本研究は、日本近世における暦占の展開を、暦占書にみられる論理と在地社会での実践の両面から論じるものである。
 暦占とは、日時や方位をめぐる吉凶・禁忌を意味する。すなわち、時間の流れという自然秩序に基づくはずの暦を、人間の行動規範へと読み替える試みの産物である。本研究の第一の目的は、暦占を正当化する論理と、それらの解釈の担い手に着目し、その近世的展開を明らかにすることにある。
 さらに本研究の関心は、暦占がいかに用いられたのかという実践の問題にも及ぶ。本研究の第二の目的は、暦占活用の事例から、在地社会における暦占の位置づけの一端を解明することにある。
 本論文は3部構成(計7章、補遺1篇)をとる。
 第1部では、中世後期から近世前期にかけて多様な暦占の論理が形成され、相互に関わり合いながら展開した様相を論じる。
 第1部第1章では、暦道賀茂氏による『暦林問答集』と、神仏習合的世界観に立脚する『簠簋内伝』の比較を通じて、中世後期にいかなる論理で暦占が語られていたのかを分析する。『暦林問答集』は、正統な暦道の継承者を自負する賀茂在方が暦の「正理」を説き、「愚師野巫の僻説」を批判したものである。在方の説く暦の「正理」とは、人格神の要素を排除し、陰陽五行・十干十二支などを構成要素とする数理的法則性によって暦占を説明するものであった。これに対して『簠簋内伝』巻一では、祇園社の祭神・牛頭天王の縁起譚に紐づけて暦占が解説されている。『暦林問答集』における「愚師野巫の僻説」への批判は、こうした根本的に異なる暦占の論理の流布を背景になされたものと考えられる。
 第1部第2章では、『簠簋内伝』に記された立柱の方位選びの規範である「龍伏」の由来と展開を論じる。龍伏は、インドの建築儀礼で土地浄化のために行われていた「ヴァーストゥナーガ」に起源を持つ。ヴァーストゥナーガはインドから中国を経由して日本にもたらされ、陰陽寮で立柱の方位選びとして実践されるようになった。『簠簋内伝』の龍伏は陰陽寮の説と基本的に一致しているが、意図的に違いを強調したとみられる部分もある。『簠簋内伝』では、陰陽寮と共通する実践が、神仏習合的世界観のもとに再編成されつつ取り込まれているのである。さらに『簠簋内伝』の龍伏には、建築に携わる人々の間で育まれた実践知も流入した痕跡があり、重層的な知識が織り込まれたものと言える。
 第1部第3章では、中世後期から近世前期の兵法書における暦占の論理について考察する。小笠原氏相伝の書とされる『訓閲集』では、戦勝をもたらす暦占が重視され、歴史上の戦いで効力を発揮したことが暦占の有効性を根拠づけた。近世の兵法書『軍法侍用集』では『簠簋内伝』が引用されるが、基本的な解説の枠組みは『訓閲集』と共通しており、『簠簋内伝』の根底をなす神仏習合的世界観と、それに基づく縁起譚が意識的に排除されている。兵法書においては『簠簋内伝』とは異なる暦占の論理が形成されていたのであり、その意味で『簠簋内伝』は暦占をめぐる多様な言説の一つとして位置づけられる。にもかかわらず、近世には『簠簋内伝』が大きな影響力を持った。本章ではその要因として、同書において、暦占が従来の陰陽五行説の文脈から切り離され、誰でも用い得る知識の集合として示されたことを指摘する。これは近世の暦占が、高度な教養や専門知識を持たない人々にも開かれた、実用的な知として社会に定着していったことを示している。
 第2部では暦占書の分析を軸に据え、近世における暦占の展開を論じる。
 第2部第1章では、近世の暦占書の出版史を概観するとともに、書き手および形式にみられた変化を指摘する。第一の変化として、近世前期には仏教者が暦占書執筆を主導していたが、貞享改暦以降、その存在感が薄れていったことを挙げる。これは改暦を機に、貞享暦との一致が暦占書における重要な価値基準となり、暦面に即した解説が重視されるようになったためである。第二の変化としては、18世紀半ば、暦に記された文言を逐一解説する形式の暦占書が登場したことを挙げる。19世紀に入って暦占書全体の出版数が減少するなかでも、この形式の暦占書は人気を保ち続けた。こうした動向の背景には、暦の内容が全国的に統一され、暦の発行・流通が一元的に管理されていた状況がある。その結果、近世の暦をめぐる知識や実践は、全国的に統一された暦を共通基盤として展開することとなった。
