私は、これまでの自由論論争は誤った――少なくとも、適切でない――方法論の下で展開されてきた、と考えている。とりわけ、そうした方法論の下で「自由」が論じられることによって、本来あるべき「自由」理解が歪められ、また本来「自由」が持ちうる多様で豊饒な価値の可能性が不当にも軽視、看過されてきたと考えている。本稿の目的は、私が「責任ベースの自由論」と呼ぶ従来の方法論を批判した上で、それに代わる、「常識ベースの自由論」と私が呼ぶ方法論を提案し、その方法論の下で自由の存在と価値を体系的に探究することである。以下で、各章の議論の概要をまとめる。
従来の自由論論争において、自由概念は、もっぱら「道徳的責任」概念との密接な関わりの下で論じられてきた。第一章で私はこの方法論、ないし論争的スタンスを「責任ベースの自由論」と名付け、その内実を、次の二つのテーゼの連言として特徴づけた(第一節)。
必要条件テーゼ:自由とは、道徳的責任に必要な種類のコントロール、ないし能力である。
第一義性テーゼ:道徳的責任に関連する意味での「自由」こそが、哲学的探究に値する自由である。
第一章の前半(第二節、第三節)は、この二つのテーゼの批判的検討に充てられる。第二節で私は、必要条件テーゼは論争の出発点として取り決められる前提ではなく、むしろ論証を通じて支持されたり棄却されたりする実質的な哲学的命題として理解されるべきである、という主張を、相互に独立な三つの議論を提示することで擁護した。第三節では、第一義性テーゼが偽であることを示す議論を提示した上で、論争においてこのテーゼが暗黙裡に前提されてきたことを、「フランクファート型事例」と呼ばれる有名な思考実験の論争的影響という観点から明らかにする。最後に第四節では、従来の方法論に代わる新たな方法論として、私が「常識ベースの自由論」と呼ぶ方法論を提案する。常識ベースの自由論は、考察の出発点として次の自由理解を採用する。
選択テーゼ:自由とは、行為者が自分の意志で行為を選択する能力である。
本稿の第一の課題は、選択テーゼによって表現される自由概念の内実を解明し、それが決定論の真理と両立可能であるか否かを論じることである。これはいわば、自由の「存在」をめぐる形而上学的探究である。第二章から第四章にかけて、自由の「存在」の問題を扱うこととする。私は一連の議論を通じて、決定論的な世界において私たちは自由でありうるという「両立論」の立場を擁護する(各章の詳細は下記)。
第二章では、まず自由に関連する能力概念を、「内在的能力」(行為者の行為遂行の内在的要件)と「機会」(行為遂行の外在的要件)とから構成される「包括的能力」として特定する。すなわち、自由概念の十全な理論は内在的能力と機会の双方の分析を含む必要がある。次に内在的能力の分析として、古典両立論による条件文分析を取り上げ、その難点を確認した後に、その現代的な後継理論であるカドリ・ヴィヴェリンの「傾向性両立論」を検討する(Vihvelin 2013)。その検討を通じて私は、ヴィヴェリンの理論は古典両立論が直面したいくつかの困難を回避できている点で優れているものの、とりわけ「選択能力」の分析という点で不十分であると指摘する。その理論的欠陥を補完し、より十全な傾向性両立論の理論を構築することが第二章の最終的な目標である。
第三章では、包括的能力のもう一つの要素である「機会」概念の分析を行う。機会の分析は第二節で詳論するように、「自由と決定論の両立可能性」という自由論の最重要課題と私が定める論点と関連する。まず第一節では、有名なピーター・ヴァン・インワーゲン(van Inwagen 1983)による帰結論証と呼ばれる非両立論の論証を提示し、議論の方向性を明確化する。さらに第三節では、帰結論証のアイデアを援用しつつ機会と決定論の両立不可能性を説得的に論じたクリストファー・フランクリンの「無機会論証」を提示する(Franklin 2018)。第四節で、機会の「文脈主義」と私が呼ぶ見解を擁護し、この機会理解の下でフランクリンの議論に対して両立論的な見地からの応答を試みる。
第四章では、両立論に対する最大の挑戦として、ダーク・ペレブームらによって提起された「操作論証」を主題的に検討する(Pereboom 2014)。操作論証とは、行為者が秘密裏に操作される事例(操作ケース)と通常の決定論的な事例(決定論ケース)との間の類比性を示唆することで、決定論下の行為者が自由や道徳的責任を持たないことを示そうとする論証である。私は操作論証の原理的・方法論的な難点を示すことを通じて、操作論証を退けることを目指す。この章の議論をもって、両立論的見解の確立という私の第一の目標は完遂することとなる。
第五章、第六章では転じて、自由の「価値」をめぐる問いを考究する。第五章は、必要条件テーゼの検討に充てられる。具体的には、他行為能力が道徳的責任に必要であるという原理(PAP)の反例として提起された「フランクファート型事例」(cf. Frankfurt 1969)の批判的検討を通じて、他行為能力としての自由は道徳的責任の必要条件であるという主張——必要条件テーゼ――の擁護を試みる(従来の「責任ベースの自由論」では、必要条件テーゼは議論の取り決め上真なる命題として前提されてきたのであるから、必要条件テーゼの真偽を検討すること自体が論争的に新奇な試みであることを強調しておきたい)。この章で私は、「非難」実践の本性に着目し、とりわけ非難は他者への「道徳的要請」を含むという見解を動機づけることによって、フランクファート型事例における行為者は(一見した直観に反して)彼の行為に対して道徳的責任を負わない(非難に値しない)のだ、という結論を導く議論を提示する。
