部省の宗教教育・儀式禁止政策に対してキリスト教系男子中等学校関係者が展開した抗議運動を検討し、とくに米国政府の関与が学校関係者と文部省の双方に与えた影響を考察した。第6章は、1899年12月に中央政府が帝国議会に提出した「宗教法案」および徴兵令改定案の起草資料を新たに分析することで、仏教諸宗派による超宗派的な公認教運動が文部省の宗教系学校政策に与えた影響を考察した。
本研究の成果
本研究が明らかにした知見は次の4点である。第1に、先行研究は文部省には教育勅語と衝突しうる宗教を学校教育から排除する目的があったと説明してきた。これに対して本研究は、1890年代の宗教教育・宗教系学校政策の成立過程において、教育勅語は指導的な理念としては機能していなかったと主張した。文部省は「教育と宗教の分離」をおもに大日本帝国憲法の「信教ノ自由」条項に基づき正当化し、「我ガ国俗」に背反しうるキリスト教系学校への対応としては、教育内容への介入や制限ではなく、学校教育行政上の監督強化を構想していた。たしかに訓令第12号の成立過程では、教育勅語と宗教教育の矛盾を理由に禁止条項の勅令への復活や宗教系学校への特典非付与が提案された。しかし、結局両案とも実際の制度化には至らなかった。
第2に、先行研究は文部省にはとくにキリスト教系学校を抑圧する意図があったと指摘してきた。これに対して本研究は、内務省が神社を直接的に監督し、教派神道および仏教の監督を各教宗派管長に委任し、キリスト教を「黙許」扱いとして宗教行政の対象としなかったのとは異なり、文部省はむしろ関係宗教団体の違いを問わず、全ての「宗教学校」を画一的に監督する制度を構想していたと主張した。宗教系学校の監督をめぐる両省間の差異は訓令第12号の成立過程で顕在化したものの、中央政府内で採用されたのは文部省側の方針であった。
第3に、先行研究は中央政府が主導的に宗教と教育の関係の制度化を進めたと理解してきた。これに対して本研究は、同関係は文部省と他のアクターとの折衝を通じて構築されたと主張した。いくつかの府県庁は文部省ほど厳格には「教育と宗教の分離」理念を遵守せず、むしろ宗教団体と連携して地域の中等教育を整備し、宗教系学校の特典取得に協力した。キリスト教系学校関係者は訓令第12号の発出前から文部省への抗議運動を展開したが、米国政府の関与により運動の焦点が宗教教育・儀式禁止の存続と引き換えに特典取得を目指す方向へ移行した。仏教諸宗派は内務省に「仏教法案」を提出して仏教系学校への優遇を法令化するよう要求したが、それが契機となり中央政府内で「宗教教師」の徴集猶予をめぐり意見調整が行われた。これらアクターとの折衝を経て文部省は、宗教教育・儀式を行う学校には特典を付与しない当初の方針を、付与する方針へと転換した。
第4に、これまで1900年前後の日本では「教育と宗教の分離」が制度的に実現したと考えられてきた。これに対して本研究は、むしろ当該期には宗教教育や宗教系学校と学校教育制度とを分離する従来の関係が、それらを制度内に包含する関係へと再編されたと主張した。1884年の太政官口達により宗教教育や宗教系学校は文部省の管轄外に置かれたが、1899年8月2日公布の勅令第359号「私立学校令」に基づき、文部省は宗教系学校を自らの管轄内に編入した。この宗教系学校政策の転換に伴い、学校教育制度内に宗教教育・儀式の許容範囲を指定する必要が生じたため、それらの禁止の法令化が副次的に要請されたのである。その結果、「教育と宗教の分離」が学校教育制度内で明確化されるとともに、文部省が全ての宗教系学校を「私立学校」として画一的に監督し、学校教育行政の論理に基づき同校の国益性を評価し賞罰する体制が成立した。もっとも、この体制は特定のグランドデザインに則り設計されたのではなく、文部省内外の折衝と妥協の産物であった。こうした折衷的な体制がその後も存続しえた背景には、帝国憲法の「信教ノ自由」条項の不備があった。帝国憲法下では他の自由権に比べて「信教ノ自由」保障が制度的に脆弱であったため、行政府には政教関係を恣意的に調節できる権限が認められていたのである。