本博士論文は、室町幕府が朝廷・権門寺社との間で、いかにして支配関係を構築したのかを明らかにするものである。その際、特に幕府の公家・僧侶身分の仲介者を介した支配・統制という仕組みに着目して検討を進める。
まず第一部「室町幕府の朝廷・寺社支配の成立過程」は、室町幕府の朝廷・寺社支配の並列的進展に留意しつつ、その成立過程を明らかにする。
第一章「室町幕府における武家祈禱体制の確立過程」は、室町幕府が京都に所在する門跡を、武家祈禱に編成する過程を検討するものである。室町幕府は、当初鎌倉幕府の先例踏襲を基本方針としたため、鎌倉幕府祈禱の参加者を用い、鎌倉幕府の先例に依拠して武家祈禱を行った。しかし観応の擾乱とその後の京都争奪戦において、幕府は自らに忠節を尽くした門跡を武家護持僧に任じ、武家祈禱を勤修させるようになった。さらに義満期には京都の門跡全体を武家祈禱に編成し、武家護持僧と諸門跡という二つの枠組みに基づく室町期武家祈禱体制を確立させたことを論じている。
第二章「南北朝・室町期の公武交渉」は、中世公武関係論で前提視されてきた「関東申次から武家伝奏へ」という理解への疑問を起点として、鎌倉期・室町期における公武関係の質的な変化を示したものである。具体的には、朝廷と幕府という組織間の制度的な交渉に介在する関東申次・武家執奏とは別に、南北朝期の将軍・管領と治天を内々に取り次いだ存在として醍醐寺三宝院と治天近臣に着目する。そして義満期に公武交渉の仲介者から武家執奏と三宝院が脱落すると、義満と後円融上皇の双方と密接な関係を持つ近臣公家が、内々の公武交渉に携わるようになった。そうした内々の公武交渉に介在する公家の立場は、義持~義教期に至って伝奏の職務として制度化されることで、武家伝奏を介した公武交渉というあり方が形成されていくことを見通している。
第三章「室町期型朝廷公事用途支出方式の成立過程」では、幕府が朝廷公事用途の管理・支出を担当する公武共同執行方式の成立過程を検討する。公武共同執行方式とは、朝廷公事の必要経費(公事用途)が儀式伝奏と幕府政所を介して、幕府用脚を管理した公方御倉から支出される制度を指す。同方式は、公武の人員の協働により公事用途が支出される点が特徴的だが、そうした制度がどのように成立したのかはこれまで論じられていない。そこで第三章では、南北朝期における朝廷の公事用途管理方式や、幕府の公事用途納入の仕方を整理した上で、同方式の成立過程を示すことを試みた。その結果、南北朝期の朝廷公事用途は、院庁安倍氏が管理しており、幕府は院庁に公事用途を「武家御訪」として納入していた。一方で南北朝期の幕府は、公家衆の経済的困窮や後光厳流を支援する意図から、公事に出仕する公家衆へ個別に御訪を支払うこともあった。しかし義満は、公家社会への参入と、幕府の財政基盤の確立を通して、朝廷側に公事用途を納入する形を改め、幕府が公方御倉に公事用途の管理・支出を担当させる室町期型公事用途支出方式(公武共同執行方式)を整備したことを示した。
第二章・第三章は、南北朝期の公武関係が幕府自身の政治的・経済的制約に規定される形で変化していくこと、特に観応の擾乱に起因し、応安年間に顕在化した課題から、室町期公武関係が生み出される過程を論じたものとなっている。
第四章「永徳~明徳年間における足利義満の伝奏支配と朝廷政務」では、今度は義満期に的を絞り、義満の朝廷政務参加の問題を考察する。先行研究では、義満の伝奏支配と朝廷政務主導の開始時期を、義満の仰せを奉じた伝奏奉書の発給初見と同一視して、後円融上皇の死没に画期を置いてきた。しかし実際には義満は、永徳三年の後小松天皇大嘗会に際して伝奏奏事始を行い、摂関・内覧に准拠する形で伝奏を支配したこと、それ以降は義満の仰せを奉じた職事・弁官の奉書を用いて自らの意志を示したことを論じている。
