本論文は、知的な文学的実践が大衆化してゆく近世中期において、歌舞伎の狂言作者や役者らがどのような文学的環境の中で作劇活動を行ったのかを考察するものである。
本論文は以下の三部からなる。第一部「宝暦期の江戸歌舞伎」では、江戸の狂言作者の壕越二三治が作劇に関与した作品に基づき、劇界内外の人的交流や、先行する歌舞伎、浄瑠璃、文芸、時事を、芝居の素材としてどのように活用し、作劇を行ったのかを考察した。第二部「歌舞伎の音曲」では、近世中期の歌舞伎舞踊の伴奏音楽として隆盛した江戸長唄と豊後系浄瑠璃が、既存の音曲の中からどのように発達し、歌舞伎芝居の作劇に関与したのかを考察した。第三部「歌舞伎と俳諧」では、享保期以後、江戸歌舞伎で流行しはじめる俳諧が、歌舞伎の作劇や文化に何をもたらしたのかを考察した。以下、各部各章ごとの概要を記す。
本論文は以下の三部からなる。第一部「宝暦期の江戸歌舞伎」では、江戸の狂言作者の壕越二三治が作劇に関与した作品に基づき、劇界内外の人的交流や、先行する歌舞伎、浄瑠璃、文芸、時事を、芝居の素材としてどのように活用し、作劇を行ったのかを考察した。第二部「歌舞伎の音曲」では、近世中期の歌舞伎舞踊の伴奏音楽として隆盛した江戸長唄と豊後系浄瑠璃が、既存の音曲の中からどのように発達し、歌舞伎芝居の作劇に関与したのかを考察した。第三部「歌舞伎と俳諧」では、享保期以後、江戸歌舞伎で流行しはじめる俳諧が、歌舞伎の作劇や文化に何をもたらしたのかを考察した。以下、各部各章ごとの概要を記す。
第一部第一章「常磐津「男江口女西行花吹雪富士菅笠」考―富士太郎と廓咄を中心に―」では、番付や役者評判記の記述から、歌舞伎「恋染隅田川」が能『隅田川』『江口』『富士太鼓』の物語の枠組みに、浄瑠璃『五十年忌歌念仏』のお夏清十郎の物語や歌比丘尼の存在、浄瑠璃『粟島譜嫁入雛形』の敵討や雛祭の設定、さらに同年の鹿島神宮の出開帳の件など、多岐にわたる複雑な世界や趣向を内包していることを明らかにした。そしてこれらの複雑な要素を、「富士」尽くしや神仏の霊験譚という主題を設けることで巧みにまとめ上げる点に、二三治の高い構想力が発揮されていることを指摘した。また常磐津節の浄瑠璃所作事「花吹雪富士菅笠」は、享保期以来の芸尽くし的な舞踊の手法を応用し、やつし、仕形、性別の入替、廓咄、見顕しなどの演技様式を組み合わせることで、演者が舞踊を通していくつもの設定を兼ねる重層的な身体表現を見せるような、舞踊劇の一典型を確立したことも明らかにした。
第一部第二章「嵐音八の阿呆芸―歌舞伎「由良千軒蟾兎湊」の由良太郎をめぐって―」では、山庄太夫物の歌舞伎「由良千軒蟾兎湊」の台帳を通して、その内容が先行する浄瑠璃『三荘大夫五人嬢』だけではなく、その設定を進めた歌舞伎「山椒太夫五人踦」や、乳母による身替り劇を見せ場にした歌舞伎「けいせい山桝太夫」、さらに作り阿呆の演技を取り入れた歌舞伎「妋浪由良湊」など、複数の先行作に取材していることを明らかにした。またそうした山庄太夫物の世界に、浄瑠璃『恋女房染分手綱』の世界を綯交ぜにし、『恋女房染分手綱』の道中双六の宿場尽くしの詞章を、擬制で覆い隠した心底をほのめかす掛合のせりふ術として巧みに書き替えることで、身替り劇という悲劇的な主題性を高めていることを明らかにした。さらにそれを演じた初代嵐音八が、二代目市川団十郎が浄瑠璃から取り入れた作り阿呆の演技を応用して演じたであろうことを指摘した。第一部第三章「太申の出資活動とその意義」では、札差商人の太申が歌舞伎芝居へ行った二度の出資と、それを受けて上演された演目を分析することで、太申の自己宣伝と劇場の資金確保の利益が一致するものであったことを確かめた。またそのような戦略的姿勢が、太申その人を戯画化して登場させる富本節の浄瑠璃所作事「里巽太申桜」の詞章や、俳諧、漢学、国学を通じた交友圏においても発揮されていることを明らかにした。また「里巽太申桜」では、能『道成寺』『小鍛治』や狂言『釣狐』、さらに歌舞伎「けいせい浅間嶽」、浄瑠璃『傾城阿波鳴渡』『蘆屋道満大内鑑』に見られる多彩な趣向が、太申が狐に化かされるという主題によって連想的な関係で構成されていることを指摘した。
以上、第一部を通して、壕越二三治の作品には、幅広く多彩な題材や様式を一定の主題によって組み合わせる作劇法の特色が見出せることを明らかにした。
第二部第一章「江戸長唄における謡曲摂取―謡曲引用の方法をめぐって―」では、享保期から明和期までに作曲された江戸長唄二七二曲の謡曲引用の方法を分析し、宝暦期を境に謡曲詞章を卑俗化して引用したり、複数の謡曲を複層的に利用したりと、謡曲の詞章や形式を自在に活用するようになる傾向があることを明らかにした。さらにその傾向が、江戸の各劇場で地謡という職掌が衰退することと相関的な関係にあることも指摘した。
