本論文は、主に中期から後期のライプニッツにおいて問題化されることになる、単純実体としてのモナドと、諸実体の複合からなる物体的事物とりわけ有機的物体との間の関係を主題として扱う。というのも、ライプニッツの後期テクスト群のうちには、単純実体のみがモナドであるという主張と、複合的なものも含めて実体であると主張するテクストが見出されるが、これらの関係はこれまで十分に明らかにされてきたとは言い難いからである。こうした主題をめぐる議論を経て、後期ライプニッツが提示するモナドを中心とする形而上学が、物体的事物についての経験と相関的な仕方で展開されたものであることが明らかになる。
 本論文のより具体的な課題は以下のように整理できる。(1)ライプニッツの思索の展開において、支配的モナドや実体的紐帯といった形而上学的概念が、経験的な対象としての有機的物体をめぐる議論との関係のなかで彫琢されたことを、歴史的かつ理論的に解明すること。(2)経験的な審級に属する有機的物体に関する認識を通して、形而上学的理論を改訂していくことの正当性をライプニッツ自身の哲学のうちに見出すこと。この二点が課題となる。
 以上の課題に取り組むことで、本論文は最終的に次のことを結論する。(1)後期のライプニッツは、有機的物体に関連する経験的な諸概念の整備を経ることによってこそ、支配的モナドや実体的紐帯といった形而上学的な諸概念を成立させ得たということ。(2)経験的な審級に立脚しながら世界の構造に関わる諸事物について論じることがライプニッツ哲学にとって正当であるのは、原始的力の概念に訴えることによってであるということ。(3)先立つふたつの結論から〈経験から事物へ/事物から経験へ〉という二重の運動がライプニッツ哲学の体系と方法のうちには備わっており、それぞれの領域の外部が常に前提されるという意味で、ライプニッツの哲学は〈開かれた形而上学〉と呼びうるものであるということ。以上を結論する。
 本論文は、全3部、全9章から構成されている。第I部(第1章から第3章)および第II部(第4章から第6章)では、それぞれ有機的物体を中心とする自然学的領域と、モナドを中心とする形而上学的領域について、諸概念の生成史的側面に重点を置きながら論じる。こうした作業を通して、ライプニッツの思索の展開のうちで、ふたつの領域が相関的な仕方で展開されていたことを、具体的なテクストに即してクロノロジカルな仕方で提示することとなる。第III部(第7章から第8章)では、そのような相関的展開がいかなる理論的前提のもとで可能になっているのかを問う仕方で、その哲学を成り立たせている諸概念を明らかにする。言い換えれば、経験と事物を往還するライプニッツ哲学の内在的整合性を理論的再構成という方法を通して提示することになる。
 第1章「有機的物体はどのように問題化されうるのか」では、1686年から1690年にかけて交わされたライプニッツとアルノーの往復書簡を分析することで、ライプニッツ自身の関心が、実体的形相それ自体の問題から有機的物体の実体性の問題へと徐々に移り変わっていく様子をクロノロジカルに記述する。こうした議論を通して、1690年代以降に生じた有機的物体をめぐる諸概念の定式化を導く動機を見出すことになる。
 第2章「無限なるものとしての自然の機械」では、動物の身体としての有機的物体をそれ以外の物体から区別する新たな概念として、1695年の『新説』において定式化される「自然の機械」について論じる。ここではまず、この概念の定式化の経緯に関する生成史的な確認を行った上で、それがいかにして不壊性という特徴に結びつくのかを明らかにする。先行研究において、無限性のもとで規定される「自然の機械」が不壊性へと結びつくことの自然学的な説明は、これまでほとんど行われてこなかった。本章では、無数の「予備の砦」というライプニッツ自身の表現に注目しつつ、そうした予備の砦が内的合目的性を生じさせるような仕方で配備されることによって、不壊性が成立していることを結論する。
 第3章「生き物そのものへの眼差し:後期ライプニッツの有機体論」では、1704年のマサム夫人宛書簡において明確な仕方で述べられることになった「有機的機構」概念の生成史的記述と、そうした概念に基づいて有機的物体を探究する方法論の理論的再構成を行う。ライプニッツ自身がこの概念を画定させた時期については、これまでいくつかの説が提示されてきたが、本章ではそれらを批判的に検討しつつ、決定的な定式化がなされたのは1700年代に入ってからであることを指摘する。また、、デカルト的機械論と対比することで、ライプニッツの有機的物体に関する方法論が、ある種の機械論とは区別されるべき「理念的機械論」であったことを提唱する。
