本論では、古墳の構造が広域で共通し、変化が連動する現象の原動力を解明するため、古墳の設計を3次元的に復元することにより古墳設計技術の運用実態を論じた。本論は序章に続く第1~7章と終章の計9章からなる。
序章では、古墳の墳丘構造に高い共通性が認められることに着目し、こうした共通性が発現した背景を墳丘構造の検討から論じる必要性を示した。
第1章では古墳の構造を論じた先行研究を概観した。古墳構造研究は、陵墓地形図の作成によっていち早く網羅的な資料整備が進んだ王陵級古墳の検討から分析視角を構築してきた。大型で精美な形状の古墳の築造には綿密な設計という行為が介在していたことは共通理解となり、その設計原理の追及が焦点となった。同時に、各地の前方後円墳に強い共通性が認められ、かつその変化が連動していく現象を古墳設計技術の観点から叙述することが試みられた。発掘調査成果の蓄積や3次元計測技術の導入によって基礎資料が飛躍的に増加すると、大枠における共通性が高い墳丘構造にも地域性が存在することが認められるようになった。こうした資料状況を踏まえ、先行研究で示された分析視角を再検証し、古墳の墳丘構造に関する情報が共有された背景を解明すべき課題として示した。
第2章では、発掘調査成果によって墳丘の確実な定点が判明している事例に対象を限定し、墳丘各部が正確な比例関係となることを客観的な計測手法によって示すことで、第3章以降での分析の枠組みを整備した。古墳の設計は特定の造営尺に基づいており、古墳時代前期には23cm/尺前後、中期には漸進的に25cm/尺前後に変遷するが、厳密な統制下にはなく、一定の幅が認められる。前方後円墳では墳丘長を規格的な値で決定するほか、後円部半径(BO長)と後円部中心から前方部稜線交点までの距離(OP長)の比率を単純な整数比で設定することで墳丘形状の大枠が決定されている。段築の設計にあたっては、斜面が安定勾配に収まるように、造営尺に基づいて設定された基本単位を組み合わせることで全体を割り付けていくという手法が一般的であった。施工精度は小規模円墳であっても極めて高く、古墳の墳丘構造の分析からその設計を復元する分析視角の有効性を認めることができる。以上から、古墳が満たすべき意匠や規模を土木工学的条件の範囲内で実現するために設定された体系的な数値的規則こそが古墳設計技術と定義した。
第3章では、王陵級古墳のうち今日的な研究水準を満たす測量図が整備されてこなかった行燈山古墳や佐紀古墳群の大型前方後円墳について、航空レーザ測量を実施し、高解像度の3次元形状データを整備した。続いて、既存の小規模な発掘調査成果を3次元形状データの上で統合することで、平面・立体構造を統合した統一原理によって墳丘の設計を復元した。この作業によって、古墳時代前期初頭から中期末までの王陵級古墳の構造を高解像度で議論するための枠組みを整備した。
第4章では古墳設計技術が成立し、王陵級古墳の築造を通して定着していく過程を整理した。3世紀中葉の大和盆地東南部に纒向遺跡を拠点とする倭王権が成立すると、弥生時代の前方後円形墳丘墓が大型化した纒向型前方後円墳が創出される。この時点で前方後円墳の意匠的規則は成立していたが、厳密な事前計画や測量による精密な施工に基づかず、不整形な形状であった。大型の盛土構造物を安定的に構築するための安全勾配や斜面高に関する知識も存在せず、墳丘長100m前後という規模が当時における工学的上限であった。墳丘長200歩におよぶ箸墓古墳は、盛土の崩落を防止する古墳設計技術の導入によって初めて実現した。こうして成立した古墳設計技術は、反復的な古墳築造を通して拡散するとともに、墳丘規模や意匠的要素、立地などの前提条件に対応して変容していった。
前期前半のオオヤマト古墳群では散発的かつ離散的な古墳築造によって複数の技術系譜が併存していたが、前期後半に王陵級古墳築造の中心が佐紀古墳群に移動すると、狭小な範囲における集約的な古墳築造によって造墓集団が混交し、技術系譜が統合した。佐紀古墳群西群では前方後円墳の設計全体を規定する基礎的な要素において、オオヤマト古墳群には見られなかった高い共通性が生じるが、それは既存設計図を流用・改変するといった運用ではなく、共通の技術基盤に基づいて複数の前方後円墳を個別的に設計することで細部の設計要素が類似するという特徴を示す。
