浅井了意(?~一六九一)は、江戸時代前期に活躍した仮名草子作家であると同時に、数多くの通俗仏書を著した浄土真宗の僧侶でもあった。了意の著作は仮名草子と通俗仏書に大別され、従来、仮名草子作品の研究が活発に行われてきた。その一方で、了意の仏書と仮名草子を統一的に把握し、その思想的連関を体系的に論じた研究は十分とは言えない。了意の文学世界を正確に理解するためには、彼の仏教思想と文学作品との有機的な関連性を明らかにする必要がある。
 本論文は、このような研究の現状を踏まえ、了意の仏書と仮名草子を総合的に検討し、その思想と文学的展開の全体像を明らかにすることを目的とする。具体的には、仏教の厳格な因果律を思想的基盤としながらも、それだけでは割り切れない人間の情念や社会的規範との葛藤を織り込むことで、単なる教化文学を超えた多層的な文学世界を構築した様相を、以下の三点を軸として考察する。
 第一に、仏書、特に『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経注解』に着目し、典拠の利用や改変のありさまの分析を通じ、その執筆意図と仏教者としての立場を明らかにする。
 第二に、仏書と仮名草子に共通する主題(産死観、放逸無慚観、身体観)を取り上げ、両者を貫通する了意独自の思想的連続性を検証する。
 第三に、代表作『伽婢子』において表現される異界(仙境、夢、蘇り)の分析を通じ、現実と非現実の交錯の中に描かれる人間の有り様を多角的に検討する。
 なお、本論文で用いる「執筆意図」は著作の執筆から版行に至るまでの全般的な動機や目的を指す。「主意」は作品の核心的なメッセージ、「作意」はそのための具体的な創作上の方法や仕掛けを指す。
 本論文は三章九節から構成される。
 第一章「仏書における了意の作意とその展開」では、代表的な仏書である『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経注解』を分析し、そこに込められた了意の著述意図とその思想的背景を考察した。第一節では、趙文昌説話の典拠である『帰元直指集』等の文献を比較検討することで、五逆罪の報いだけでなく、追善供養による救済を説くという原典『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』の大意を、了意がいかに効果的に読者に伝えたか、その作意を明らかにした。第二節では、庾信説話における「口過」の分析を通じ、了意が単なる美辞麗句(綺語)の問題を、仏法を誹謗する「妄語」という口業の罪へと転換させ、その報いとして異類への転生という因果を説いた点に、了意の主意を見いだした。第三節では、王荊公説話を中心に、儒教の倫理観と仏教のそれとを交錯させつつ、「貪欲」という意業の罪を具体的に描き、巻二の説話群全体が五逆と三業(身・口・意)の罪と罰という因果応報を読者に説こうとする構成であることを明らかにした。この一連の分析を通じて、了意が単に中国の説話を日本に移した翻案家ではなく、時には原典の矛盾を修正しつつ、読者である民衆の宗教観や倫理観に合わせて「因果」ひいては「救済」という仏教の核心的な教義を強く伝えようとした、優れた通俗的仏教思想家としての一面を持つことを浮き彫りにした。
 第二章「仮名草子における了意の思想と仏教的背景」では、第一章で確認した仏書の思想が仮名草子においていかに展開されるかを論じた。第一節では、『戒殺物語・放生物語』と複数の仏書に繰り返し用いられる主題である「産死」に着目し、産死を殺生の悪報と捉える思想的共通性が、各作品の性格(罪の断罪、滅罪、教訓)に応じて異なる趣旨で書き分けられていることを分析した。第二節では、「放逸無慚」である人物像の考察を通じて、仏書と仮名草子双方で、「放逸無慚」であることが、人間性が欠如し人ならぬものへと堕ちる原因として機能していることを明らかにした。第三節では、梁元帝説話においては、「眇目(隻眼)」という身体的特徴が、「諸根不具の存在」、つまり「異類」として生まれるという仏教的身体観と因果観の象徴として描かれていることを考察した。これらの分析は、了意にとって仮名草子が単なる娯楽小説ではなく、仏書において示した思想を、人間の苦悩と葛藤の形で描き出す実践の場であったことを示している。仏書や仮名草子に通底するこうした了意の視線は、彼の確固たる思想的立場を証明するものである。
