本稿は批判理論の主唱者であるマックス・ホルクハイマーの1930年代の諸論考を検討し、その思想を「実定性批判としての非完結的弁証法」という方法の形成と展開として再構成した。
本稿が先行研究の中で特に問題視したのは「悲観化するホルクハイマー」解釈である。これはまず30年から37年までの「唯物論」期の議論を、学際的唯物論構想にも見られる実証科学とプロレタリアへの信頼により特徴づける。他方で37年から40年までの「批判理論」期を、『啓蒙の弁証法』に顕著な「科学への信頼喪失」と「プロレタリアへの信頼喪失」により特徴づけられる歴史哲学的ペシミズムへ向かう移行期とみなし、科学およびプロレタリアへの信頼喪失の傾向を示すものとする。つまり、この先行研究群は両時期に思想上の転回を指摘するのである。しかしこれらはホルクハイマーにおける科学の位置付けや批判的諸主体の把握を適切に捉えられていないという問題を抱えてきた。
これに対して本稿は、30年代の両時期の思想を「実定性批判としての非完結的弁証法」の形成と展開として再構成することでより適切な解釈を提示した。実定性とは、もともと人間の活動・労働の産物であったという意味で歴史的・社会的性格を帯びているはずのものが固定化・硬直化し、あたかも所与で必然的であるかのように現象し、人々はそれを受け入れざるを得ない、ひいては積極的に受け入れるようになる、というような性質のことを指す。そしてこの問題意識のもとに展開されたものとして、実証主義・科学主義、独断論的形而上学、イデオロギー、権威、ボリシェヴィズムといった多岐にわたる主題に対するホルクハイマーの批判を読解した。
第1章ではカント、ヘーゲル、マルクスに対するホルクハイマーの評価の検討を通じて非完結的弁証法の水脈をたどった。非完結的弁証法の特徴は、単なるマルクス主義ではなく、カントとヘーゲルという二者を対決させ、両者の優れた点を(特に「ヘーゲルをひらくカント」として)積極的に摂取する点にある。
まずカントにおいては認識やそれを支える理性の非完結性が評価された。ヘーゲルにおいては個々の「真理」を実定的なものとせず、それらを限定的否定により保存しつつ高次のものへと進め全体性を志向する運動としての弁証法、およびその内容として主体と客体との歴史的媒介を明らかにする社会哲学が評価された。そしてマルクスにおいてはこの弁証法を物質的生活過程という現実的基盤の上に立たせることで、人間の実践の中で生み出された疎外や物象化の歴史的構造を把握し、それを批判するものとして、唯物論的弁証法が評価されていた。
第2章では前章の議論を受けて、ホルクハイマーにおける非完結的弁証法を以下の四点で定式化した。(A)まず思考・概念によって現実が把握しきれないという緊張関係を前提とする(非同一性)。(B)このような思考は、概念や事実を「究極的に直接的で所与なもの」として受け入れるのを拒む(脱物神化)。(C)そしてこのような意識に基づいて、既存の科学における概念や観念を論理的に追求した結果、それが現象面にのみ着目しているために自己矛盾的かつ不十分であることを暴露する、という仕方で批判を行う(カテゴリーの内在的批判)。(D)このようにして、概念や事実を歴史・社会という動力学の運動の中で把握し、全体性の認識を目指す(限定的否定による全体性志向)。
そして著者は「唯物論」を、非完結的弁証法が実際に社会理論として展開した場合の内容として位置付けるかたちで再定式化した。この時、(A)は物質的な生活過程の具体的・経験的事実の経験科学的探究と、より全体論的な視座を持つ社会哲学の理論的思考との間の非完結的な往還という形で現れる。(B)は特にイデオロギー批判という方法で現れ、特定の信念やそれに支えられた制度の実定性を解体するものである。(C)はカテゴリーの歴史性への意識や、実証的研究による理論的カテゴリーの修正として現れる。(D)は部分と全体、個人と社会との関係を媒介として捉え、理論上要請される全体性を個別科学的な経験的検証により修正し、それに基づいて社会変革を志向するものとして現れる。
第3章では、非完結的弁証法の求める非完結性を経験的次元で保証する、諸個人の心的装置の自立性を扱い、またそれを解明する学問的道具立てとしてイデオロギー批判と精神分析を検討した。ホルクハイマーのイデオロギー論は歴史的・社会的諸関係、特に資本主義社会の反映としての必然的仮象を扱うものとして考えられた。しかしホルクハイマーは経済決定論を避け理論の非完結性を保つべく、個人の心的装置の自立性およびその経験的性格を重視した。これは「時代遅れ」でありながら残存している社会構造を説明する上で重要な役割を果たすものであり、その科学的・経験的な探究を課されたのが精神分析であった。
