本博士学位申請論文(以下「本書」と略称)は、いわゆる律令国家の時代における国家構造のなかで、兵部省を中核とする軍事体制の体系的な把握を目指すものである。
序章において、本書における問題意識を提示した。七世紀の国際的な危機に際して形成された日本の律令国家は、対外戦争にもたえうる大規模な軍事力を保持するための「軍国体制」であったと評価されてきた。軍事力を維持するためには、直接的な兵力を形成するだけでは足りず、平時において軍事力の維持・管理を担う軍事行政が必要であり、これらは一般行財政の領域とも不可分に連結している。したがって、律令国家が歴史上に持った意義を明らかにするためにも、直接的な軍事力の分析だけでなく、これを支える軍事行政システム、そして人的編成としての官僚制などといった観点からの研究が必要となるが、そうした体系的・包括的な検討は非常に少ない。それゆえに本書では、武官人事と軍事行政を任務とする兵部省に着目して研究を行っていくことを述べた。
第一部では官僚制に関する検討を行った。
まず第一章で、律令官僚制の基幹となる人事行政システム、すなわち勤務評定(考)とそれによる位階・官職昇進(選)の基本的な規定を確認するとともに、国政の中枢である太政官と、文官・武官の人事を分掌する式部省・兵部省とが考選制度においていかなる関係にあるのかを分析した。その際、十世紀の法制史料である『延喜式』を用いることで、諸司が考選文を弁官と式部省に提出する際の作法が同じであり、しかもそれは毎月諸司が所属官人の勤務を天皇に報告する告朔儀礼とも同質のものであることを確認した。これにより、八世紀の太政官と式部省・兵部省の関係についても、考選(特に考)は太政官に主体性があったのが徐々に式部省や兵部省へ移管されたという近年の説とは異なり、律令規定通り式部省・兵部省の人事官庁としての機能は認められ、しかも官人の奉仕を集約するという重責を負っていたことを指摘した。
第二章では、第一章で太政官と式部省・兵部省との関係を明確化したことをふまえ、本書の核心となる兵部省の武官人事について、式部省との関係や武官の創出過程という観点から検討を行った。兵部省が武官の叙位・任官だけでなく勤務評定まで管掌することは、唐とは異なる日本独自の方式であった。このような分担を生じた背景には、大宝令において式部省・兵部省が文武官を対面審査のうえで任命するという唐制にならった人事意識が存在したことがある。これにより、本来任官を起点にして、その後の勤務評定をも担ったと考えた。しかし日本では太政官と式部省・兵部省が相互に独立していたために、人事行政の混乱が予見され、結局二省の任官機能は後退し、考課を起点にして位階・官職を与えるという認識へと推移していったことを指摘した。さらに、古代の日本では奉仕を起点とする認識が存在したこと、その上に七世紀後半の律令官僚制形成過程で職事官クラスの官人を確定し、また律令制的な官司と文武官の区別を被せて人的編成の中に武の領域を確立しようとしたことを確認した。そして職事官にのみ任官を起点とする人事を設計したものの上記の通り実現せず、かわって奉仕本位の論理、さらに個々の自己完結性が強い官司ごとの一体性の論理が働いて、文武官は所属する官司ごとに系列化されていき独自の文武官制が確立していったことを指摘した。
第三章では、帳内・資人という貴人の公的従者というべき存在について、その人事規定から分析を行った。帳内・資人について規定する選叙令条文について、想定される唐令の内容と比較した結果、基本的には唐の制度を縮小改変しながら継受して帳内・資人の人事規定を形成したことが確認される一方、令文の排列および内容から、親王・内親王に仕える帳内のみが任期満了によって直ちに中央官僚機構に参入する道が開かれている点に独自性があることを指摘した。そのうえで、帳内・資人のモデルである唐の親事・帳内が、基本的に官人階層の子息を官人へと直接再生産する過程であるのに対し、日本の帳内・資人は官人の子だけでなく一般公民も採用するもので、しかも中央官人となるにはさらに本主による推薦などを要した点で異なっていることを確認した。唐が中央官庁である尚書兵部・吏部による人物試験によって官途へ参入させるのに対し、日本では実態において式部省・兵部省よりも本主に主体性があることをふまえると、日本では官僚機構末端において式部省・兵部省などの中央官庁へ一元化できない分散的な人事が常態化していたことが指摘できる。そしてそのなかでも、直接中央官僚機構に参入できる親王・内親王への奉仕は異質であり、彼らへの奉仕が天皇への奉仕に準じて扱われるという日本的特性もうかがえることを述べた。