第六章の主題は、道徳的責任とは独立の観点から、自由の価値を彫琢することである。まず第一節では、選択テーゼによって表現される自由は、私が「自己表出的」と呼ぶ側面を有することを指摘する。すなわち、自由な選択は、他でもないその選択肢を主体が選び取ったという限りにおいて、その人の在り方――思想や価値観や生き様――を表出する。さらに、自由のこの自己表出性は、主体の自己理解に寄与し、主体の在り方を部分的に形作る契機となりうるという点で、「自己構成的」な側面を含意するという点を論じる。次に第二節では、自由の自己表出的・自己構成的側面を論じた哲学者としてJ・M・フィッシャー(Fischer 1999)とロバート・ケイン(Kane 1996)を取り上げ、批判的に検討することで私自身との見解との異同を明らかにする。第三節ではいよいよ、自己表出としての自由は私たちの「人生の意味」に重要な寄与を果たす点で比類ない価値を有する、という見解を導く議論を提示する。その際、近年注目されている「達成」という概念に定位して、議論を展開することとしたい。
第五章、第六章の議論を通じて、自由は(従来の論争で前提視されてきたように)道徳的責任の基礎づけという役割を果たす点のみならず、私たちの自己理解や、ひいては人生の意味に対しても重要な寄与を果たしうるという点においても重要であることが示される。私の一連の議論は、従来の論争において「道徳的責任のレンズを通して」のみ語られがちであった自由の価値に対して、新しい視座を提供するものであると期待する。
参考文献
Fischer, J. M. 1999. “Responsibility and Self-Expression”, The Journal of Ethics 3: 277-297.
Frankfurt, H. 1969. “Alternate Possibilities and Moral Responsibility”, Journal of Philosophy 66: 829-39. 〔三ツ野陽介訳「選択可能性と道徳的責任」, 門脇俊介、野矢茂樹編『自由と行為の哲学』所収, 春秋社, 2010〕
Franklin, C. 2018. Minimal Libertarianism, Oxford: Oxford University Press.
Kane, R. 1996. The Significance of Free Will, Oxford: Oxford University Press.
Pereboom, D. 2014. Free Will, Agency, and Meaning in Life, New York: Oxford University Press.
van Inwagen, P. 1983. An Essay on Free Will, Oxford: Clarendon Press.
Vihvelin, K. 2013. Causes, Laws, and Free Will, Oxford: Oxford University Press.
従来の自由論論争において、自由概念は、もっぱら「道徳的責任」概念との密接な関わりの下で論じられてきた。第一章で私はこの方法論、ないし論争的スタンスを「責任ベースの自由論」と名付け、その内実を、次の二つのテーゼの連言として特徴づけた(第一節)。
必要条件テーゼ:自由とは、道徳的責任に必要な種類のコントロール、ないし能力である。
第一義性テーゼ:道徳的責任に関連する意味での「自由」こそが、哲学的探究に値する自由である。
第一章の前半(第二節、第三節)は、この二つのテーゼの批判的検討に充てられる。第二節で私は、必要条件テーゼは論争の出発点として取り決められる前提ではなく、むしろ論証を通じて支持されたり棄却されたりする実質的な哲学的命題として理解されるべきである、という主張を、相互に独立な三つの議論を提示することで擁護した。第三節では、第一義性テーゼが偽であることを示す議論を提示した上で、論争においてこのテーゼが暗黙裡に前提されてきたことを、「フランクファート型事例」と呼ばれる有名な思考実験の論争的影響という観点から明らかにする。最後に第四節では、従来の方法論に代わる新たな方法論として、私が「常識ベースの自由論」と呼ぶ方法論を提案する。常識ベースの自由論は、考察の出発点として次の自由理解を採用する。
選択テーゼ:自由とは、行為者が自分の意志で行為を選択する能力である。
本稿の第一の課題は、選択テーゼによって表現される自由概念の内実を解明し、それが決定論の真理と両立可能であるか否かを論じることである。これはいわば、自由の「存在」をめぐる形而上学的探究である。第二章から第四章にかけて、自由の「存在」の問題を扱うこととする。私は一連の議論を通じて、決定論的な世界において私たちは自由でありうるという「両立論」の立場を擁護する(各章の詳細は下記)。
第二章では、まず自由に関連する能力概念を、「内在的能力」(行為者の行為遂行の内在的要件)と「機会」(行為遂行の外在的要件)とから構成される「包括的能力」として特定する。すなわち、自由概念の十全な理論は内在的能力と機会の双方の分析を含む必要がある。次に内在的能力の分析として、古典両立論による条件文分析を取り上げ、その難点を確認した後に、その現代的な後継理論であるカドリ・ヴィヴェリンの「傾向性両立論」を検討する(Vihvelin 2013)。その検討を通じて私は、ヴィヴェリンの理論は古典両立論が直面したいくつかの困難を回避できている点で優れているものの、とりわけ「選択能力」の分析という点で不十分であると指摘する。その理論的欠陥を補完し、より十全な傾向性両立論の理論を構築することが第二章の最終的な目標である。
