本研究は、17世紀ヴェネツィアのラビ、レオネ・モデナの著作を分析し、そこに現れるユダヤ教の姿を明らかにする。用いるのはユダヤ教の概説書と4つの反駁書である。これらの著作の背景には、日常生活においてモデナが行っていた対話や論争がある。顔が見えるレベルの読者が想定されており、彼らとの具体的なやりとりの延長線上にこれらの執筆が位置づけられる。相手の主張や期待に応じながら展開するモデナの議論は、理念上・観念上のユダヤ教をその中心的な要素から定義するのではなく、現実の社会や生活に根差した形で、ユダヤ教から外れる「他者」との間に境界線を引きながらユダヤ教を構築する。本研究では、対話や論争の中でモデナがどのように「他者」との境界線を設定するか、その中でどのように「自己」の側にあるユダヤ教が現れるかに焦点を当てる。
 本研究で扱う資料は、ユダヤ教の概説書である『ヘブライ人の儀礼の歴史』(1638年出版)、カバラーに対する反駁書『獅子は吼える』(1639年執筆)、元コンヴェルソであるウリエル・ダ・コスタの質問状に対する反駁書『盾と大楯』(1616年執筆)、著者不明のラビ伝統に対する挑戦的な著作に対する反駁書『獅子の咆哮』(1624年執筆)、キリスト教教義に対する反駁書『盾と剣』(遺作)である。執筆動機となる他者との対峙を踏まえて分析を行うため、執筆に至った細かな経緯や想定された具体的な読者像、どのような応答があったのかなどを分析対象の資料やモデナの書簡、先行研究などから再構成する。また執筆の直接的な背景のみならず、モデナが生きた17世紀のヴェネツィア・ユダヤ社会の文脈、モデナのユダヤ社会における立場を考慮することも重要である。他者との関りの中にあるモデナの議論は流動的であり、議論の変化や矛盾もあるものの、通して貫かれる思考も現れてくる。即興的な対話を体系化した結果として書かれた議論を丁寧に追いながら、モデナがユダヤ教のあり方について考えるときの思考法に迫る。
 序章では、本研究の目的や特徴、手法について論じた後、モデナの議論におけるユダヤ教と「他者」との関係を考える前提として近世の思想的特徴を整理する。ヘブライズムは神の言葉の真の意味を求めてヘブライ語聖書を研究する動向として始まり、文献学的関心のみならず古代神学思想と結びついた神秘主義的な関心、社会への適用を目指す政治的な関心としても発展した。ヘブライズム、また同時に引き起こされる改革思想は、多様な宗派を生み出すとともに、宗教間・宗派間の境界線を流動させ、キリスト教におけるユダヤ化などを引き起こした。またイベリア半島での強制改宗とコンヴェルソの離散、イタリアにおけるニコデミズム、「新世界」における宣教活動は、儀礼行為と宗教的アイデンティティの間の混乱をもたらす。モデナの執筆動機は、これらの思想的潮流の中に位置づけられる。
 第1章ではヴェネツィア・ユダヤ社会の16-17世紀の発展史と思想動向を整理する。モデナ個人の活動していた領域は、ヴェネツィア・ユダヤ社会の中でも限定的であり、その外側を含めた複雑さ、多様性を見せるのが本章の目的である。改革派思想の流入、ヘブライ語印刷、それらをめぐるローマ教会と共和国の緊張関係、科学や自由主義的思想など、多様な側面においてユダヤ社会は関わりを持っている。また、ゲットーが設置され、その空間の中でユダヤ的な生活文化が展開したことで、キリスト教社会とは異なる文化的・知的営みに関する好奇心を惹きつける場所となり、両宗教間の交流を促進する装置となった。
 第2章ではモデナの生涯と著作を概観し、社会的役割や思想的特徴を大まかに洗い出す。モデナはその宗教的学知においては認められてはいたが、経済的不安定さゆえに共同体の運営にはあまり関われなかった。他方でゲットーを訪れるキリスト教徒との交流は多く、ゲットーのコンタクトゾーンとしての機能の典型例、異文化間の仲介を促進した人物として捉えることができる。またキリスト教文化の導入やイスラームへの関心、異教的思考の傾向など、その思想には多様な要素が含まれており、さらに伝統/革新、魔術/宗教/科学などの近代的な枠組みでは捉えられない複雑さを持ち合わせている。
 続く第3章から第6章の各章で、資料を順番に分析する。第3章で扱う『ヘブライ人の儀礼の歴史』は、キリスト教徒の依頼によって執筆され、キリスト教徒の求めによって出版されており、そこには「ヘブライ共和国」などのユダヤ法に対する政治的関心、ユダヤ教の儀礼の奇妙さに対する人類学的好奇心、儀礼の神秘的な理由を求める視線がある。モデナはユダヤ教の儀礼を、聖書に基づく法体系として、イエスが生きた時代の社会制度を示すものとして提示するが、日常生活やライフサイクルなど人類学的な好奇心に応じる一方で、「迷信」と見做されるような要素は伝統ではないと主張し、ユダヤ教に神秘的な要素を期待しないように記述を変えている。