第二部では、兵部省におけるもう一つの柱である軍事行政に関して検討を行った。
第一章では、中央武官のうち、武器の保管を担う兵庫を取り上げた。律令では左右兵庫・内兵庫という三つの官司に分かれ、しかも内兵庫は固有の機能が不明瞭であって、これらを扱う研究も少ない。まず『令集解』の記述や七世紀後半の国家軍制形成史から、内兵庫は大王宮にもとから備わったもので、左右兵庫は中央豪族から軍事指揮権を収公したことで増設された武器庫であると推定した。そして武器の管理・修理に関して日本に継受されなかった唐令の分析を起点に、兵庫が上位の統括官司を持たずに律令官僚制に位置づけられていることの独自性、その背景にある兵庫の天皇家産制的な性質を描き出した。
第二章は地方に目を転じ、地方での造営規定が日本では削除される傾向にあって、日本律令制の地方造営事業に対する意識が薄いことを確認したうえで、特に唐令から継受されなかった規定には兵士を行政で使役する内容のものが多いことを指摘した。そしてその背景に、七世紀後半における一般的な力役からの兵役分離、そして地方豪族からの軍事権収公という律令国家の基本方針が存在し、これによって地方行政における兵士の使役を抑制したものであると述べた。しかし日本では国司が行政と軍事を統括していたために、必然的に国司や郡司のもとでの不正な兵士使役が発生したことを確認し、それは律令制導入による支配の進展に伴って生じる現象であると評価した。そして軍団兵士制が解体されて兵役と力役が合流するなか、中央政府は国司の行財政への監督を強めていき、造営関係規定が地方財政監察にも効力を発揮していくようになったと展望した。
第三章は再び中央に戻り、兵部省の被管官司で武器生産を担う造兵司と、そこに所属する雑工戸と呼ばれる世襲的な技術民の動向を跡付けた。造兵司は九世紀末に解体され、その生産部門が兵庫寮へと統合される。そこで『延喜式』で兵庫寮関係の規定を分析すると、雑工戸が農閑期にのみ動員される規定であるのに、武器生産は通年行いうる規定となっていることが指摘できた。加えて、造兵司はすでに律令において通年上番する技術指導員を有し、また規定外にも常勤の技術職員を所属させていた。こうした状況から、八世紀においても造兵司は広範な労働力基盤から技術者を養成することを主眼としていたことを指摘した。『延喜式』では依然として工房で生産を行うことが想定されているが、国史の記事を検討すると、造兵司における技術伝習は九世紀に縮小したことが確認できる。九世紀末には、雑工戸は養物請求のための定数となり、実際には雇用労働力に依拠した生産へと一元化されて、雑工戸管理者としての造兵司が解体されたことを指摘した。
第四章は地方軍事行政の全体像を、肥後国の鞠智城という古代山城の視点から描いたものである。七世紀後半、対外的危機のなかで築城された鞠智城が、八世紀初頭の西海道防衛と隼人支配において軍事的拠点として活用され、この間兵部省による地方軍事行政は一般行財政と並行しこれに依拠しつつも、なお独立の領域として構築されようとしていたことを指摘した。しかし九世紀には軍事的気運が低下し、軍団兵士制解体後の鞠智城は軍事的性質を残しつつも倉庫施設として一般行政に組み込まれた。兵部省による軍事行政が民部省による財政のなかに解消されていくのと軌を一にして、鞠智城も肥後国内の倉庫施設の一つとして行政に取り込まれ、国府への機能集中を前についに廃絶へ至ったことを述べた。
終章では、本書全体での検討をふまえ、兵部省を中核とする律令国家の軍事行政体系は、官僚制・軍事行政の両面において、国家構造における軍事の問題を固有の領域として明示し確立する意図を持つものであったと総括した。現実においては、当初より一般行財政への依拠が強かった軍事行政は軍団兵士制解体とともに財政へと包摂されたが、律令国家は軍事の領域を放棄しなかった。『延喜式』にみられるような軍事部門に関する規定の維持、そして官僚制における武官という区分の残存など、当初より多分に形式的な面のある軍事領域であったがゆえに、それは長く残存したのである。しかし律令制は理念的なものであったと単純化することには慎重でなければならない。少なくとも七世紀後半の支配者集団は、自己編成と支配貫徹のために律令制を必要としたのである。それゆえ、彼らが律令制によって何を実現しようとしたのか、そこにおいて律令制的な軍事・武の領域はいかなる意味を持ったのか、それが平安時代の武とどのように関わるのかなど、今後さらに検討すべき課題は多い。そしてまた、そもそも律令制とは何をもって定義されるのか、といった根本的な問題へと展開していく必要があることを述べた。