第三章では、包括的能力のもう一つの要素である「機会」概念の分析を行う。機会の分析は第二節で詳論するように、「自由と決定論の両立可能性」という自由論の最重要課題と私が定める論点と関連する。まず第一節では、有名なピーター・ヴァン・インワーゲン(van Inwagen 1983)による帰結論証と呼ばれる非両立論の論証を提示し、議論の方向性を明確化する。さらに第三節では、帰結論証のアイデアを援用しつつ機会と決定論の両立不可能性を説得的に論じたクリストファー・フランクリンの「無機会論証」を提示する(Franklin 2018)。第四節で、機会の「文脈主義」と私が呼ぶ見解を擁護し、この機会理解の下でフランクリンの議論に対して両立論的な見地からの応答を試みる。
第四章では、両立論に対する最大の挑戦として、ダーク・ペレブームらによって提起された「操作論証」を主題的に検討する(Pereboom 2014)。操作論証とは、行為者が秘密裏に操作される事例(操作ケース)と通常の決定論的な事例(決定論ケース)との間の類比性を示唆することで、決定論下の行為者が自由や道徳的責任を持たないことを示そうとする論証である。私は操作論証の原理的・方法論的な難点を示すことを通じて、操作論証を退けることを目指す。この章の議論をもって、両立論的見解の確立という私の第一の目標は完遂することとなる。
第五章、第六章では転じて、自由の「価値」をめぐる問いを考究する。第五章は、必要条件テーゼの検討に充てられる。具体的には、他行為能力が道徳的責任に必要であるという原理(PAP)の反例として提起された「フランクファート型事例」(cf. Frankfurt 1969)の批判的検討を通じて、他行為能力としての自由は道徳的責任の必要条件であるという主張——必要条件テーゼ――の擁護を試みる(従来の「責任ベースの自由論」では、必要条件テーゼは議論の取り決め上真なる命題として前提されてきたのであるから、必要条件テーゼの真偽を検討すること自体が論争的に新奇な試みであることを強調しておきたい)。この章で私は、「非難」実践の本性に着目し、とりわけ非難は他者への「道徳的要請」を含むという見解を動機づけることによって、フランクファート型事例における行為者は(一見した直観に反して)彼の行為に対して道徳的責任を負わない(非難に値しない)のだ、という結論を導く議論を提示する。
第六章の主題は、道徳的責任とは独立の観点から、自由の価値を彫琢することである。まず第一節では、選択テーゼによって表現される自由は、私が「自己表出的」と呼ぶ側面を有することを指摘する。すなわち、自由な選択は、他でもないその選択肢を主体が選び取ったという限りにおいて、その人の在り方――思想や価値観や生き様――を表出する。さらに、自由のこの自己表出性は、主体の自己理解に寄与し、主体の在り方を部分的に形作る契機となりうるという点で、「自己構成的」な側面を含意するという点を論じる。次に第二節では、自由の自己表出的・自己構成的側面を論じた哲学者としてJ・M・フィッシャー(Fischer 1999)とロバート・ケイン(Kane 1996)を取り上げ、批判的に検討することで私自身との見解との異同を明らかにする。第三節ではいよいよ、自己表出としての自由は私たちの「人生の意味」に重要な寄与を果たす点で比類ない価値を有する、という見解を導く議論を提示する。その際、近年注目されている「達成」という概念に定位して、議論を展開することとしたい。
第五章、第六章の議論を通じて、自由は(従来の論争で前提視されてきたように)道徳的責任の基礎づけという役割を果たす点のみならず、私たちの自己理解や、ひいては人生の意味に対しても重要な寄与を果たしうるという点においても重要であることが示される。私の一連の議論は、従来の論争において「道徳的責任のレンズを通して」のみ語られがちであった自由の価値に対して、新しい視座を提供するものであると期待する。
参考文献
Fischer, J. M. 1999. “Responsibility and Self-Expression”, The Journal of Ethics 3: 277-297.
Frankfurt, H. 1969. “Alternate Possibilities and Moral Responsibility”, Journal of Philosophy 66: 829-39. 〔三ツ野陽介訳「選択可能性と道徳的責任」, 門脇俊介、野矢茂樹編『自由と行為の哲学』所収, 春秋社, 2010〕
Franklin, C. 2018. Minimal Libertarianism, Oxford: Oxford University Press.
Kane, R. 1996. The Significance of Free Will, Oxford: Oxford University Press.
Pereboom, D. 2014. Free Will, Agency, and Meaning in Life, New York: Oxford University Press.
van Inwagen, P. 1983. An Essay on Free Will, Oxford: Clarendon Press.
Vihvelin, K. 2013. Causes, Laws, and Free Will, Oxford: Oxford University Press.