本博士論文では、初期新デンマーク語 (Early Modern Danish; 1500–1700年頃) の代名詞目的語に着目して、その語順に関する調査結果を示し、通時的観点から分析を行う。代名詞目的語の位置を記述するにあたっては、定動詞・非定動詞並びに中域副詞 (節の最初でも最後でもなく、中央付近に置かれる副詞句) との位置関係に着目する。語順の通時的変化の分析にあたっては、生成文法の手法を用いる。
 現代デンマーク語では語順の自由度が低い。目的語についても、常に動詞に後続する。中域副詞を含む節では、通常中域副詞にも後続するが、限定的な条件下でのみ異なる振る舞いをする。すなわち、非定動詞 (複合的な動詞形式の一部となる不定詞や過去分詞) を含まない定動詞第2位の節 (主節) において、目的語が非強勢の代名詞であれば、その目的語は中域副詞に先行する。この規則は軽要素規則 (Light Element Rule) と呼ばれる。それと比較して、現代デンマーク語の一つ前の時代区分に当たる初期新デンマーク語では、より語順の自由度が高い。目的語、とりわけ代名詞目的語の位置についても同様であり、動詞の後ろだけでなく、前にも置かれうる。このように、現代デンマーク語において限られた条件のもとでのみ観察される代名詞目的語の振る舞いを出発点とし、本博士論文では、初期新デンマーク語における代名詞目的語の位置を調査し、その語順にまつわる規則と、現代語につながる通時的変化について分析する。
 本博士論文の意義について、初期新デンマーク語の統語論に関する新しいデータを提供し、現代語にもつながる代名詞目的語の位置について論じることで、歴史的観点からデンマーク語統語論研究に貢献する。また、英語・ドイツ語や現代北ゲルマン諸語といった研究が比較的豊富なゲルマン諸語に比して、研究が手薄な初期新デンマーク語のデータと分析を提供することで、ゲルマン語歴史統語論の分野への貢献も期待される。
 初期新デンマーク語の代名詞目的語の位置およびその史的変遷は生成文法の手法によって分析される。議論の中心となるのは、広く生成文法の分野で議論されてきた目的語転移 (Object Shift) とかき混ぜ (Scrambling) の現象であり、通言語的な枠組みから代名詞目的語の移動と通時的変化に説明を加えることで、一般言語学的な寄与も期待される。
 以下、章ごとに本博士論文の概略を述べる。第1章は導入である。第2章では、前提知識となるデンマーク語の歴史的発展について記述する。具体的には、政治・文化・社会的発展との関連に基づきつつ、デンマーク語の時代区分を導入する。また、先行研究を踏まえ、現段階で記述が行われているデンマーク語の形態統語論的特徴について時期ごとに (現代語も含め) 概要を示す。第3章では、調査対象となる初期新デンマーク語の代名詞目的語の語順を理解するために必要な節内の諸要素と文法現象について記述する。第4章では、代名詞目的語の語順の調査にあたって用いた資料や、具体的な方法について述べ、調査の概要を示す。そして以下の章では、調査結果と分析内容を示している。
  第5章では、代名詞目的語と動詞との位置関係に着目して調査した結果を示す。調査では、動詞が目的語に先行するVO語順と目的語が動詞に先行するOV語順と、それぞれが代名詞目的語を含む節においてどれほどの割合で見られるのかを計数して調査した。結果、初期新デンマーク語においてはVO語順もOV語順も共起するが、V2/V1節ではVO語順の頻度が圧倒的に高かったのに対し、従属節ではOV語順の頻度も比較的高いことを示した。また、従属節内の語順はテキストのジャンルごとに異なる様相を呈する。具体的には、法律文書や公的な手紙ではよりOV語順の頻度が高いのに対し、より口語に近いと考えられるテキストではVO語順がより多く見られ、OV語順の例は固定化された表現である可能性があることを論じた。