 ユダヤ教に期待された神秘的な要素をモデナが説明しない背景を明らかにするのが第4章である。ここでは、カバラー反駁書『獅子は吼える』のうち、戒律に関わる議論を扱う。この著作はモデナの教え子や義理の息子がカバラーに傾倒し、権威ある伝統として用いることに反論するために書かれた。カバリストたちがカバラーを「前から後ろの」、神から直接教えを受けるような神秘的な方法で真理にたどり着ける知恵と考え、それに基づいて戒律の理由に応じた遵守を主張するのに対し、モデナは知恵を「後ろから前の」、経験に基づき論拠に拠って導くものと主張し、そうした知的営みは神から隠された戒律の意図には到達しえないと反論する。むしろ戒律の遵守に重要なのは、戒律の意図ではなく行為内容そのもの、聖書テクストの隠された意味ではなく字義的な解釈であると主張する。カバリストたちの主張は、儀礼における行為と意図の変遷についてタラル・アサドが論じたところの儀礼の「再定式化」に当たると考えられるが、モデナの議論は行為と意図の間にずれがないというよりも、その間の関係性を切っており、それによって、カバラーを通してユダヤ教がキリスト教と接続することに対し、境界線を引きなおしていると言える。
 第5章で扱うのは『盾と大楯』および『獅子の咆哮』である。両者ともラビ伝統の歴史性を疑い、口伝トーラーの権威を否定する主張に対する反論である。ここでは反論相手が明らかになっている『盾と大楯』に重点を置き、相手であるウリエル・ダ・コスタの社会的背景に照らしながらダ・コスタの主張とモデナの反論を読み解く。成文トーラーの字義的解釈を重視するダ・コスタの議論に対して、モデナはトーラーの記述に基づいた反論はできず、現実の戒律の遵守という視点から口伝トーラーやラビ伝統を擁護する。モデナの議論においては、口伝トーラーは成文トーラーの曖昧な規定に細則を加えて戒律を身体性を伴った形で現実的に遵守可能にするために必要な要素、また口伝トーラーを持たずに間違った方法でトーラーを守っている異教徒との区別を行うための境界線として機能している。
 第6章ではキリスト教反駁書『盾と剣』について、モデナのキリスト教徒との交流から執筆動機と読者層を考察したのち、本文を分析する。『盾と剣』は戒律の議論は扱わず、キリスト教教義を聖書解釈や合理性から反駁する内容である。モデナは神秘主義的なヘブライストによる暗示的な解釈に対して字義的解釈を用いて反論するが、ここで重視されるのは、一般信徒でも間違いを犯すことがない、「知をもって描く」、絵のように想像することができるような明白さを伴う教義の理解である。また三位一体や原罪などの重要な教義について、類似するユダヤ教の思想と比較し、キリスト教の教えがユダヤ教から逸脱していく核心的な要素を鋭く見つけ、それを取り除いて歴史的にさかのぼりながらキリスト教をユダヤ教に近づける議論を行っている。
 最後の結論では、すべての資料の間の議論を統合し、また同時代の2人のユダヤ人との比較を通じてモデナの思想の特徴を明確にする。モデナの5つの著作における「他者」は、いずれも神の本来の教えを追求する点で共通しており、その中でラビ伝統はその権威を揺るがされていた。モデナは聖書の字義的な解釈、視覚的に明白な信条の理解、口伝トーラーを通じた儀礼の身体的実践を重視し、そこにおいて他者との境界線を引いている。ヨセフ・ソロモン・デルメディゴの思想では、知覚に基づく経験主義は、知る対象の情報を取得する最初の段階のみに現れ、その後の情報整理と理解においては見出されないのに対し、モデナは聖書から読み取る情報のみならず、その理解のあり方そのものにも視覚的な明白さを求める点で違いがある。またルッツァットは儀礼について、視覚認識を通じた伝承の信頼性を論じ、モデナにおける儀礼行為の重視と通じる部分があるが、ルッツァットは社会における異教徒との調和という問題の中で儀礼を捉えるのに対し、モデナは非ユダヤとの差異を示しながらユダヤ人のアイデンティティを論じる上で儀礼が重要な要素となる。こうしたモデナの思想的特徴は、科学的・政治的思考とは異なる、より日常に根差したラビ的な視点に立脚する。大衆における宗教的思想潮流の多様化、儀礼とアイデンティティの関係の混乱の中で、神の作った世界を知るのではなく神に与えられた法を現実において守るための人間知性、また境界線を踏み越えることなくユダヤとしてのアイデンティティを明確にするための儀礼実践を追求していると言える。