第二部第二章「江戸長唄と豊後系浄瑠璃における謡曲摂取―謡本との詞章比較―」では、歌舞伎で上演された江戸長唄や常磐津節に引用された謡曲詞章と諸流の謡本の詞章とを照合し、参照された謡本は狂言作者によって違いがあることや、小謡本などではなく揃本が活用された可能性が高いことを明らかにした。また第一章の調査対象に常磐津節、富本節、宮古路節などの豊後系浄瑠璃を追加し、それらに引用された謡曲詞章と謡本の詞章とを比較した上で、江戸長唄と同様の謡曲詞章の卑俗化や複層的引用が、豊後系浄瑠璃にも確認できることを明らかにした。またそうした詞章引用の方法と関連し、「謡」の文字譜も自在に活用されるようになることを指摘し、音楽的にも謡曲を江戸長唄の技法の一つとして内面化していることを確かめた。
第二部第三章「拍子舞物の成立と展開」では、従来、芸態に関する見解が定まっていない江戸長唄の拍子舞物という舞踊形式に注目し、その発生に初期歌舞伎以来の小舞や踊歌や、元禄期以来の文作や掛合のせりふ芸、さらに道外形由来の拍子事の芸などが関与していることと、拍子舞物ではそれらが組み合わされた上で、せりふ、音楽、舞踊の順に拍子を発達させるように展開する曲構成となっていることを明らかにした。またこの舞踊形式が長唄のみならず、舞踊劇の伴奏を担った豊後系浄瑠璃の詞章にも見出だせることや、その芸系の成立に市村羽左衛門や市川団十郎らの家の芸が関与していることを指摘した。
第二部第四章「宮薗節の発生―詞章を手掛かりに―」では、宝暦期に宮古路節から独立した宮薗節が自流の詞章本集として編んだ『宮薗雲井桜』を分析し、新曲として宝暦期に初演された義太夫節を編曲して作られた段物三曲と、原曲である義太夫節の正本とを比較して、宮薗節の段物は義太夫節の詞章にある人物名や場所を捨象し、クドキの部分を長大化させていること、その詞章には一定の型があることを明らかにした。またその編曲の手法は、歌舞伎で伴奏をつとめた演目を段物のように編曲する際にも応用されていることを確かめた。さらにそれらの作曲にあたっては、義太夫節には用いられていない江戸節系や豊後系浄瑠璃の旋律も利用していることを明らかにした。
以上、第二部を通して、江戸の長唄や豊後系浄瑠璃が謡曲やせりふ芸を、上方の宮薗節が義太夫節を曲の題材として利用してゆく過程で、それらの詞章型や音楽的特徴を内面化しながら、新たな曲や表現形式を生み出してゆくことを明らかにした。
第三部第一章「役割番付における俳諧―藤本斗文と二代目津打治兵衛の手法―」では、享保期以後の役割番付のカタリや名題、割書に俳諧の発句が引用される事例を調査し、其角をはじめとする江戸座系宗匠の発句が、元の句意を離れて芝居のあらすじや登場人物を暗示する仕掛けとして用いられていることを明らかにした。さらに藤本斗文は其角句を偏重し、二代目治兵衛は暗示したい内容に合わせて既存の句を書き替えたり自作の句を据えたりする傾向にあることを指摘した。
第三部第二章「江戸歌舞伎と俳諧の交流―『古今役者四季発句合』をめぐって―」では、歌舞伎役者を俳名で呼ぶ慣習の定着が延享頃であったことや、『古今役者四季発句合』が宝暦四年末から翌五年の四代目市川団十郎襲名の機運の中で製作された可能性が高いことを指摘した。そして享保期に二代目団十郎を中心に一部の役者の間で興った俳諧趣味が、延享期に劇界内外に浸透し、宝暦期には団十郎贔屓や私家版製作といった贔屓文化の醸成にまで関与しているという、歌舞伎における俳諧文化の史的展開を提示した。
第三部第三章「歌舞伎と絵入り俳書―『役者手鑑』『役者発句占』をめぐって―」では、第二章で指摘した贔屓文化が大書肆の出版にまで波及し、本格的な贔屓文化の確立と連動するように『役者手鑑』『役者発句占』などの絵入り俳書が出版されていることを明らかにした。さらにそれらの俳書には、既存の俳書にはない知的な遊戯性も取り入れられており、遊戯絵本の出版文化も深く関係していることを指摘した。
以上、第三部では俳諧が享保期以後に出版を通して大衆化してゆく贔屓文化や遊戯文化に支えられながら、歌舞伎の新たな文学的要素に加わってゆく史的推移を明らかにした。
以上により、本論文では近世中期の歌舞伎芝居の演目や音曲、せりふ、番付の分析によって、それらに取り込まれている浄瑠璃、謡曲、俗謡、小説、俳諧、時事と、それらを通した人的交流を含む作劇環境の多彩さを浮き上がらせた。同時に、それらを綯交ぜや仕組みといった手法を用いて複雑に取り合わせる作劇法が、伴奏音曲の発達や俳諧の文学性の獲得によって確立していった可能性を示した。