本学位請求論文(以下、本論文)は、院政期中葉に東大寺で活躍した珍海(1091~1152)の浄土教説を、その浄土教関連の主著『決定往生集』を中心に考察するものである。
 珍海は三論宗の学僧であるとともに、真言行者あるいは画僧としても活躍し、さらには浄土教信仰を鼓吹するなどの多様な活動を行った人物である。『決定往生集』は1142年に完成した珍海の浄土教関係の主著である。『決定往生集』では「十門」、すなわち十種にわたる「決定往生」の理由を示して、十信という菩薩の階位の最下位にも入れないような劣った機根、すなわち劣機であっても、この生を終えてすぐ次の生に極楽に生まれることができると主張する。
 また珍海は晩年にも、浄土教関連の著作として『安養知足相対抄』(以下『相対抄』)(1146)を撰述している。珍海は『相対抄』で、安養と知足、すなわち極楽浄土と兜率天について、その優劣および往生の難易を比較して、弥勒信仰に対する阿弥陀仏信仰の優位性を詳細に論じている。
 1950~1970年代の浄土教史・浄土教理史研究では、『往生要集』を日本浄土教の礎とするとともに、法然や親鸞を浄土教理の到達点とする視座から、珍海を単に源信と法然(1133~1212)を繋ぐ媒介者、あるいは『往生要集』の亜流などとして位置づけてきた。一方、その後1980年代頃より、法然や親鸞を浄土教理の到達点とする視座から教理史研究を行うことへの批判が行われるともに、『決定往生集』『相対抄』の教説の内容および出典を詳細に解明する個別的研究が進められてきた。このような『決定往生集』『相対抄』の内容に焦点を当てる個別的研究が進んだことの、研究史上における意義は大変大きい。しかし個別的研究が進んだ反面、浄土教理史における珍海の教説の独自性およびその思想的意義などについては詳細に検討されてこなかった。その結果、1950年代以来の珍海に対する源信と法然の橋渡し、あるいは『往生要集』の一派生形という位置づけについて、それに代わる新たな視座からの珍海の再評価および浄土教理史における位置づけは行われていない。
 しかしながら『往生要集』の後、珍海において浄土教理はいかなる展開を見せるのかという観点から見ると、珍海は浄土教理史において特徴的かつ画期的な業績を残した人物であり、その教説は決して単なる『往生要集』の一派生形ではないと考えられる。本論文では、浄土教の教理的諸問題をめぐる珍海の教説の特徴やその背景、ならびに珍海が『決定往生集』で全体としていかなる教理体系を構築しているのかを仔細に明らかにすることを通じて、浄土教理史における珍海の思想的意義を再評価するとともに、平安中期から院政期にかけての浄土教理史について新たな視座からの見直しを行った。
  本論文では第一部で珍海の教説の成立背景を検討した上で、第二部で珍海の教説の内容およびその特色を論じた。
 第一部第一章では、『決定往生集』『相対抄』の書誌的整理を行った。
 第一部第二~四章では、『決定往生集』の成立背景として、珍海がいかなる状況に置かれていたのかを考察して、『決定往生集』の成立背景には次の三種の要素があることを指摘した。①平安中期以後、輪廻を経て三生以内に往生するという三生往生説が流布し始めるが、その一方で院政期の貴族社会ではこの生を終えた後、輪廻を経ずにすぐに往生すること、すなわち順次往生が強く願われるようになる。それと同時に、自身は順次往生し得るのかという疑いを持つ者も多くいた。②院政期の阿弥陀仏信仰者の中には、自身が今行っている修行で往生できるのかなどの往生および往生行についての疑いや不安を持つとともに、自身が煩悩や罪業をそなえた劣機である自覚する者も多くいた。③『往生要集』の後、平安中期から院政期にかけて弥勒信仰側の議論が展開を見せて、阿弥陀仏信仰に対する新たな批判が行われる。この三点が相互に関わることで、珍海の周囲には極楽への順次往生は難しいと見なして自身の往生に不安を持ったり、弥勒信仰に移ったりする者が多くいた。珍海の教説はこのような状況に呼応する形で示されたものであると考えられる。