 第三章「仮名草子における現実と異界」では、第二章で確認した了意の思想的特質が、代表作『伽婢子』において、いかに深化し、多層的な文学世界を構築しているかを考察した。具体的には、『伽婢子』を対象として、現実と異界の関係性の分析から人間の捉え方を明らかにした。第一節では、「伊勢兵庫仙境に到る」を分析し、道教の仙境、仏教の補陀落、記紀神話の常世の国という三つの異郷のイメージを重ね合わせる作意と、異界体験がもたらす現実の断絶と無常観を描き、救済されえない人間の姿を考察した。第二節では、夢中怪異談を「実の夢」と「虚の夢」に分類し、夢が人間の情念や宿命を現出させる通路であると同時に、無常を悟り宗教的救済へと導く契機としても機能することと、その一方で、人間の限界を浮き彫りにする装置としても用いられていることを論じた。第三節では、二つの幽霊女房譚を比較し、死者の〈蘇り〉という不可解な現象に対し、死を穢れとする社会的規範と、個人の情愛とが衝突・葛藤する様を描き出したことを明らかにした。『伽婢子』におけるこれらの異界・怪異の描写は、単に奇異な物語を紹介するのではない。それは、理想郷と現実との乖離、夢に見る情念の成就と破滅、そして死者をめぐる情愛と禁忌といった、人間が普遍的に抱える内的矛盾や社会的規範の衝突を映し出す装置として機能している。了意は、非現実的な空間を通して、現実が持つ厳しさと、そこに直面する人間の限界という問題を描き出しているのである。
 本論文では、浅井了意の仏書と仮名草子を総合的に分析し、その思想的基盤と文学的展開の全体像を究明することを試みた。その結果、了意文学の核心には、仏教的な因果律という厳格な世界観と、それだけでは割り切れない人間の情念や社会的規範との間に生じる緊張と葛藤、すなわち「多層性」が存在することが明らかになった。
 第一章で論じたように、了意は仏書において、五逆や三業といった罪と、それに相応する果報の必然性を体系的に説き、自己の文学世界においても仏教的因果律という確たる思想的基盤が存在することを提示した。しかし第二章で確認したように、その思想は仮名草子において、単なる教理にとどまらず、産死、放逸無慚、身体の不具といった、個人の生きざま――悲劇と苦悩を映し出す表現手段として機能していた。
 そして第三章で分析した『伽婢子』では、仙境、夢、蘇りといった非現実的な空間において、現実の秩序では捉えきれない無常観、愛執、宿命といった人間の普遍的な問題を浮き彫りにする了意独自の世界観が表現されていた。すなわち、彼の作品における登場人物たちは、因果律によって裁かれる一方で、その運命に苦悩し、時に抵抗する。
 結論として、浅井了意の文学は、厳格な仏教的倫理観に根ざした世界と、人間の内奥を深く見つめる視点とがせめぎ合うことで、多層的な魅力を生み出していると指摘できる。このようなせめぎ合いこそが、彼の文学を単なる教化の手段にとどまらないものとし、人間の普遍的な本質と、その普遍性の彼方にあるものを映し出す核心へとつながっているのである。本論文は、こうした視点からの分析を通じて、了意文学の全体像を新たに提示するものである。本研究が提示した、仏教思想と人間観の交錯による「多層性」の表現という観点は、今後、了意と同時代の仮名草子作家との比較、ひいては後代の他の仮名草子作家への継承、近世における思想の文学への影響と受容を考察する上で、有効な枠組みとなるだろう。