第二部「室町幕府の朝廷・寺社支配の展開過程」は、義持~義教期を中心に幕府と朝廷・寺社の関係を検討し、義満期に確立した朝廷・寺社支配の変容を見通すものである。
幕府の権門寺社支配については、南北朝期に強訴の頻発した南都北嶺との関係が注目されてきた。そこで第五章「室町幕府の興福寺統制と南都伝奏」では、南北朝期に強訴を繰り返した興福寺を統制すべく、義満が南都伝奏を介して、興福寺訴訟の処理と大和国人の紛争を抑制する制度を整備したことを示した。しかし義教期の大和永享の乱や嘉吉の乱後の大和の混乱により、幕府の興福寺統制は機能不全に陥っていく。ただし強訴対応のため南都伝奏の設置は、応仁の乱後まで継続したことを指摘している。
一方で権門寺社には、南都北嶺のような大衆や武力組織を持たないものも存在する。幕府とそうした寺社との関係を探るため、第六章「室町期東寺にみる醍醐寺三宝院の政治的位置」では、東寺と幕府の仲介者として活動した三宝院に着目した。そして三宝院は、義満期の幕府訴訟処理制度の閉鎖化に伴い、室町殿と東寺を内々に取り次ぐ仲介者として活動するようになったこと、満済・義賢の二代にわたって東寺取次を確認できること、三宝院のそうした活動は、東寺側の期待感と三宝院の東寺の庇護者としての意識のもとで成り立っていたことを明らかにしている。
第七章「室町期公武祈禱論再考」は、富田正弘氏の着目した祈禱の「伝奏奉書」で寺社に命じられる「公武祈禱」の問題を再検討する。富田氏は「公武祈禱」を治天の主催する国家的祈禱と定義し、伝奏奉書で命じられるこの祈禱を室町殿が開催したことをもって、治天に代位して「王権」を掌握したと評価している。ただし「公武祈禱」が治天の祈禱だったのか、祈禱の「伝奏奉書」の奉者は伝奏だったのかは、必ずしも明らかではない。ゆえに第七章では、「公武祈禱」と呼ばれる祈禱を、史料上の表現から「諸寺諸社祈禱」として分析を行った。そして「諸寺諸社祈禱」は、鎌倉・南北朝期の朝廷・幕府の変異祈禱としては確認できず、義持期の応永二十年代後半に武家祈禱の一類型として成立したと推定した。義持は、応永の外交や応永の飢饉といった社会不安の中で、京都・奈良の顕密寺院・二十二社に変異祈禱を命じる同祈禱を整備したのであり、それは武家祈禱の展開過程に位置づけられるものと評価できる。そして嘉吉の乱後には、諸寺諸社祈禱が朝廷の変異対応としても受容されたことも指摘する。
第八章「足利義持期の武家祈禱と三宝院満済」では、第一章で扱った義満期の武家祈禱が、義持期にどのように継承されたのかを検討する。義持は父義満とは異なり、晩年まで密教祈禱の規模縮小を基本方針としていた。そのため義持は、室町殿近習を祈禱奉行に任じ、三宝院を内々の祈禱奉行とする南北朝期と類似した形で武家祈禱を実施したと考えられる。
第九章「室町殿行事と室町期公家社会」では、将軍家の家行事を一括して取り上げ、そこにおける室町殿家司・家礼の役割を再検討した。義満以後の室町殿は、公家社会の先例に准拠して、昇進儀礼や武家八講、武家祈禱、寺社参詣といった多様な家行事を実施している。そこで本博士論文では、それらの諸行事を「室町殿行事」と定義し、共通する特徴を整理した。その結果、室町殿行事では室町期の朝廷公事と同様、公武共同執行方式を用いた用途支出がなされており、室町殿家礼の務める申沙汰が、儀式伝奏と同じ役割を果たしたことを明らかにした。さらに義教期には、公武交渉に介在する「武家伝奏」が、室町殿行事の申沙汰を一手に引き受けるようになり、室町殿行事専任の儀式伝奏として活動したことを指摘している。
終章「室町幕府による朝廷・寺社支配の成立と展開」では、南北朝期~義満期における室町幕府の朝廷・寺社支配の成立過程を明らかにするとともに、室町幕府のもとで伝奏・三宝院の果たした役割を確認し、最後に課題と展望を示して、博士論文のまとめとする。