 第二部第一章では、『決定往生集』の構成および主題について論じ、①珍海が『決定往生集』で順次往生に焦点を当てていること、および②珍海は順次往生の容易性を「十門」という複数の根拠によって示して、それによって周囲の人々における順次往生の可否への疑惑を除こうとしていることの二点を指摘した。
 第二・三章では珍海の機根に関する所説を検討し、①『決定往生集』では一貫して劣機の往生に焦点を当てていること、ならびに②珍海は単に劣機のみではなく、謗法という重い罪を犯した決して救われ難い機根の往生にも着目していることの二点を指摘した。
 第四・五章では『決定往生集』における往生の果をめぐる議論について考察し、①珍海が西方浄土が仏土として劣る土であることに着目して、それを根拠として劣った機根であっても西方浄土には必ず順次往生できると論じている点、かつ②珍海が専一に西方浄土に向けて修行することのできない雑修者が堕ちる国土である懈慢界を西方浄土の内に取り込むことで、疑いの心を持つ者や雑修を行う者であっても順次往生し得るという新たな主張を行っている点の二点を指摘した。
 第六~九章では珍海における往生の因をめぐる議論について考察し、『決定往生集』では①過去世における多大な善根は不要であり、②自身の往生を願えばその心が菩提心となり、③日常行う十念が決定業となるとともに、④称名念仏の一行によって種々の利益および一切の善行の功徳を得られるという4種の教説を示していることを指摘した。すなわち珍海はこうした四種の教説を通じて、単に願往生の心を発して称名念仏をするという劣機にも実践可能な修行を行えば、誰もが往生の因を成就し得るという独自な主張を行っている。
 第十章では、『決定往生集』における他力説について検討を行い、珍海が『決定往生集』で、仮に劣機であったとしても他力の作用を受けることによって容易に往生の因を成就し、かつこの生を終えてすぐに往生を得られると主張していることを指摘した。
 第十一章では、『相対抄』における阿弥陀仏信仰・弥勒信仰をめぐる議論について考察して、珍海が『相対抄』で『往生要集』の後の弥勒信仰者からの阿弥陀仏信仰批判を意識して、それに呼応する形で、新たな観点から阿弥陀仏信仰の優位性を主張していることを指摘した。また珍海はこのような独自な議論を行う際に、4年前の『決定往生集』で示していた教説を積極的に用いている。すなわち『決定往生集』の教説は、珍海の晩年『相対抄』で、弥勒信仰に対する阿弥陀仏信仰の意義を示す際にも活用されている。
 以上のように『決定往生集』における往生の果・因・縁に関する議論およびその特色や背景を全体的に考察した結果、珍海が『決定往生集』で一貫して常没の凡夫に焦点を当て、そのような劣機が容易な実践行を行い、かつ他力のはたらきかけを受けることによって、低位の浄土に順次往生するという、機・仏土・実践行・仏力などの全てが対応する教理体系を構築していることが明らかとなった。また珍海はこのような劣った機根に焦点を当てる独自な教理体系に基づき、常没の凡夫、あるいは疑惑者や雑修者、ないし謗法者をも含む様々な機根が容易に順次往生し得ることを主張する。劣機の順次往生を体系的に論ずることは、珍海以前の日本浄土教では行われていない。これは珍海の画期的な業績である。
 院政期には三生往生説の流布、あるいは阿弥陀仏信仰者における下品の自覚や実践行に関する不審、あるいは弥勒信仰者からの阿弥陀仏信仰批判などの複数の要素が関わる中で、西方浄土への順次往生は困難であると見なして、自身の往生に不安を抱く人々が多くいた。珍海はそのような周囲の状況に呼応する形で常没の凡夫であっても順次往生し得る理論、いわば凡夫往生論を体系化して、機根の優劣を問わずに順次往生の可能性を開いたと考えられる。法然や親鸞以前の日本で最初の凡夫往生論の提唱者として、日本の浄土教理史における珍海の思想的意義は大きい。
 また院政期には、珍海以外にも、天台・真言・華厳などの各宗派において複数の僧侶たちがが、積極的に新たな教説を示して、仮に機根が劣るとしても順次往生し得ると主張している。すなわち院政期は単なる『往生要集』と法然の媒介などではなく、院政期こそが日本において浄土教理が新たな展開を見せ始める変革期である。特に『決定往生集』は劣機の順次往生の容易性を示す教理体系を構築している点において、その典型となる文献であると考えられる。