第4章では、学際的唯物論および批判理論について、非完結的弁証法を科学的に実践するために構想された研究方針ないし理論的立場として扱い、連続性の観点で検討した。まず非完結的弁証法に基づく科学論の一つが、共同研究モデルとしての学際的唯物論であった。これは全体論的な視座を有する社会哲学と、経験的諸事実の実証に基づく個別諸科学の協働であるが、その際非完結的弁証法は主に二つの意味を持つ。第一に共時的な意味がある。これは個人が学際的な研究の方向性を持つだけでなく、社会哲学者と、社会学や文学など個別諸科学の専門家とが一つの研究サークル、および研究者間のネットワークをも構築する、という仕方で現れる。第二に通時的な意味がある。これは社会研究所という組織のもと研究プロジェクトが継続することにより、既存のカテゴリーの認識論的反省や理論の見直しなどにより、全体論的な視角やそこで捉えられる事実、概念が相互に批判を加えられ、より適切な理解が導出されるプロセスである。
そして本稿では「批判理論」期をその延長線上に置き、認識論的反省がより前面に出た社会哲学的理論モデルとして解釈した。この時、仮想敵である伝統的理論に対して「批判」理論が意味していたのは、①「理論と事実との二元論」への批判、②カテゴリー体系の非歴史性への批判、③「盲目的必然性」への批判、④完結的・閉鎖的な全体性への批判であった。これらに対して批判理論は、理論主体の側も諸事実の側も歴史的・社会的に規定されていることを認める。この反省を経て、経験的諸事実の検証と統制的なものとしての「社会的全体性」に依拠して、資本主義社会の超克が目指されているのである。
第5章では、学際的唯物論、イデオロギー批判、精神分析という三つの契機の交差点として、実際に社会研究所において実行された学際的な経験的研究である『権威と家族に関する研究』を検討した。権威は「肯定された従属関係」「自発的服従」として規定され、資本主義論、特に物象化論を土台としたマクロな社会システムの分析と、家族内の権威の発生を解明する精神分析によるミクロな心的装置の分析とを土台とした二重拘束的なモデルにより説明された。また、こうした経済的権威関係が、宗教、哲学、政治など他の文化的諸領域におけるイデオロギーや権威と相互に強化し合う関係についても提示された。そしてこうしたイデオロギー批判が提示する、非合理的な権威主義とは異なる合理的権威の可能性については、規律と自発性との複合体としての自律という概念や政治的実践への接続との関係で論じられていた。
第6章では批判理論の「理論と実践」問題の一つの側面、すなわち政治的実践へ参与する批判的諸主体の理路について、非完結的弁証法の観点から定式化した。その際、参照項としてカント道徳論をおき、これに対するホルクハイマーのイデオロギー批判と評価を確認することで、批判的諸主体は諸個人の理性的反省を介した自律を通じて批判的実践を行うことで、特殊と普遍との和解という理性の能力の現実化、すなわち個人と社会との調和としての「社会全体の理性的組織化」を求めるものであることが明らかになった。
そしてこうした批判的諸主体は、苦悩を経験する中で他者との共苦を通じた連帯を築くものとされた。この運動は単なる情動にも認識にも還元されず、両者の絡み合った「関心」により導かれるものである。本稿はこのように苦悩というカテゴリーを基礎に置き直すことで、先行研究が指摘してきた労働(者)中心主義的な見方ではなく、経験に開かれた「共苦の連帯」として再定式化した。
第7章では「理論と実践」問題のもう一つの側面、すなわち「批判理論家と大衆」の関係について、非完結的弁証法の観点から定式化した。そこでは特にローザ・ルクセンブルクとの関係を検討しホルクハイマーとの類縁性と差異を確認しながら、批判理論家の政治的立場を明確にした。批判理論家は「孤立した知識人」でも、大衆の意識を単に代弁するのでも、ボリシェヴィズム的に大衆を指導するのでもない。むしろ実践的運動といかに相互作用の過程に入るか、あるいはそうした主体の批判的態度をいかに醸成するか、という社会的コミットメントの役割・課題を抱え、緊張関係にある存在として解釈すべきである。
終章は本稿の結論であり、本稿の意義が「悲観化するホルクハイマー」解釈を乗り越えた「実定性批判としての非完結的弁証法」を提示した点にあることを確認した上で、その現代的意義や本稿の限界、今後の課題についても整理した。