 第4章「物体的実体の行方:中期から後期にかけての実体論について」では、1686年の『叙説』から1700年代初頭のモナド概念の確定に至るまでの、ライプニッツの一連の実体論について概観することとなる。とりわけ、実体性の基準として考えられた完足性、一性、単純性という3つの性格が、物体的事物とどのように関わるのかということを検討することで、単純性という基準が単純実体としてのモナドに限定されたものであることを指摘する。本章では、単純性の導入によって、物体的実体の役割の一部がモナドに取って代わられると同時に、残された全体的一性に関する役割は「動物」や「生き物」という表現のもとに維持されたことを指摘する。
 第5章「支配的モナドによる心身結合の理論」では、1700年代以降に用いられるようになる「支配的モナド」概念の生成史について、それまでの「魂」概念から移り変わっていくさいの役割の変化に注目しつつ検討した上で、モナド間の〈支配–従属〉関係それ自体の成立に関する理論的再構成を行う。こうした議論を通して、諸モナドや有機的物体に一性を与えることを主要な働きとする魂に対して、支配的モナドは諸モナドと並列的に一性へと協働する働きをなしていることを指摘する。また、〈支配的モナド–従属的モナド–有機的物体〉という三項が揃って初めて〈支配–従属〉関係が成立しうることを指摘する。
 第6章「実体的紐帯というアポリア:モナドによる基礎づけと経験からの要求」では、晩年のデ・ボス宛書簡において登場する「実体的紐帯」概念を扱う。研究史のなかで、この紐帯概念は解釈上のアポリアとして捉えられてきた。というのも、それまでのモナドの理論と相容れない複合体の実体性をもたらす概念であり、かつ、デ・ボスとの往復書簡を重ねる間にライプニッツ自身の紐帯概念の理解も変化しているからである。本章では、紐帯概念自体が働いている問題圏それ自体が変化したと考えることで、相異なる問いのもとで、ふたつの紐帯概念は矛盾なく両立しうることを指摘する。こうした異なる問いを導くものとして有機的物体に関する経験的事実からの要求があったと考えられるのである。
 第7章「認識論的な真理:経験は形而上学を改訂するための真理となりうるか」では、私たちに与えられる現象の事象性の基礎を、経験それ自体のうちに見出すことができるかどうかを検討する。一般にライプニッツにおける真理は同一律に還元される必然的真理との関係で考えられているが、もし事実真理に固有の基礎が見出されうるならば、経験それ自体が形而上学的原理の改訂を要求するという事態も可能になるといえよう。本章では、事実真理を構成する要素的諸経験のうちでも、そうした経験の全体を可能にしていると考えられる「内的直接的経験」に注目する。この特異な経験こそが、事実真理の第一原理として固有の位置を占めていることを指摘し、経験それ自体の事象性の基礎として働いていることを明らかにする。
 第8章「経験を越えて存在する物体的事物:「よく基礎づけられた現象」と原始的力」では、前章で明らかになった経験それ自体における事象性を越えて、物体的事物それ自体において事象性の基礎が置かれうるのかどうかを検討する。言い換えれば、ライプニッツが「よく基礎づけられた現象」という表現を用いるさい、その基礎づけが私たちの表象の規則的連結を越えたものでありうるかどうかが問題となるのである。本章では、諸モナドを備わる原始的能動的力こそが物体的事物それ自体の事象性の基礎であると同時に、私たちの経験をも成り立たせていることを指摘する。
 終章「〈開かれた形而上学〉としてのモナドロジー」では、ライプニッツ哲学の体系と方法が、自ら外部を構成しながら、その外部を取り込む仕方で開かれたものであったことを明らかにする。このようなライプニッツ哲学像を明確にするために、まずブロンデルが19世紀末頃に提示した実体的紐帯を中心とする解釈を確認する。その上で、ライプニッツ自身の思索は、観念論を押し進めるなかで実在論が、そして実在論を押し進めるなかで観念論が現れてくるような体系と方法であったことが示される。
 本論文は一貫して、ライプニッツ哲学のクロノロジカルな展開を追いながら、そこに含まれる観念論的主張と実在論的主張の交差を明らかにしていくものである。こうした作業を通して、ライプニッツ自身が長いキャリアの間に体現した〈開かれた形而上学〉としてのモナドロジーを提示することになる。つまり、ライプニッツの一連の思索に見出される方法と体系は、個別の諸領域を形成しつつ、その諸領域を正当にも横断するような仕方で、常に開かれているのである。