まず第一部「室町幕府の朝廷・寺社支配の成立過程」は、室町幕府の朝廷・寺社支配の並列的進展に留意しつつ、その成立過程を明らかにする。
第一章「室町幕府における武家祈禱体制の確立過程」は、室町幕府が京都に所在する門跡を、武家祈禱に編成する過程を検討するものである。室町幕府は、当初鎌倉幕府の先例踏襲を基本方針としたため、鎌倉幕府祈禱の参加者を用い、鎌倉幕府の先例に依拠して武家祈禱を行った。しかし観応の擾乱とその後の京都争奪戦において、幕府は自らに忠節を尽くした門跡を武家護持僧に任じ、武家祈禱を勤修させるようになった。さらに義満期には京都の門跡全体を武家祈禱に編成し、武家護持僧と諸門跡という二つの枠組みに基づく室町期武家祈禱体制を確立させたことを論じている。
第二章「南北朝・室町期の公武交渉」は、中世公武関係論で前提視されてきた「関東申次から武家伝奏へ」という理解への疑問を起点として、鎌倉期・室町期における公武関係の質的な変化を示したものである。具体的には、朝廷と幕府という組織間の制度的な交渉に介在する関東申次・武家執奏とは別に、南北朝期の将軍・管領と治天を内々に取り次いだ存在として醍醐寺三宝院と治天近臣に着目する。そして義満期に公武交渉の仲介者から武家執奏と三宝院が脱落すると、義満と後円融上皇の双方と密接な関係を持つ近臣公家が、内々の公武交渉に携わるようになった。そうした内々の公武交渉に介在する公家の立場は、義持~義教期に至って伝奏の職務として制度化されることで、武家伝奏を介した公武交渉というあり方が形成されていくことを見通している。
第三章「室町期型朝廷公事用途支出方式の成立過程」では、幕府が朝廷公事用途の管理・支出を担当する公武共同執行方式の成立過程を検討する。公武共同執行方式とは、朝廷公事の必要経費(公事用途)が儀式伝奏と幕府政所を介して、幕府用脚を管理した公方御倉から支出される制度を指す。同方式は、公武の人員の協働により公事用途が支出される点が特徴的だが、そうした制度がどのように成立したのかはこれまで論じられていない。そこで第三章では、南北朝期における朝廷の公事用途管理方式や、幕府の公事用途納入の仕方を整理した上で、同方式の成立過程を示すことを試みた。その結果、南北朝期の朝廷公事用途は、院庁安倍氏が管理しており、幕府は院庁に公事用途を「武家御訪」として納入していた。一方で南北朝期の幕府は、公家衆の経済的困窮や後光厳流を支援する意図から、公事に出仕する公家衆へ個別に御訪を支払うこともあった。しかし義満は、公家社会への参入と、幕府の財政基盤の確立を通して、朝廷側に公事用途を納入する形を改め、幕府が公方御倉に公事用途の管理・支出を担当させる室町期型公事用途支出方式(公武共同執行方式)を整備したことを示した。
第二章・第三章は、南北朝期の公武関係が幕府自身の政治的・経済的制約に規定される形で変化していくこと、特に観応の擾乱に起因し、応安年間に顕在化した課題から、室町期公武関係が生み出される過程を論じたものとなっている。
第四章「永徳~明徳年間における足利義満の伝奏支配と朝廷政務」では、今度は義満期に的を絞り、義満の朝廷政務参加の問題を考察する。先行研究では、義満の伝奏支配と朝廷政務主導の開始時期を、義満の仰せを奉じた伝奏奉書の発給初見と同一視して、後円融上皇の死没に画期を置いてきた。しかし実際には義満は、永徳三年の後小松天皇大嘗会に際して伝奏奏事始を行い、摂関・内覧に准拠する形で伝奏を支配したこと、それ以降は義満の仰せを奉じた職事・弁官の奉書を用いて自らの意志を示したことを論じている。
