本研究は、現代英語圏哲学における道徳批判の主題を検討するものである。本研究は、道徳批判のプロジェクトが成功するための条件を検討し(第一部「批判的方法論」第一章)、そのもとで道徳批判の具体的な論点の数々を擁護するとともに(第二部「道徳批判」第二章-第五章)、道徳批判を支えつつ新たな価値の創造を理解するための方法論を示す(第三部「創造的方法論」第六章-第七章)。
 序章では、先行研究を整理するとともに、本研究の方針を位置づける。まず、道徳批判の先行研究を、形而上学的批判と実践的批判のふたつに区別しつつ、実践的批判に定位する。そのうえで、検討すべき実践的批判の三類型を導くとともに、そのどれについても、批判の射程——広範な道徳文化を批判しているか——と、道徳の有益性テーゼ——道徳は多くの人間にとって有益ではないか——が問題になってきたことを示す。
 第一章「道徳批判とは何か」では、道徳批判の類型学を示す——道徳批判の三つの類型の主張を分析するとともに、それらを、道徳批判の根拠、対象者、積極的実践の三つから評価する。第一に、完成主義的批判——生の繁栄と道徳は衝突する——は、その根拠を客観的善としての繁栄に訴えるものだが、その対象者と実践において、いかなる解釈を取ったとしても、有益性テーゼの問題に突き当たる。第二に、イデオロギー批判——道徳は有害な錯誤である——は、その射程が問題になる。あらゆる道徳を批判する場合、資本主義の道徳的批判が可能であるように、道徳それ自体は有益でありうるという有益性テーゼと衝突する。第三に、前者ふたつとは対照的に、有意味性による批判——現状の道徳の理解は道徳としての眼目を外している——は、まさに有益性テーゼへの応答を含んでいる点で擁護される。有意味性による批判のような、道徳そのものの眼目による道徳の批判を、本研究は内在的批判と呼ぶ。内在的批判は、有益性テーゼへの応答を含む点で、繁栄といった道徳外の価値によって道徳を批判する外在的批判に対して、優位性をもつ。かくて本研究は、内在的批判を検討する。
 第二章「道徳理論批判」では、不偏的道徳理論に対する批判を擁護する。インテグリティによる異議、ひとつ余計な思考による異議という、ふたつの道徳理論批判が示すのは、個人的価値の絶対性を主張するような粗野な個人主義ではなく、むしろ、不偏的視点による道徳理論が、行為者性を適切に理解せず、それゆえに道徳についての十全な理論となっていないという内在的批判である。この批判は、「反省と実践の区別」の反論を招くが、それは、行為者性の考慮(実践の考慮)が観察者による反省にも及ぶことを示すことで、応答できる。本章は、そのうえで、来たるべき道徳理論のプログラムを構想する。そこでは、行為者性を分析する道徳心理学、その一部門としての徳倫理学、そして、行為者による事実の記述——厚い概念や歴史的に相対的な概念の使用を含む記述——の重視が擁護される。
 第三章「イデオロギーとしての道徳」では、イデオロギーによる道徳批判を擁護する。道徳が利益を追求する能力そのものを剥奪するとき、それを遵守することは錯誤であり、真の利益に適っていないようなイデオロギーである、と本章は分析する。かくて、価値を変革・創造する能力を剥奪するような道徳は、それが利益を追求する能力を失わせる点において、イデオロギーである。そして本章は、イデオロギー道徳として、既存の価値構造を前提とした個人の主観的福利の最大化を目指す効果的利他主義を批判する。道徳は、構造そのものの問題を道徳の埒外に置くものではない——構造を前提とした幸福をただ追求するものではない——のである。
 第四章「モラリズムについて」では、過剰な道徳性とされるモラリズムの文化について、その内実と問題を検討する。モラリズムは、他者への過剰な道徳的介入として理解されるか、あるいは、道徳的評価を他の形式の評価に対して優越させるありようとして理解されてきた。本章は、後者の優越こそがモラリズムの基盤的問題であることを論証する。モラリズムの問題は、道徳的評価の優越によって、協調と繁栄といった価値を抑圧することに帰着する。かくして、他の価値の位置を、道徳的価値とは独立に認めるかぎり、モラリズムによる道徳の理解は内在的に批判されるのである。
 第五章「生の誤解としての道徳」では、近代道徳の典型的な理解である道徳システムに対する批判を擁護する。道徳システムは、自発性へのコミットメント——非難可能性において自由意志を前提とするような思考——である。このコミットメントが広く道徳文化を構成すること、そしてそれが、協調を確保するような非難実践の眼目を挫いてしまうこと——本章は、このふたつを示すことで、道徳システム批判の射程と眼目を根拠づける。
