本論文の主要な目的は、第一に、(1) ドゥンス・スコトゥスの形而上学的な探求は、「概念、とりわけ述定の構造についての論理学的な探求を通じて、実在するものの構造についての形而上学的な探求が遂行される」として本論文中で規定される「論理学的形而上学」という性格を持つものである、ということを明らかにすることであり、第二に、(2) スコトゥスの「形相的区別」の学説は、第一のしかたで自体的な諸命題の真理性を確保するために導入された論理学的形而上学的な概念であり、またこの形相的区別を通じて、実体のカテゴリーに関わる形而上学が、「最高類から最低種に至るまで」を対象領域としていたアリストテレス‐トマス的なものから、「最高類から個別者に至るまで」を対象領域とするスコトゥス的なものへと自然なしかたで拡張された、ということを提示することである。そしてこれら二つの目的を貫くのが、「共通本性」という概念であることが明らかにされる。
 本論文は、抽象認識論を取り扱う第一部と、形相的区別を中心とした形而上学を取り扱う第二部に分かれている。第一部第一章は、アリストテレスに由来する諸概念によって抽象認識を説明する「形象図式」のもとにスコトゥスの抽象認識論を再構成する。続く第二章では、「抽象」という語が「広い意味」と「厳密な意味」という二通りの用法のもとで用いられているスコトゥスのテクストから出発し、彼が「抽象」という語で具体的に何を理解していたのかということを明らかにする。その際に、第一章で確認した形象図式のみでは、スコトゥスにおける抽象認識が完全には説明できないどころか、アリストテレス的な認識論から帰結する「この世の人間知性は事物の実体によって直接的なしかたで動かされることはない」という問題を解決することができないことが明らかとなる。そこで Giorgio Pini の研究に依拠しつつ、スコトゥスのテクストから「記述図式」と名付けられ得る抽象認識理論を取り出す。さらに、Pini の研究を批判的に検討することで、「形象図式」と「記述図式」とが組み合わされて一つの抽象認識理論が形成されると主張する。こうして、形象図式にまつわる上述の問題が解消され、スコトゥスにおける「抽象」の一般的な意味が獲得される。
 第一部での考察の成果を整理すると以下のようになるであろう。(1) 可知的形象に関して、現代ではSpruit が彼の研究において、「可知的形象は認識においてヴェールとして働き、対象を隠してしまう」として攻撃の対象としている。つまり、可知的形象がまさに媒介として働くがゆえに、認識が実在の対象に直接アクセスすることを不可能にし、それゆえ認識は対象を精確に反映したものではなくなってしまうという批判である。しかし、少なくともスコトゥスにおいては、この世の人間知性が対象を認識するために不可欠な媒介としての可知的形象の表象対象として共通本性が与えられることが明らかとなった。つまり、可知的形象を通じて、実在する対象が有しているものと同じ情報が人間知性に与えられる、ということである。上述のアリストテレス的な認識論の帰結を踏まえるならば、Spruit の主張とは裏腹に、まさに可知的形象によって実在の対象へと認識的にアクセス可能になるのである。
 (2)「諸々の附帯性についての概念を、能動知性が記述によって取りまとめることで新たに実体についての可知的形象を作り出す」というしかたで、感覚的な認識から実体についての知性認識に至る際の「ギャップ」が乗り越えられるということが明らかになったが、これは同時に能動知性が感覚的な所与をもとに、そこにないはずの実体についての情報を作り出すことを意味する。それでは、「そこにないはずの可知的形象を作る」のではなく、「そこにないはずの現実的な認識を作る」と主張して何か問題があるだろうか。これこそがまさにスコトゥスに対するオッカムの批判であった。この意味で、スコトゥスの抽象認識論は、オッカムによる可知的形象の消去を準備していた言えるだろう。
 第二部では形而上学的についての考察を行う。第二部の最終的な目的は、スコトゥスの形相的区別、さらに個体化の原理の学説の内実を明らかにすることである。そのためにまず第三章でスコトゥスの個体化の原理に関する研究を整理し、いくつかの注意を促した。そして第四章では、『オルディナティオ』における、スコトゥスによるガンのヘンリクス批判を概観する。それによって、スコトゥスの個体化の問題が単に現実に存在しているものの領域だけでなく、その背後にある形而上学的な構造や論理学的な諸概念の相関をも視野に入れているということを確認する。こうして、「個別者の個体性」と呼ばれ得るものをスコトゥスがどのように規定しているかということを、ヘンリクスに対するスコトゥスの返答から再構成する。第五章では、その個体性と個体化の原理との関係を確認する。ここでは、第一部で明らかにされたしかたで獲得された諸概念が、「ポルピュリオスの木」に秩序付けられ、それらが現実に存在するものの本性とある種の対応を持ちつつも、論理学的領域と形而上学的な領域という、それぞれの独立した領域においてあることが明らかにされる。以上が形相的区別の学説を解明するための準備作業である。