第二部「室町幕府の朝廷・寺社支配の展開過程」は、義持~義教期を中心に幕府と朝廷・寺社の関係を検討し、義満期に確立した朝廷・寺社支配の変容を見通すものである。
幕府の権門寺社支配については、南北朝期に強訴の頻発した南都北嶺との関係が注目されてきた。そこで第五章「室町幕府の興福寺統制と南都伝奏」では、南北朝期に強訴を繰り返した興福寺を統制すべく、義満が南都伝奏を介して、興福寺訴訟の処理と大和国人の紛争を抑制する制度を整備したことを示した。しかし義教期の大和永享の乱や嘉吉の乱後の大和の混乱により、幕府の興福寺統制は機能不全に陥っていく。ただし強訴対応のため南都伝奏の設置は、応仁の乱後まで継続したことを指摘している。
一方で権門寺社には、南都北嶺のような大衆や武力組織を持たないものも存在する。幕府とそうした寺社との関係を探るため、第六章「室町期東寺にみる醍醐寺三宝院の政治的位置」では、東寺と幕府の仲介者として活動した三宝院に着目した。そして三宝院は、義満期の幕府訴訟処理制度の閉鎖化に伴い、室町殿と東寺を内々に取り次ぐ仲介者として活動するようになったこと、満済・義賢の二代にわたって東寺取次を確認できること、三宝院のそうした活動は、東寺側の期待感と三宝院の東寺の庇護者としての意識のもとで成り立っていたことを明らかにしている。
第七章「室町期公武祈禱論再考」は、富田正弘氏の着目した祈禱の「伝奏奉書」で寺社に命じられる「公武祈禱」の問題を再検討する。富田氏は「公武祈禱」を治天の主催する国家的祈禱と定義し、伝奏奉書で命じられるこの祈禱を室町殿が開催したことをもって、治天に代位して「王権」を掌握したと評価している。ただし「公武祈禱」が治天の祈禱だったのか、祈禱の「伝奏奉書」の奉者は伝奏だったのかは、必ずしも明らかではない。ゆえに第七章では、「公武祈禱」と呼ばれる祈禱を、史料上の表現から「諸寺諸社祈禱」として分析を行った。そして「諸寺諸社祈禱」は、鎌倉・南北朝期の朝廷・幕府の変異祈禱としては確認できず、義持期の応永二十年代後半に武家祈禱の一類型として成立したと推定した。義持は、応永の外交や応永の飢饉といった社会不安の中で、京都・奈良の顕密寺院・二十二社に変異祈禱を命じる同祈禱を整備したのであり、それは武家祈禱の展開過程に位置づけられるものと評価できる。そして嘉吉の乱後には、諸寺諸社祈禱が朝廷の変異対応としても受容されたことも指摘する。
第八章「足利義持期の武家祈禱と三宝院満済」では、第一章で扱った義満期の武家祈禱が、義持期にどのように継承されたのかを検討する。義持は父義満とは異なり、晩年まで密教祈禱の規模縮小を基本方針としていた。そのため義持は、室町殿近習を祈禱奉行に任じ、三宝院を内々の祈禱奉行とする南北朝期と類似した形で武家祈禱を実施したと考えられる。
第九章「室町殿行事と室町期公家社会」では、将軍家の家行事を一括して取り上げ、そこにおける室町殿家司・家礼の役割を再検討した。義満以後の室町殿は、公家社会の先例に准拠して、昇進儀礼や武家八講、武家祈禱、寺社参詣といった多様な家行事を実施している。そこで本博士論文では、それらの諸行事を「室町殿行事」と定義し、共通する特徴を整理した。その結果、室町殿行事では室町期の朝廷公事と同様、公武共同執行方式を用いた用途支出がなされており、室町殿家礼の務める申沙汰が、儀式伝奏と同じ役割を果たしたことを明らかにした。さらに義教期には、公武交渉に介在する「武家伝奏」が、室町殿行事の申沙汰を一手に引き受けるようになり、室町殿行事専任の儀式伝奏として活動したことを指摘している。
終章「室町幕府による朝廷・寺社支配の成立と展開」では、南北朝期~義満期における室町幕府の朝廷・寺社支配の成立過程を明らかにするとともに、室町幕府のもとで伝奏・三宝院の果たした役割を確認し、最後に課題と展望を示して、博士論文のまとめとする。