本稿が先行研究の中で特に問題視したのは「悲観化するホルクハイマー」解釈である。これはまず30年から37年までの「唯物論」期の議論を、学際的唯物論構想にも見られる実証科学とプロレタリアへの信頼により特徴づける。他方で37年から40年までの「批判理論」期を、『啓蒙の弁証法』に顕著な「科学への信頼喪失」と「プロレタリアへの信頼喪失」により特徴づけられる歴史哲学的ペシミズムへ向かう移行期とみなし、科学およびプロレタリアへの信頼喪失の傾向を示すものとする。つまり、この先行研究群は両時期に思想上の転回を指摘するのである。しかしこれらはホルクハイマーにおける科学の位置付けや批判的諸主体の把握を適切に捉えられていないという問題を抱えてきた。
これに対して本稿は、30年代の両時期の思想を「実定性批判としての非完結的弁証法」の形成と展開として再構成することでより適切な解釈を提示した。実定性とは、もともと人間の活動・労働の産物であったという意味で歴史的・社会的性格を帯びているはずのものが固定化・硬直化し、あたかも所与で必然的であるかのように現象し、人々はそれを受け入れざるを得ない、ひいては積極的に受け入れるようになる、というような性質のことを指す。そしてこの問題意識のもとに展開されたものとして、実証主義・科学主義、独断論的形而上学、イデオロギー、権威、ボリシェヴィズムといった多岐にわたる主題に対するホルクハイマーの批判を読解した。
第1章ではカント、ヘーゲル、マルクスに対するホルクハイマーの評価の検討を通じて非完結的弁証法の水脈をたどった。非完結的弁証法の特徴は、単なるマルクス主義ではなく、カントとヘーゲルという二者を対決させ、両者の優れた点を(特に「ヘーゲルをひらくカント」として)積極的に摂取する点にある。
まずカントにおいては認識やそれを支える理性の非完結性が評価された。ヘーゲルにおいては個々の「真理」を実定的なものとせず、それらを限定的否定により保存しつつ高次のものへと進め全体性を志向する運動としての弁証法、およびその内容として主体と客体との歴史的媒介を明らかにする社会哲学が評価された。そしてマルクスにおいてはこの弁証法を物質的生活過程という現実的基盤の上に立たせることで、人間の実践の中で生み出された疎外や物象化の歴史的構造を把握し、それを批判するものとして、唯物論的弁証法が評価されていた。
第2章では前章の議論を受けて、ホルクハイマーにおける非完結的弁証法を以下の四点で定式化した。(A)まず思考・概念によって現実が把握しきれないという緊張関係を前提とする(非同一性)。(B)このような思考は、概念や事実を「究極的に直接的で所与なもの」として受け入れるのを拒む(脱物神化)。(C)そしてこのような意識に基づいて、既存の科学における概念や観念を論理的に追求した結果、それが現象面にのみ着目しているために自己矛盾的かつ不十分であることを暴露する、という仕方で批判を行う(カテゴリーの内在的批判)。(D)このようにして、概念や事実を歴史・社会という動力学の運動の中で把握し、全体性の認識を目指す(限定的否定による全体性志向)。
そして著者は「唯物論」を、非完結的弁証法が実際に社会理論として展開した場合の内容として位置付けるかたちで再定式化した。この時、(A)は物質的な生活過程の具体的・経験的事実の経験科学的探究と、より全体論的な視座を持つ社会哲学の理論的思考との間の非完結的な往還という形で現れる。(B)は特にイデオロギー批判という方法で現れ、特定の信念やそれに支えられた制度の実定性を解体するものである。(C)はカテゴリーの歴史性への意識や、実証的研究による理論的カテゴリーの修正として現れる。(D)は部分と全体、個人と社会との関係を媒介として捉え、理論上要請される全体性を個別科学的な経験的検証により修正し、それに基づいて社会変革を志向するものとして現れる。
第3章では、非完結的弁証法の求める非完結性を経験的次元で保証する、諸個人の心的装置の自立性を扱い、またそれを解明する学問的道具立てとしてイデオロギー批判と精神分析を検討した。ホルクハイマーのイデオロギー論は歴史的・社会的諸関係、特に資本主義社会の反映としての必然的仮象を扱うものとして考えられた。しかしホルクハイマーは経済決定論を避け理論の非完結性を保つべく、個人の心的装置の自立性およびその経験的性格を重視した。これは「時代遅れ」でありながら残存している社会構造を説明する上で重要な役割を果たすものであり、その科学的・経験的な探究を課されたのが精神分析であった。