第5章では、前期末以降の王陵級古墳における古墳設計技術の変容を論じた。前期末には墳頂部での葬送儀礼の変容に対応して前方部の高大化が志向されるようになったほか、中期初頭には王陵級古墳の大型化が進行し、古墳設計技術は安定的な盛土構築のための工学的要件を満たしつつ、これらへ対応して変化していくこととなる。中期中葉に築造された最大の前方後円墳である大仙陵古墳では、墳丘長500mを超える大型化と後円部に匹敵する高さの前方部を備えた優美な意匠を達成したが、その代償として墳丘が不安定となった結果、完成直後に大規模な斜面崩壊が発生したと考えられる。これを受けて中期後葉では古墳設計技術が刷新され、より安定した設計が創出されたほか、運用方針にも変更があり、類似した枠組みが複数の古墳で再利用されるようになった。
第6章では、王陵級古墳と墳丘形態の変化が連動すると考えられてきた周縁の前方後円墳を分析した。佐紀陵山古墳と平面形の類似が指摘されてきた「類型墳」の設計を検討すると、その共通性が認められるのは平面形の大枠レベルに留まり、その細部や立面形は大きく異なっていた。特に、設計の最初段階で決定される要素が根本的に異なっていることからは、これらの古墳が佐紀陵山古墳の設計を改変したのではなく、個別的に設計されたと考えるのが合理的である。この見解を補強するために、中期前半に進行する前方部の高大化という意匠的変化が広域で連動する現象を検討すると、変化の方向性は王陵級古墳と連動するものの、そのための技術的対応は王陵級古墳と異なっていた。したがって、前方後円墳の形態変化のうち、広域に連動しているのは大枠的な意匠レベルに留まり、その設計は個別的であることが一般的と考えられる。このような理解が成立するには、各地において古墳設計技術を自律的に運用することのできる設計主体が存在することが前提となる。こうした設計主体の存在を論じるために、設計復元が可能な資料条件を満たす地域のひとつである伊勢湾西岸地域を対象としたケーススタディを試みた。当地域では、王陵級古墳とは明確に異なる設計の前方後円墳が一定の時間幅をもって展開し、王陵級古墳の設計主体とは異なる独立した古墳設計主体の存在を明らかにした。したがって、「類型墳」は必ずしも特定の王陵級古墳をモデルとしたわけではなく、当該期において前方後円墳の理念形が存在し、それに基づいて各地で前方後円墳が個別的に設計された結果、大枠が類似するという構図を描くことができる。倭王権から周縁の大型前方後円墳に対する古墳設計技術の直接的な供与、いわゆる「設計図の配布」という現象が普遍的に行われていたとは認められず、前方後円墳は個別的に設計されるという原則が前期・中期を通じて一般的であったと考えられる。
第7章では、各地に存在していた古墳設計主体が有していた自律性を評価するべく、古墳の設計における最初段階で決定される意匠的要素である墳丘規模と墳形について検討した。前方後円墳を規模規格ごとに整理すると、各規模規格の地理的分布は王陵級古墳を核とする地理的勾配ではなく、一定の地理的範囲において最大規模墳の大きさが特定の規格に収束する現象のほか、各規模規格の消長に地域的展開が認められた。このことから、古墳の規模の決定は倭王権による一元的な管理の下にあるのではなく、一定程度の地理的範囲における有力集団間の水平的な協調によって決定されたと考えた。倭王権との親疎を反映するとされた墳形についても、倭王権による積極的な管理は認め難い。倭王権に対して従属的な被葬者像が描かれてきた方墳の築造において、倭王権の積極的な介入は必ずしも首肯できず、むしろ各地域における造墓集団の自律性や地域的伝統を認めるべき事例が存在する。その一方で、前期末に創出され急速に拡散した帆立貝形古墳については、前方後円墳とは異なる経路による技術交流が推測でき、両者の造墓集団が異なる可能性がある。
終章では、各地で古墳設計技術を運用する集団が個別的に古墳を設計しつつも、広域的な共通性が形成される過程を論じた。複雑系である古墳時代社会においては、集団間の局所的規則である模倣と協調が連鎖的に作用することで広域秩序がボトムアップ的に形成される場合がある。こうした図式は特定の地域に限定されるものではなく、墳丘構造に一定の地域性が認められる関東地方や九州地方をはじめ、より広い範囲に適用できると予見できる。すなわち、古墳の広域秩序が形成されるプロセスにおいては、倭王権の主体的な作用に加え、諸集団の自律的で複雑な相互作用が大きく寄与していたと結論した。