 第六章では、形相的区別とは、概念と実在との対応関係を構築するために持ち出された概念である、と結論付けられる。より詳しく言えば、形相的区別とは、同一主語に関する相異なる命題の真理性を確保するために導入される区別であり、命題の主語や述語といった項となる概念の実在における対応者が、それらの概念間の構造を保持したしかたで存在する、ということを保証するものである。こうして、概念と概念とを結び付けることによって構成される命題が真であるのは、その命題の構成要素となっている概念の実在における対応者である「形相性」が、その命題の構造を保存するようなしかたで存在することによるのである、という解釈が提示される。
 第七章は、附録的な章であり、こうした形相的区別に関して寄せられた研究史上での疑義を晴らすことを目的としている。つまり、Cross の主張に反論し、スコトゥスの形相的区別の学説には、執筆時期による変化ないと主張する。以上でスコトゥスの形相的区別の学説が明らかになった。
 以上の本論文の成果によれば、形相的区別は、論理学的な領域で真なる命題(とりわけ第一のしかたで自体的な命題)が確保されたならば、その命題を実際に真にしている形而上学的な構造が存在する、ということを主張するものである。こうして、「論理学的な領域での諸概念の関係についての探求を通じて、実在するものの構造についての形而上学的な探求が遂行される」という論理学的形而上学の可能性がスコトゥスの哲学の体系において確保されるのである。
 最後に結論として、以上の全成果をもってスコトゥスの共通本性論を明らかにすることが試みられる。第八章では、形相的区別という概念の一つの適用例として、先行研究でも謎が多く残されていたスコトゥスの個体化の問題を取り扱った。形相的区別の学説のもとでスコトゥスの個体化の原理を解釈する場合、彼が個体化の原理として提示する「個別的事象性」とは、まさに「……は個別者である」という命題を真にしている実在的な要素である、ということになる。これは、「知性はそうした〔個別者を構成する〕存在性を作り出すのではなく、むしろ、白色光線にプリズムが働きかけるように、個別者をその本質的な構成要素へと分析するのである」という Marmo による印象的な比喩によっても表現されているように、形相的区別の学説に基づいて理解される個体化の原理とは、人間知性を通じての論理学的形而上学的な実在分析の成果であると結論付けられるであろう。
 さらに、個体化に関するスコトゥスの共通本性論が有する哲学史的な意義について触れておこう。スコトゥスの個体化の問題に関する第八章での成果を踏まえると、スコトゥスは、とりわけ『形而上学問題集』において「個別者の本質」を積極的に認めることによって、個体化の原理を絶対的な共通本性の領域で議論することが可能になった。これは一見すると、スコトゥスのカテゴリー論的形而上学は、アリストテレス‐トマス的なカテゴリー論的形而上学に、僅かに〈個別者〉という項を追加したものに過ぎない。しかしながら、その僅かな改変は、同時にアリストテレス‐トマス的な形而上学的な枠組みを乗り越え、個別者についての本質や学知についての考察の可能性を拓くことに繋がったのである。
 最後に第九章では、論理学的領域と形而上学的領域とを、いわば架橋するために共通本性という概念が導入されている、と主張される。スコトゥスの哲学において、認識論や形而上学は、それぞれに固有な概念によって、固有なしかたで構築されており、それぞれに個別の領域を形成している。しかしひとたび認識論的な正当性や論理学的な真偽の問題を考えると、それらは認識論や論理学というそれぞれの領域だけでは説明できず、必ずそれらの領域を超越することが求められる。その際、共通本性の概念は、足場や建築の基礎のようにして働いている。つまり、形相的区別の学説によって確保された論理学的形而上学という方法は、論理学的領域における概念も、形而上学的領域に実在する事物も、いずれもそれぞれの領域における共通本性の現れである、ということによって保証されていると言える。つまり、論理学的な領域における概念分析は、概念を通じての共通本性の分析であり、そのことによってさらに実在的な対象についての形而上学的な分析となるのである。