 第二部(第二章-第五章)において、一貫して問題とされるのは、評価の様式としての道徳である。道徳的評価の理論としての道徳(第二章)。価値の構造を評価する理論としての道徳(第三章)。道徳的評価と他の評価形式との関係(第四章)。道徳的評価の条件と眼目(第五章)。道徳とは、ある種の評価の様式であり、内在的道徳批判が否定するのは、その評価様式における、不偏性(第二章)、価値変革能力の剥奪(第三章)、優越性(第四章)、運を超越する公平性(第五章)である。そうであるとすれば、第二部における道徳の内在的批判が示したのは、以下のことである——道徳的評価が意味をなすのは、それが、行為者性を適切に考慮すること、価値変革能力を担保すること、他の形式の評価の価値を理解すること、協調に寄与するという自然主義的眼目をもつことによってである。こうした条件を無視するような道徳の理解は、道徳的評価の眼目を外しているのである。
 第六章「自然主義と系譜学」では、ヒュームとニーチェのテクストから、ウィリアムズによる解釈を経由しつつ、自然主義の方法を取り出す。ウィリアムズによれば、ヒュームとニーチェの道徳哲学は、道徳的動機を前道徳的動機によって理解する自然主義のプロジェクトとして理解することができる。自然主義のプロジェクトは、道徳の理解を反省に耐えうるものへと鍛え上げるものである——例えば、義務や非難を、人間の行為や欲求についての反省的理解と両立させるような仕方で理解しつつ、それらがもつような協調の眼目を示すことで、そうした制度への自信を涵養できるのである。そして、自然主義は、系譜学の方法——概念を機能的に把握しつつその歴史的展開を記述する方法——を採用することで、還元主義や発生論的誤謬に陥ることなく、眼目を外した道徳の理解を内在的に批判しつつ、眼目と結びつきをもつ道徳の理解への自信を育てるような方法となる。
 第七章「生活形式の戦略」では、あらゆる価値の意味を生活形式の問題として理解しつつ、そこから静寂主義でなく、現状の生活形式の批判を導くウィトゲンシュタイン左派の方法を擁護する。後期ウィトゲンシュタインは、価値の意味についての反省が、われわれの実践——生活形式——の理解に行き着くという洞察を示した。ここからしばしば導かれる立場は、ある種の静寂主義である——生活形式はそれぞれの共同体において相対的に独立のものであり相互に批判できないばかりか、ひとつの生活形式の内部ですら、それを哲学的に批判することは意味をなさない。本章は、かかる静寂主義が、ウィトゲンシュタイン派として不徹底であるということを示す。生活形式は、ひとつの有機体ではなく、その反省がつねにその内部の衝突の理解を含むようなものだからである。生活形式の哲学的反省は、自然主義的眼目をもつ理解、あるいは、より歴史に忠実であるような理解を、そうでない理解から腑分けするという点で、批判的にはたらくことが可能なのである。
 第三部のふたつの章は、道徳の内在的批判を支えつつ、新たな道徳の創造の方向を指し示すような方法論となる。第一に、自然主義は、内在的道徳批判において問題があるとされた道徳の理解を退け、そこで肯定された道徳の理解——例えば協調や繁栄といった価値を担保するものとしての道徳——に対して、われわれが自信を涵養すべき根拠を示す。そうした道徳の理解が肯定されるのは、端的に言って、それらが眼目をもち、歴史的に意味をなすという点で、反省に耐えうるものだからである。自然主義とは、道徳が反省に耐えうる仕方を開示する方法である。第二に、ウィトゲンシュタイン左派は、われわれが自然主義を武器とすべき根拠を示す。道徳を前道徳的眼目や歴史的経験によって自然主義的に理解すべきであるのは、われわれの価値の意味が、生活形式——日常的実践と歴史的経験——の産物に過ぎないからである。道徳の理解が、実践と歴史に依存するものであるならば、われわれに可能であるのは、それをなるべく広い実践と結びつけつつ、なるべく歴史に忠実な仕方で理解することである。そうした自然主義的分析を怠って道徳を理解しようとすることは、たんに道徳を反省に対して脆弱にするだけでなく、静寂主義的現状肯定を導くのであり、そこでは、よりよい道徳が決して得られなくなる。かくて、生活形式の洞察によってこそ、道徳の自然主義的分析と、それに基づく歴史的な系譜学的探究が、道徳の批判的反省の方法論となるのである。
 終章では、本研究の成果を振り返りつつ、道徳批判の創造的帰結として、徳の倫理学があることを示し、マッキンタイアによる徳の理解——徳のコミューンの建設による道徳の創造という革命的可能性を導く理解——をウィトゲンシュタイン左派的実践として評価する。ただし、本研究はそこに、ひとつの注釈——コミューンの建設に物語は必要ない——を加える。