序章では、古墳の墳丘構造に高い共通性が認められることに着目し、こうした共通性が発現した背景を墳丘構造の検討から論じる必要性を示した。
第1章では古墳の構造を論じた先行研究を概観した。古墳構造研究は、陵墓地形図の作成によっていち早く網羅的な資料整備が進んだ王陵級古墳の検討から分析視角を構築してきた。大型で精美な形状の古墳の築造には綿密な設計という行為が介在していたことは共通理解となり、その設計原理の追及が焦点となった。同時に、各地の前方後円墳に強い共通性が認められ、かつその変化が連動していく現象を古墳設計技術の観点から叙述することが試みられた。発掘調査成果の蓄積や3次元計測技術の導入によって基礎資料が飛躍的に増加すると、大枠における共通性が高い墳丘構造にも地域性が存在することが認められるようになった。こうした資料状況を踏まえ、先行研究で示された分析視角を再検証し、古墳の墳丘構造に関する情報が共有された背景を解明すべき課題として示した。
第2章では、発掘調査成果によって墳丘の確実な定点が判明している事例に対象を限定し、墳丘各部が正確な比例関係となることを客観的な計測手法によって示すことで、第3章以降での分析の枠組みを整備した。古墳の設計は特定の造営尺に基づいており、古墳時代前期には23cm/尺前後、中期には漸進的に25cm/尺前後に変遷するが、厳密な統制下にはなく、一定の幅が認められる。前方後円墳では墳丘長を規格的な値で決定するほか、後円部半径(BO長)と後円部中心から前方部稜線交点までの距離(OP長)の比率を単純な整数比で設定することで墳丘形状の大枠が決定されている。段築の設計にあたっては、斜面が安定勾配に収まるように、造営尺に基づいて設定された基本単位を組み合わせることで全体を割り付けていくという手法が一般的であった。施工精度は小規模円墳であっても極めて高く、古墳の墳丘構造の分析からその設計を復元する分析視角の有効性を認めることができる。以上から、古墳が満たすべき意匠や規模を土木工学的条件の範囲内で実現するために設定された体系的な数値的規則こそが古墳設計技術と定義した。
第3章では、王陵級古墳のうち今日的な研究水準を満たす測量図が整備されてこなかった行燈山古墳や佐紀古墳群の大型前方後円墳について、航空レーザ測量を実施し、高解像度の3次元形状データを整備した。続いて、既存の小規模な発掘調査成果を3次元形状データの上で統合することで、平面・立体構造を統合した統一原理によって墳丘の設計を復元した。この作業によって、古墳時代前期初頭から中期末までの王陵級古墳の構造を高解像度で議論するための枠組みを整備した。
第4章では古墳設計技術が成立し、王陵級古墳の築造を通して定着していく過程を整理した。3世紀中葉の大和盆地東南部に纒向遺跡を拠点とする倭王権が成立すると、弥生時代の前方後円形墳丘墓が大型化した纒向型前方後円墳が創出される。この時点で前方後円墳の意匠的規則は成立していたが、厳密な事前計画や測量による精密な施工に基づかず、不整形な形状であった。大型の盛土構造物を安定的に構築するための安全勾配や斜面高に関する知識も存在せず、墳丘長100m前後という規模が当時における工学的上限であった。墳丘長200歩におよぶ箸墓古墳は、盛土の崩落を防止する古墳設計技術の導入によって初めて実現した。こうして成立した古墳設計技術は、反復的な古墳築造を通して拡散するとともに、墳丘規模や意匠的要素、立地などの前提条件に対応して変容していった。
前期前半のオオヤマト古墳群では散発的かつ離散的な古墳築造によって複数の技術系譜が併存していたが、前期後半に王陵級古墳築造の中心が佐紀古墳群に移動すると、狭小な範囲における集約的な古墳築造によって造墓集団が混交し、技術系譜が統合した。佐紀古墳群西群では前方後円墳の設計全体を規定する基礎的な要素において、オオヤマト古墳群には見られなかった高い共通性が生じるが、それは既存設計図を流用・改変するといった運用ではなく、共通の技術基盤に基づいて複数の前方後円墳を個別的に設計することで細部の設計要素が類似するという特徴を示す。