 第2部第2章では、近世のもう一つの展開として、専門知識を持たない人々でも暦を主体的に利用・解釈し始めたことに着目する。宝暦改暦以降、暦面に「万事吉」の吉日が増加する傾向が確認できる。これは、暦を積極的に利用する層の拡大と、用途の多様化を背景としている。また、暦の上で吉凶が重なる場合の判断基準は一義的に定まってはおらず、各人の裁量で自由に判断できる状況であった。その結果、吉日を優先する傾向が強まっていった。こうして暦の運用が各人に委ねられる中、暦占の解釈もまた、中世後期とは異なる展開をみせた。大雑書においては、中世後期以来の多様な暦占の論理が矛盾を厭わず併記され、時には切り貼りされることで独自の解釈が生み出された。大雑書編纂の場では、中世後期以来の暦占の論理がすべて、代替可能な選択肢として存在したのである。この背景には、暦に関する知識が刊本を通じて広まり、大雑書の書き手・読み手双方にある程度共有されていたことがある。中世後期までは陰陽師や宗教者が暦の運用を担っており、吉凶の判断も彼らに委ねられていたが、近世には各人が自ら吉凶や解釈を選び取るようになっていった。
 第3部では2つの事例を通して、在地社会における暦の用いられ方の一端を明らかにする。
 第3部第1章では、幕末期から明治期にかけて記された『浜浅葉日記』を資料として、三浦半島の豪農・浜浅葉家における暦の活用方針について分析する。浜浅葉家では、社日・彼岸・土用などの雑節には農作業の休止や祭祀、贈答などの一定の習俗が定着しており、暦が生業や社会的交流のリズムを形づくっていたといえる。これに加え、浜浅葉家では稲作・普請・転居などの場面で日の吉凶に注意を払い、あえて吉日を選んでいた。ただし暦が絶対視されたわけではなく、天候や稲作の進行、家の置かれた状況などの諸要因に応じて柔軟な判断がなされた。なお『浜浅葉日記』で「日柄」への言及が見られるのは吉日を選んだ場合のみであり、第2部第2章で論じたような、凶を避けるより吉を求めて暦を用いる傾向はここにも表れている。こうした平常時の方針に比べ、異国船来航やコレラ流行といった非常時には、暦に対する姿勢に振れ幅が生じた。暦に基づく慣習が非常事態を理由に停止されることもあれば、凶日が疫病の災厄を加速させるという懸念のもと、日の吉凶が改めて強く意識される場面もあった。
 第3部第2章では、福島県奥会津地方の職人巻物における『簠簋内伝』の引用箇所を分析し、暦に関わる知識が日常生活から離れた場でどのように受容されたかを検討する。奥会津地方の職人巻物では、『簠簋内伝』由来の知識は三輪神道系の建築書と組み合わされることもあれば、山神信仰の儀礼世界を構築する要素として引用されることもあった。いずれの場合においても、『簠簋内伝』は地域の宗教的世界観に則る形で受容されていた。引用を行った主体は明らかでないが、里修験や密教僧などの宗教者が関与した可能性が指摘できる。巻物継承のプロセスで『簠簋内伝』が引用し直された事例もあり、職人巻物のように固定的な場であっても、暦に関する知識や慣習はある程度の流動性を伴って継承されていたことがわかる。
 以上の研究を通じて、近世的暦占の形成と展開の一端が明らかになる。近世的暦占の最大の特徴は、誰もが自由に日の吉凶を判断し、その意味を主体的に解釈し得たことにある。このような状況は、①中世後期における多様な暦占の論理の展開、②それらを脱専門化・脱文脈化して提示する暦占書の普及、③全国的に統一された暦が社会全体で共有されるようになった状況、という複数の要素が重なり合うことで成立した。
以上の展開は、暦占の解釈の担い手が宗教者以外へ広がるとともに、政権管理下の暦が存在感を増したという意味で、「暦占の世俗化」とみなされるかもしれない。しかし近世的暦占の展開をそのように捉えることは、2つの点で慎重さを要する。
 第一に、体系的な宗教的世界観からの脱却という観点では「世俗化」のプロセスとして捉えうる面もあるが、それは近代科学的な合理主義への移行を意味するわけではない。むしろ、暦の解釈や活用が宗教者以外にも開かれていったにもかかわらず、日の吉凶という観念自体は人々の生活指針として機能し続けた点にこそ注目すべきだろう。
 第二に、近世になって宗教的な暦占の論理が完全に失われたわけではない。事実、多くの大雑書においては幕末まで『簠簋内伝』の存在感が保たれ続けた。解釈の担い手が多様化した結果、暦占の論理は揺らぎを内包するものとなり、単線的な変化として捉えきれるものではなくなっていった。
 以上の点を踏まえると、近世的暦占の展開は、単なる宗教的権威の衰退でも近代科学的合理主義への移行でもなく、刊本の普及と全国的に統一された暦の登場という時代状況のもとで進んだ、暦占の論理および担い手の再編プロセスとして捉えることができる。