序章において、本書における問題意識を提示した。七世紀の国際的な危機に際して形成された日本の律令国家は、対外戦争にもたえうる大規模な軍事力を保持するための「軍国体制」であったと評価されてきた。軍事力を維持するためには、直接的な兵力を形成するだけでは足りず、平時において軍事力の維持・管理を担う軍事行政が必要であり、これらは一般行財政の領域とも不可分に連結している。したがって、律令国家が歴史上に持った意義を明らかにするためにも、直接的な軍事力の分析だけでなく、これを支える軍事行政システム、そして人的編成としての官僚制などといった観点からの研究が必要となるが、そうした体系的・包括的な検討は非常に少ない。それゆえに本書では、武官人事と軍事行政を任務とする兵部省に着目して研究を行っていくことを述べた。
第一部では官僚制に関する検討を行った。
まず第一章で、律令官僚制の基幹となる人事行政システム、すなわち勤務評定(考)とそれによる位階・官職昇進(選)の基本的な規定を確認するとともに、国政の中枢である太政官と、文官・武官の人事を分掌する式部省・兵部省とが考選制度においていかなる関係にあるのかを分析した。その際、十世紀の法制史料である『延喜式』を用いることで、諸司が考選文を弁官と式部省に提出する際の作法が同じであり、しかもそれは毎月諸司が所属官人の勤務を天皇に報告する告朔儀礼とも同質のものであることを確認した。これにより、八世紀の太政官と式部省・兵部省の関係についても、考選(特に考)は太政官に主体性があったのが徐々に式部省や兵部省へ移管されたという近年の説とは異なり、律令規定通り式部省・兵部省の人事官庁としての機能は認められ、しかも官人の奉仕を集約するという重責を負っていたことを指摘した。
第二章では、第一章で太政官と式部省・兵部省との関係を明確化したことをふまえ、本書の核心となる兵部省の武官人事について、式部省との関係や武官の創出過程という観点から検討を行った。兵部省が武官の叙位・任官だけでなく勤務評定まで管掌することは、唐とは異なる日本独自の方式であった。このような分担を生じた背景には、大宝令において式部省・兵部省が文武官を対面審査のうえで任命するという唐制にならった人事意識が存在したことがある。これにより、本来任官を起点にして、その後の勤務評定をも担ったと考えた。しかし日本では太政官と式部省・兵部省が相互に独立していたために、人事行政の混乱が予見され、結局二省の任官機能は後退し、考課を起点にして位階・官職を与えるという認識へと推移していったことを指摘した。さらに、古代の日本では奉仕を起点とする認識が存在したこと、その上に七世紀後半の律令官僚制形成過程で職事官クラスの官人を確定し、また律令制的な官司と文武官の区別を被せて人的編成の中に武の領域を確立しようとしたことを確認した。そして職事官にのみ任官を起点とする人事を設計したものの上記の通り実現せず、かわって奉仕本位の論理、さらに個々の自己完結性が強い官司ごとの一体性の論理が働いて、文武官は所属する官司ごとに系列化されていき独自の文武官制が確立していったことを指摘した。
第三章では、帳内・資人という貴人の公的従者というべき存在について、その人事規定から分析を行った。帳内・資人について規定する選叙令条文について、想定される唐令の内容と比較した結果、基本的には唐の制度を縮小改変しながら継受して帳内・資人の人事規定を形成したことが確認される一方、令文の排列および内容から、親王・内親王に仕える帳内のみが任期満了によって直ちに中央官僚機構に参入する道が開かれている点に独自性があることを指摘した。そのうえで、帳内・資人のモデルである唐の親事・帳内が、基本的に官人階層の子息を官人へと直接再生産する過程であるのに対し、日本の帳内・資人は官人の子だけでなく一般公民も採用するもので、しかも中央官人となるにはさらに本主による推薦などを要した点で異なっていることを確認した。唐が中央官庁である尚書兵部・吏部による人物試験によって官途へ参入させるのに対し、日本では実態において式部省・兵部省よりも本主に主体性があることをふまえると、日本では官僚機構末端において式部省・兵部省などの中央官庁へ一元化できない分散的な人事が常態化していたことが指摘できる。そしてそのなかでも、直接中央官僚機構に参入できる親王・内親王への奉仕は異質であり、彼らへの奉仕が天皇への奉仕に準じて扱われるという日本的特性もうかがえることを述べた。