第4章では、学際的唯物論および批判理論について、非完結的弁証法を科学的に実践するために構想された研究方針ないし理論的立場として扱い、連続性の観点で検討した。まず非完結的弁証法に基づく科学論の一つが、共同研究モデルとしての学際的唯物論であった。これは全体論的な視座を有する社会哲学と、経験的諸事実の実証に基づく個別諸科学の協働であるが、その際非完結的弁証法は主に二つの意味を持つ。第一に共時的な意味がある。これは個人が学際的な研究の方向性を持つだけでなく、社会哲学者と、社会学や文学など個別諸科学の専門家とが一つの研究サークル、および研究者間のネットワークをも構築する、という仕方で現れる。第二に通時的な意味がある。これは社会研究所という組織のもと研究プロジェクトが継続することにより、既存のカテゴリーの認識論的反省や理論の見直しなどにより、全体論的な視角やそこで捉えられる事実、概念が相互に批判を加えられ、より適切な理解が導出されるプロセスである。
そして本稿では「批判理論」期をその延長線上に置き、認識論的反省がより前面に出た社会哲学的理論モデルとして解釈した。この時、仮想敵である伝統的理論に対して「批判」理論が意味していたのは、①「理論と事実との二元論」への批判、②カテゴリー体系の非歴史性への批判、③「盲目的必然性」への批判、④完結的・閉鎖的な全体性への批判であった。これらに対して批判理論は、理論主体の側も諸事実の側も歴史的・社会的に規定されていることを認める。この反省を経て、経験的諸事実の検証と統制的なものとしての「社会的全体性」に依拠して、資本主義社会の超克が目指されているのである。
第5章では、学際的唯物論、イデオロギー批判、精神分析という三つの契機の交差点として、実際に社会研究所において実行された学際的な経験的研究である『権威と家族に関する研究』を検討した。権威は「肯定された従属関係」「自発的服従」として規定され、資本主義論、特に物象化論を土台としたマクロな社会システムの分析と、家族内の権威の発生を解明する精神分析によるミクロな心的装置の分析とを土台とした二重拘束的なモデルにより説明された。また、こうした経済的権威関係が、宗教、哲学、政治など他の文化的諸領域におけるイデオロギーや権威と相互に強化し合う関係についても提示された。そしてこうしたイデオロギー批判が提示する、非合理的な権威主義とは異なる合理的権威の可能性については、規律と自発性との複合体としての自律という概念や政治的実践への接続との関係で論じられていた。
第6章では批判理論の「理論と実践」問題の一つの側面、すなわち政治的実践へ参与する批判的諸主体の理路について、非完結的弁証法の観点から定式化した。その際、参照項としてカント道徳論をおき、これに対するホルクハイマーのイデオロギー批判と評価を確認することで、批判的諸主体は諸個人の理性的反省を介した自律を通じて批判的実践を行うことで、特殊と普遍との和解という理性の能力の現実化、すなわち個人と社会との調和としての「社会全体の理性的組織化」を求めるものであることが明らかになった。
そしてこうした批判的諸主体は、苦悩を経験する中で他者との共苦を通じた連帯を築くものとされた。この運動は単なる情動にも認識にも還元されず、両者の絡み合った「関心」により導かれるものである。本稿はこのように苦悩というカテゴリーを基礎に置き直すことで、先行研究が指摘してきた労働(者)中心主義的な見方ではなく、経験に開かれた「共苦の連帯」として再定式化した。
第7章では「理論と実践」問題のもう一つの側面、すなわち「批判理論家と大衆」の関係について、非完結的弁証法の観点から定式化した。そこでは特にローザ・ルクセンブルクとの関係を検討しホルクハイマーとの類縁性と差異を確認しながら、批判理論家の政治的立場を明確にした。批判理論家は「孤立した知識人」でも、大衆の意識を単に代弁するのでも、ボリシェヴィズム的に大衆を指導するのでもない。むしろ実践的運動といかに相互作用の過程に入るか、あるいはそうした主体の批判的態度をいかに醸成するか、という社会的コミットメントの役割・課題を抱え、緊張関係にある存在として解釈すべきである。
終章は本稿の結論であり、本稿の意義が「悲観化するホルクハイマー」解釈を乗り越えた「実定性批判としての非完結的弁証法」を提示した点にあることを確認した上で、その現代的意義や本稿の限界、今後の課題についても整理した。