  第6章では、中域副詞を含む節のみに絞り、代名詞目的語と動詞・中域副詞との位置関係に着目して調査をおこなった結果を示す。調査結果の提示においては、節の種類 (V2/V1節か従属節か) と、中域副詞が定動詞に先行するか後続するかで便宜上節の種類を分けた。これは、語順のバリエーションがまだ比較的豊かであった初期新デンマーク語における代名詞目的語の位置を記述するにあたって、それ以外の要素の位置を固定することで記述を明確にするためである。調査の結果、代名詞目的語が中域副詞に関係なく動詞に後続する例が多く見られた一方で、代名詞目的語が節内で動詞より前に置かれる場合には、原則として中域副詞にも先行することを示した。つまり、中域副詞に代名詞目的語が後続する例はほとんど見られない。これは現代語と異なり、非定動詞の有無に拘らず当てはまる。この語順が現代語の軽要素規則のもとになったと考えられるが、現代語ほど中域副詞に先行する際の制約は強くなく、代名詞目的語の位置のバリエーションはより大きい。
 第7章では、ここまでの調査結果を踏まえ、生成文法の手法を用いてより通言語的な枠組みから分析をおこなった。つまり、生成文法の枠組みのもと、基本語順を想定し、要素の移動という現象を通じて、語順を記述する。まず第一に、前提となる基本語順に関する考察を示した。一貫して主要部先頭のTPとVPをシステムとして持つ現代デンマーク語と異なり、初期新デンマーク語では主要部先頭・主要部末尾両方のTPとVPが存在したと分析できることを提示した。第二に、目的語転移とかき混ぜの違いについて論じ、初期新デンマーク語には目的語転移だけでなく、かき混ぜも存在したことを示した。すなわち、目的語転移は動詞の移動を伴わなければならない、という一般化がHolmberg (1986) によってなされ (Holmberg’s generalizationと呼ばれる)、これは現代デンマーク語をはじめ、現代アイスランド語など他の言語にも当てはまるものである。それゆえ、この条件は目的語転移の分析において重要なものと扱われている。しかし、初期新デンマーク語においては、前置された (動詞に先行する) 目的語の中にはそれに従わない例も多くあることから、初期新デンマーク語の時期にはかき混ぜが存在したと分析した。これらの分析に基づくと、現代デンマーク語の厳格な語順に対して、初期新デンマーク語がより柔軟な語順を持つ事実を説明できる。
 第三に、現代デンマーク語において目的語転移が保持されている一方で、かき混ぜが消失した要因について論じた。その議論にあたっては、Fox and Pesetsky (2005) によって提唱された循環的線形化における語順の保存という概念を用いて説明をおこなった。すなわち、初期新デンマーク語では主要部先頭のVPからの目的語転移後もV < Oという語順が保持されている一方で、かき混ぜにおいては主要部末尾のVPからの移動が起きているとみなすことでO < Vの語順が保持されていると言え、循環的線形化における語順の保存に反しない。それに対し、現代語では主要部末尾のVP (基本語順OV) が完全に消失し、初期新デンマーク語において可能であったかき混ぜも、語順の保存に反するようになったことで消失した。
 これらに加えて、[Focus] (焦点) の素性が代名詞目的語の位置に関わることも提示した。というのも、代名詞目的語はほとんどの場合中域副詞の前に現れるが、中域副詞の後に代名詞目的語が現れる少数の例では、代名詞目的語が対比等のために焦点化されていると見られるためである。
 そして最後に、目的語の位置に関わる統語現象をまとめて取り上げ、その変化を考察した。(1) 現代デンマーク語では主要部パラメータに関して、TPとVPが主要部先頭で固定化され、かき混ぜの消失に至った。 (2) 従属節において、VからTへの定動詞の移動が消失した。 (3) 主語位置が空所である節において目的語を節の左側に移動させうる文体的前置という現象も消失した。これらの統語変化の結果として、現代デンマーク語においては語順の規則がより厳格なものになったと結論付けた。
 第8章は結論である。