第二部では、兵部省におけるもう一つの柱である軍事行政に関して検討を行った。
第一章では、中央武官のうち、武器の保管を担う兵庫を取り上げた。律令では左右兵庫・内兵庫という三つの官司に分かれ、しかも内兵庫は固有の機能が不明瞭であって、これらを扱う研究も少ない。まず『令集解』の記述や七世紀後半の国家軍制形成史から、内兵庫は大王宮にもとから備わったもので、左右兵庫は中央豪族から軍事指揮権を収公したことで増設された武器庫であると推定した。そして武器の管理・修理に関して日本に継受されなかった唐令の分析を起点に、兵庫が上位の統括官司を持たずに律令官僚制に位置づけられていることの独自性、その背景にある兵庫の天皇家産制的な性質を描き出した。
第二章は地方に目を転じ、地方での造営規定が日本では削除される傾向にあって、日本律令制の地方造営事業に対する意識が薄いことを確認したうえで、特に唐令から継受されなかった規定には兵士を行政で使役する内容のものが多いことを指摘した。そしてその背景に、七世紀後半における一般的な力役からの兵役分離、そして地方豪族からの軍事権収公という律令国家の基本方針が存在し、これによって地方行政における兵士の使役を抑制したものであると述べた。しかし日本では国司が行政と軍事を統括していたために、必然的に国司や郡司のもとでの不正な兵士使役が発生したことを確認し、それは律令制導入による支配の進展に伴って生じる現象であると評価した。そして軍団兵士制が解体されて兵役と力役が合流するなか、中央政府は国司の行財政への監督を強めていき、造営関係規定が地方財政監察にも効力を発揮していくようになったと展望した。
第三章は再び中央に戻り、兵部省の被管官司で武器生産を担う造兵司と、そこに所属する雑工戸と呼ばれる世襲的な技術民の動向を跡付けた。造兵司は九世紀末に解体され、その生産部門が兵庫寮へと統合される。そこで『延喜式』で兵庫寮関係の規定を分析すると、雑工戸が農閑期にのみ動員される規定であるのに、武器生産は通年行いうる規定となっていることが指摘できた。加えて、造兵司はすでに律令において通年上番する技術指導員を有し、また規定外にも常勤の技術職員を所属させていた。こうした状況から、八世紀においても造兵司は広範な労働力基盤から技術者を養成することを主眼としていたことを指摘した。『延喜式』では依然として工房で生産を行うことが想定されているが、国史の記事を検討すると、造兵司における技術伝習は九世紀に縮小したことが確認できる。九世紀末には、雑工戸は養物請求のための定数となり、実際には雇用労働力に依拠した生産へと一元化されて、雑工戸管理者としての造兵司が解体されたことを指摘した。
第四章は地方軍事行政の全体像を、肥後国の鞠智城という古代山城の視点から描いたものである。七世紀後半、対外的危機のなかで築城された鞠智城が、八世紀初頭の西海道防衛と隼人支配において軍事的拠点として活用され、この間兵部省による地方軍事行政は一般行財政と並行しこれに依拠しつつも、なお独立の領域として構築されようとしていたことを指摘した。しかし九世紀には軍事的気運が低下し、軍団兵士制解体後の鞠智城は軍事的性質を残しつつも倉庫施設として一般行政に組み込まれた。兵部省による軍事行政が民部省による財政のなかに解消されていくのと軌を一にして、鞠智城も肥後国内の倉庫施設の一つとして行政に取り込まれ、国府への機能集中を前についに廃絶へ至ったことを述べた。
終章では、本書全体での検討をふまえ、兵部省を中核とする律令国家の軍事行政体系は、官僚制・軍事行政の両面において、国家構造における軍事の問題を固有の領域として明示し確立する意図を持つものであったと総括した。現実においては、当初より一般行財政への依拠が強かった軍事行政は軍団兵士制解体とともに財政へと包摂されたが、律令国家は軍事の領域を放棄しなかった。『延喜式』にみられるような軍事部門に関する規定の維持、そして官僚制における武官という区分の残存など、当初より多分に形式的な面のある軍事領域であったがゆえに、それは長く残存したのである。しかし律令制は理念的なものであったと単純化することには慎重でなければならない。少なくとも七世紀後半の支配者集団は、自己編成と支配貫徹のために律令制を必要としたのである。それゆえ、彼らが律令制によって何を実現しようとしたのか、そこにおいて律令制的な軍事・武の領域はいかなる意味を持ったのか、それが平安時代の武とどのように関わるのかなど、今後さらに検討すべき課題は多い。そしてまた、そもそも律令制とは何をもって定義されるのか、といった根本的な問題へと展開していく必要があることを述べた。