第5章では、前期末以降の王陵級古墳における古墳設計技術の変容を論じた。前期末には墳頂部での葬送儀礼の変容に対応して前方部の高大化が志向されるようになったほか、中期初頭には王陵級古墳の大型化が進行し、古墳設計技術は安定的な盛土構築のための工学的要件を満たしつつ、これらへ対応して変化していくこととなる。中期中葉に築造された最大の前方後円墳である大仙陵古墳では、墳丘長500mを超える大型化と後円部に匹敵する高さの前方部を備えた優美な意匠を達成したが、その代償として墳丘が不安定となった結果、完成直後に大規模な斜面崩壊が発生したと考えられる。これを受けて中期後葉では古墳設計技術が刷新され、より安定した設計が創出されたほか、運用方針にも変更があり、類似した枠組みが複数の古墳で再利用されるようになった。
第6章では、王陵級古墳と墳丘形態の変化が連動すると考えられてきた周縁の前方後円墳を分析した。佐紀陵山古墳と平面形の類似が指摘されてきた「類型墳」の設計を検討すると、その共通性が認められるのは平面形の大枠レベルに留まり、その細部や立面形は大きく異なっていた。特に、設計の最初段階で決定される要素が根本的に異なっていることからは、これらの古墳が佐紀陵山古墳の設計を改変したのではなく、個別的に設計されたと考えるのが合理的である。この見解を補強するために、中期前半に進行する前方部の高大化という意匠的変化が広域で連動する現象を検討すると、変化の方向性は王陵級古墳と連動するものの、そのための技術的対応は王陵級古墳と異なっていた。したがって、前方後円墳の形態変化のうち、広域に連動しているのは大枠的な意匠レベルに留まり、その設計は個別的であることが一般的と考えられる。このような理解が成立するには、各地において古墳設計技術を自律的に運用することのできる設計主体が存在することが前提となる。こうした設計主体の存在を論じるために、設計復元が可能な資料条件を満たす地域のひとつである伊勢湾西岸地域を対象としたケーススタディを試みた。当地域では、王陵級古墳とは明確に異なる設計の前方後円墳が一定の時間幅をもって展開し、王陵級古墳の設計主体とは異なる独立した古墳設計主体の存在を明らかにした。したがって、「類型墳」は必ずしも特定の王陵級古墳をモデルとしたわけではなく、当該期において前方後円墳の理念形が存在し、それに基づいて各地で前方後円墳が個別的に設計された結果、大枠が類似するという構図を描くことができる。倭王権から周縁の大型前方後円墳に対する古墳設計技術の直接的な供与、いわゆる「設計図の配布」という現象が普遍的に行われていたとは認められず、前方後円墳は個別的に設計されるという原則が前期・中期を通じて一般的であったと考えられる。
第7章では、各地に存在していた古墳設計主体が有していた自律性を評価するべく、古墳の設計における最初段階で決定される意匠的要素である墳丘規模と墳形について検討した。前方後円墳を規模規格ごとに整理すると、各規模規格の地理的分布は王陵級古墳を核とする地理的勾配ではなく、一定の地理的範囲において最大規模墳の大きさが特定の規格に収束する現象のほか、各規模規格の消長に地域的展開が認められた。このことから、古墳の規模の決定は倭王権による一元的な管理の下にあるのではなく、一定程度の地理的範囲における有力集団間の水平的な協調によって決定されたと考えた。倭王権との親疎を反映するとされた墳形についても、倭王権による積極的な管理は認め難い。倭王権に対して従属的な被葬者像が描かれてきた方墳の築造において、倭王権の積極的な介入は必ずしも首肯できず、むしろ各地域における造墓集団の自律性や地域的伝統を認めるべき事例が存在する。その一方で、前期末に創出され急速に拡散した帆立貝形古墳については、前方後円墳とは異なる経路による技術交流が推測でき、両者の造墓集団が異なる可能性がある。
終章では、各地で古墳設計技術を運用する集団が個別的に古墳を設計しつつも、広域的な共通性が形成される過程を論じた。複雑系である古墳時代社会においては、集団間の局所的規則である模倣と協調が連鎖的に作用することで広域秩序がボトムアップ的に形成される場合がある。こうした図式は特定の地域に限定されるものではなく、墳丘構造に一定の地域性が認められる関東地方や九州地方をはじめ、より広い範囲に適用できると予見できる。すなわち、古墳の広域秩序が形成されるプロセスにおいては、倭王権の主体的な作用に加え、諸集団の自律的で複雑な相互作用が大きく寄与していたと結論した。